事務所便り

戦争体験と弁護士

| 2019年9月12日

以下は、昨年60周年を迎えた春秋会(大阪弁護士会7つの会派の一つ)が発刊した60周年記念誌の「戦争体験と弁護士」という特集に掲載された赤沢敬之弁護士のインタビュー記事です。8月も終わり、すでに9月に入りましたが、一弁護士の戦争体験としてお読みいただければ幸いです。(インタビュアー 河村利行弁護士)

 

1.先生がお生まれになったのは?

「1936(昭和11)年2月8日に四国徳島の鳴門で生まれました。終戦の時は、9才で小学校4年生でした。」

 

 

2.戦時中のご体験は?

「昭和16年10月に、父親が上海で自動車修理工場をしており、仕事が軌道に乗ったということで、母親と祖母、妹3人が一緒に上海に行きました。神戸から豪華客船2万トンの大洋丸に乗船し、親戚の見送りがあり、2日かけて行きました。」

「昭和17年4月に上海第6国民学校に入学し、上海の共同租界で生活しました。その当時は日本も元気なころでした。近隣には、中国の家族も普通に生活しており、仲良くしていました。しかし、家の近くの上海北駅で抗日の爆破事件があったことは家の2階から見てびっくりしました。太平洋戦争が始まると、学校では軍事訓練(竹槍や手旗・モールス信号)をしたことを覚えています。」

「共同租界ですので、戦争の情報なども正確に伝わるのか、昭和19年になると、父が『日本は負ける』という情報を伝え聞いたようです。」

 

Hongkou Japantown(Wikipediaより)

 

「そこで、昭和19年10月、国民学校3年の時に日本に帰国することになりましたが、帰国の許可がなかなか下りなかったということでした。父親は、帰国の許可が下りず、また、現地の工場の整理もあって、家族だけで帰国し、父親は上海に残りました。夜の上海港の埠頭で、父と永久の別れかもしれないと子ども心に思ったことを記憶しています。」

「帰りは6千トンの軍用貨物船で、船底に茣蓙を引いて雑魚寝で、夜は灯火管制で停泊しながら、米軍機の攻撃や魚雷・水雷を避け、海岸沿いを通って1週間かかり門司港に帰ってきました。上海にはあまり緑がなかったので、門司港の緑豊かな山河が鮮烈でした。」

 

現在の関門橋と門司港

 

「甲板に皆が集められ、船長から、万一の時(船を沈められたような場合は)は、なんとかして子どもを船の外に投げ出せ、それを船員が助けるというような話があったことが印象に残っています。因みに、往路の大洋丸も帰りの軍用貨物船も敗戦までに沈没させられています。命からがらの帰国でした。」

「帰国後は、徳島の農村の父親の実家の納屋で生活することになり、その後、海岸近くの町の住宅街に移りました。帰国時は8才で、地元の国民学校3年生に転校しました。」

「納屋から一軒家に移りましたが、徳島の田舎町でしたので、空襲等の経験はありませんが、灯火管制はあり、また防空壕も空き地に作りました。徳島市内が空襲され、焼夷弾が落とされているのが遠くから見えました。農村の畔道で、米軍の飛行機に追いかけられましたが、子どもと見て飛び去ったことは覚えています。」

 

3.先生は敗戦をどのように迎えられましたか。

「昭和20年8月15日は、小学校4年生でしたが、海水浴のため海岸への道を歩いているときに、三木武吉の別荘から玉音放送が流れてくるのを聞きました。それが、終戦の放送であることは、子どもながらになんとか理解できました。」

「学校での生活も変わり、教科書を墨塗りにしたり、講堂の奥に隠された「ご真影」もなくなり、先生の態度が柔らかくなった思い出があります。校庭に生徒が集められて、新しい憲法の話もあり、昭和22年中学1年のときには、「あたらしい憲法のはなし」という冊子が社会科の教材として配られました。ずいぶん変わったのだなと思った記憶があります。」

 

『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。(Wikipediaより)

 

「昭和21年4月に、父親が思いがけなく帰国してきました。昭和22年に大阪で仕事を始めることになり、母親が小さな弟博之(24期・春秋会)だけを連れて大阪に出て、父親の手伝いをしておりました。」

「私が大阪の天王寺に出てきたのは、昭和24年の春、中学2年生になるときでした。四天王寺の近くが焼け野原になっているのを見て、衝撃を受けました。家族全員が大阪で生活するようになったのは、昭和25年になってからでした。」

 

空襲後の大阪市街(Wikipediaより)

 

4.先生の戦争体験は、のちに弁護士になられたこと、または、弁護士になった後の弁護士の仕事の内容と関係がありますか。

「少年時代にリンカーンの伝記を読んだり、佐藤紅緑の少年熱血小説に親しみ、何か人のために役立つことをしたいという思いは、ずっと持っていました。勿論具体的な弁護士像などは知る由もなく、大学進学の頃に法学部コースを選んだ頃から漠然と憧れを抱くようになったのではと思います。戦争体験は、平和や憲法に対する思いの基礎になっていると思います。」

 

ああ玉杯に花うけて 少年倶楽部名作選 (講談社文芸文庫)

 

「昭和36年に弁護士となり、昭和27年6月に発生した朝鮮戦争に対する米軍の軍事物質輸送に反対するデモ行進参加者を大量に逮捕し、騒擾罪で起訴をした吹田事件の主任弁護人山本治雄先生の事務所に入りました。当時若手の石川元也・井関和彦・阿形旨通(故人)先生ら常任弁護団の事務局長として度々合宿し、膨大な事件記録と格闘した青春の日々は私の原点となっています。幸いこの事件は一審無罪が最高裁で確定しました。」

 

吹田事件を扱った雑誌の記事(Wikipediaより)

 

5.第二次世界大戦をどう思いますか。戦争体験が風化している現状についてどう思われますか。

「朝鮮・中国からアジアに資源の確保を狙って日本が行った戦争が侵略戦争であったことは間違いないのであり、そのことを忘れず、若い皆さんに戦争体験を伝えていかなければならないと思います。」

「ともかく戦争は一般市民にとっていいところはなく、特に核戦争時代の現代は一触即発で国家そのものが破滅する危険にさらされています。なんとしてもそのような事態を食い止めるため、戦争の危機感を無暗に煽る政治勢力の跋扈を許さない意思と行動を選挙などで示したいものです。」

 

6.現在憲法70年経過して憲法をどう思われますか。現在の憲法改正の議論をどのように考えておられますか。

「自分の在職中に憲法9条を改正したいという首相の思いのみで、拙速に改正を議論するのは誤りです。アジアへの侵略戦争の反省もなく、アメリカの世界戦略に呼応して、自衛隊の海外派遣の道を大幅に開く可能性のある「改正案」は許してはならないと思います。幸い国民の大半は憲法改正は望んでいませんが、狡猾な手法での既成事実の積み重ねには警戒しなければなりません。」

(春秋会60周年記念誌より)

 

事務局

ニュースレター令和元年夏号を発送しました

| 2019年8月28日

こんにちは!相続アドバイザーでニュースレター担当の赤澤秀行です。

昨年の夏に創刊しました弊事務所のニュースレター「事務所だより」、おかげさまで2年目に突入です。令和最初の手作りニュースレター第4号、本日無事発送いたしました。

これまで当事務所とご縁のあった方々にお送りしております(うちに来てないよ、という方はどうぞご一報ください!)。

確か、前号発行時に「令和第1号からは紙面を新たに刷新する予定です」と書いたのですが、実際に刷新できたのは一部のみ・・・。なかなか新しいことを始めるのは大変です(汗)。

とはいえ、次号からも少しずつ紙面を充実させていきますので、長い目でお見守りいただければ幸いにございます。m(_ _)m

目標の10号まであと6号。次回は令和2年新春にお送りする予定です!

投稿なども受け付けておりますので、今後とも宜しくお願いいたします!(*^^*)

赤澤秀行

疎開のころ

| 2019年5月27日

新元号が発表されたのを見て考えてみました。若し年号というものが、時の流れの中で何らかの区切りの役割を持つとするのであれば、一九四五年の戦争終結は、別の結節点としての意味を持つのではないか。今その頃を振り返って若干の思い出を誌す試みも、あながち無意味でもないのではないかと。小学校四年生当時の昔話ですが、ご笑読下されば幸いです。

*  *  *

初秋の晴れた朝、神戸駅を発った生徒たちは、たぶん初めての単線を走る蒸気機関列車の窓から見なれぬ風景に驚きながら、姫新線の津山駅に着いた。その日から四年生、五年生、六年生の男子生徒と先生方は、お寺の広間での集団生活が始まった。

 

三年前の一九四五年(昭和16年)12月8日に英国や米国との戦争が始まり、戦況が進むうちに、いつなんどきの敵機の神戸来襲に備えて、少国民の命を考えて、親たちのもとを離れる学童の集団疎開となり、中国山地にある津山のお寺での集団生活が始まることになった。

 

日当たりの良い畳敷の長い空間が生徒たちの起居と食事や放課後の生活の場となった。お寺の前庭での朝礼は、五つの班(小隊)に分かれた生徒たちの点呼から始まる。五つの班を統率する中隊長はIさんである(神戸の校区では黒潮会という小学生の早起き会があり、海軍体操と呼ばれる、やや程度の進んだ体操が毎朝行われ、その会長はIさんであった)。朝の体操の前に天皇陛下のおわす宮城への遥拝があったかどうかははっきり覚えていない。時には行軍の練習があったり、白と赤の旗を持って手旗通信の練習もなされた。また、モールス信号の(イ)・-、(ロ)・-・-、(ハ)-・・・(イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ)、などの暗誦用長音「-」、単音「・」の意味が判りはじめていた。

 

夕食は、本堂の前の横に長い空間の長机に並んで、K先生の唱導で「一滴の水は天地御徳の潤い、一粒の米は万人労苦のたまもの、一口ごとに国の恵みと親のご恩を噛みしめて有難くいただきます。」と唱和して始まった。

 

食後には歌の発表もあり、流行歌や軍歌などが次々と出るようになり、「予科練のうた(若い血汐の予科練の七つボタンは桜に錨・・・)」は、よく歌われた。同級生のT君は、背を丸めておとなしかったが先生に当てられると、おおらかな声で終わりまで野崎小唄を歌ってくれた。はじめて聞かされ、今でも覚えている(野崎まいりは屋形船でまいろ。お染久松せつない越えて・・・)。T君はおばあちゃん子で、家でよく歌になじんでいたのかもしれない。第五班の班長のAさんは、「ルンペンの歌」を歌ってくれた(酔った酔ったよ五勺の酒で・・・すっからかんの空財布ふってもルンペン呑気だね。)。

 

四年生の授業は、第三小学校三階の図書室で行われたように思う。国史の時間では、神武天皇の始まり、スイゼイ、アンネイ、イトク・・・オウジン、ニントク・・・明治、大正、今上(昭和)天皇に至る一二四代の暗誦が試みられたが皆難しかった(もとより、平成、令和などはない。)。唱歌では、Y先生が「昼」という歌を教えて下さった。今でも口ずさむことがある。「歌に疲れ、文に倦みて、たづさえ行くや春の野、小川のね芹、おし分け逃ぐる小鮒の腹白く光る。」勉強を離れてゆっくりしなさい、との声かもしれない。

 

放課後であったのか休日であったのか、班の子たちが川向こうの広々とした野を散策していた折のこと、N君は野壺にはまってしまい、べそをかきながらお寺の井戸端でおばあちゃん(住職のお母さん)から釣瓶の水を何ばいも浴びせられ、閉口していた。

 

無口なM先生は絵の受持であり、がんさい(石絵具)を使い、よく部屋で私たちの生活を画いて下さった。ある日のこと、お寺を抜け出して鉄道線路伝いに神戸へ帰ろうと寺を出た少年がいた。M先生は探しに寺を出て、どうやって見つけられたのか、「○○○○オッタ、マエダ」という電報が寮母さん(住職の奥さん)のところに届き、みな安心することができた。虱がわいて児童に拡がっていた。身に覚えがないと信じていた僕もみんなの前で下着を脱いでみると果たして虱が出てきた。仲間のシャツ、パンツはお寺の大きな窯で茹でられることになった。両方の親指の爪で卵や虫をプツンと潰したりが上手になったが、下着の裏側や親が編んだ毛糸シャツの網目ごとに産みつけられている卵には往生した。

 

親の面会があった児童は、仲間から羨ましがられた。面会の時に貰ったお金で疎開の児童はその頃外で食べ物を買える店が見つけられず、ひもじさ凌ぎに薬局店で噛みでのあるワカモト、ビオフェルミンなどの消化剤の錠剤を買ってきて、それを噛み飢えを凌いだ気になっていた。錠剤用のガラスびんは、取り集めた虱の容器となった。それまで親の面会がなかった僕は、自分はホン子(実の子)ではないのでは、と葉書きに書いたのを受け取った父は、数日後、汽車の切符の配給を受けて、積雪のことを思い編み上げ靴を履いて会いに来てくれた。持ってきてくれたハッタイ粉や干し芋は有難かった。

 

その後、戦局は悪化し、姫新線の中心市であるこの津山も到頭敵機の襲来を受けるのではないかということで、疎開児童は一駅西にある院の庄という駅から山奥に入った極楽寺へ再疎開をすることとなった。先生も減って、K先生とだんご鼻のY先生二人となった。K先生のあだ名はカッパで、野外を歩くとき蜂が飛ぶのを見ると、糸をつけ巣を見つけると蜂の子を採って蜂の子めしを作るのだ、などと話してくれた。一年生の時からずっと音楽を受け持ってこられた。極楽寺を下って麓の農協からリヤカーを押して叺(かます)一俵の大麦を大切に寺へ運んだりした。

 

院の庄の学校の講堂で兵隊さんの慰問にと二人の生徒が即興で漫才を演じたこともあった。稲刈の頃の一日、疎開児童が村の人家に一夜分宿して腹いっぱい食べさせてもらったことがある。村のUさんの家で牛の肉などが煮込まれ、それをしこたまいただいて泊まった夜中に、食べ過ぎたお腹のものを牛小屋の敷藁の中に吐瀉したのを恥ずかしく覚えている。
極楽寺で風雨の激しい(台風?)翌日には、すぐ下の池のまわりの土に鮒などがあがって腹を見せていた。これがバケツに満ち、みんなで焼いて食べる。その時は骨も目玉も食べつくし、皿の上には何も残らなかった。疎開生活を通じ焼きたての魚を食べたのは、この時だけだったかもしれない。

 

何となく日本が戦争に負けたらしいと伝わっていたある日、お寺の若様が復員された。予科練からと聞いていた。境内や川原でボールを放り投げたり、捕球を教わっていた。
それからしばらく後のこと、とうとう学童疎開が終わることになった。そして、ある日、疎開の生徒たちは津山駅近くの吉井川の川辺で列車の出発を待っていた。そのとき、五年生になっていた私たちは、もうこれ切り会えないものと思った。津山で撮ったわずかの写真を見せ合っていた生徒たちもいた。

 

とっくに暗くなって列車が神戸駅に着くと辺りは真暗であった。親の迎えを受けたあと生徒たちはそのまま別れ別れとなった。町は真暗闇で焼跡の地面が拡がっていて、道すがらガスの漏れた匂いが暗闇の中で蘇った。

 

このような姿で疎開の時は終りとなった。          (弁護士 浦島三郎)

 

(ニュースレター平成31年春号より)

事務局

平成から令和へ

| 2019年5月23日

旧事務所のホワイトビル

昭和が平成に変わった1989年、私は29歳、弁護士3年目で、“独身貴族”を謳歌していました。それから30年、一番の身上の変化は、結婚して、子どもも3人出来たこと。一番上の長男はもう社会人になりました。子を持って初めて分かったことも多いように思います。

そして、弁護士生活は33年目に入りました。平成の30年間は弁護士として過ごしたことになります。初めの頃は、ただひたすら依頼を受けた事件を終わらせるのに四苦八苦でしたが、弁護士という職業を30年以上続けてきて、奥の深い仕事であるとの感がますます強くなっています。

弁護士の仕事は、少々ニヒルな言い方をすれば、人同士の喧嘩の肩代わりという側面もありますが、それだけではつとまらない。その紛争をどのように解決することが、依頼者はもちろん、場合によっては事件の相手方を含めた全ての関係者にとって一番よいのか、そのことを考えていないと、いい仕事はできないように思います。

平成の間に事件の依頼を受けた依頼者の方々もかなりの数になります。事件の依頼を受けるということは、その人の人生になにがしかの関わりをもつということ、事件が解決することにより、その人の人生が良い方向に向かったのであれば、弁護士として喜ばしいことです。

時代はこれから令和に向かいます。新しい時代の到来とともに、法律紛争はますます複雑になることが予想されます。しかし、人と人との関係の基本は変わらないはず。したがって、弁護士に必要とされることの基本も変わらないはずです。気持ちを引き締めて、新しい時代を迎えたいと思います。

(ニュースレター平成31年春号より)

井奥圭介

事務所の年輪

| 2019年5月20日

去る4月1日、平成天皇の退位と新天皇の就位に伴う新元号が発表され、5月1日から「令和元年」が始まることとなった。

元来、元号は単なる時間の区切りを表すのではなく、中国の紀元前の前漢時代の武帝が統治の道具として使い始めたもので、わが国も「大化」に始まり、明治以降は「一世一元」の制度として国民統治の機能を果たしてきたが、国民主権の現憲法下においてもその仕組みを維持しつつ、そうした意味合いを払しょくした一定の時の流れいわば「時代」を象徴する道具として活用されている。

公文書では、時の表現として元号が使用され、国際化時代の現代では西暦の表示も併用されている。時の政府の民意無視と復古への憧れが際立つ昨今の政治の流れにおいて、新元号が発祥の時代への里帰りを象徴するものとして利用されないことを強く期待するものである。

 さて、そうした意味で、「平成」から「令和」への移行に際し、私たちの事務所の「年輪」を語っておきたい。

 私が、事務所創立者の山本治雄先生の事務所に入ったのが、昭和36年(1961)4月、司法研修所を出たばかりの「苗木」であった。修習の頃、弁護教官から、アメリカの弁護士の理想的なモデルとして、「仕事は自由に、暮らしは不自由ではないが、莫大な遺産は残さない」と聞かされたことがあり、これをモットーとして出発して以来、樹齢58年の年輪を数えた。元号を適用すると、昭和時代28年、平成時代30年となる。

思えば、高度成長期からバブル崩壊の前半期から停滞と格差拡大、分断の後半期に分かれるが、昭和時代には、昭和43年(1968)から辻公雄弁護士、同50年(1975)から三木俊博弁護士、同56年(1981)から河村利行弁護士が、それぞれ6,7年間事務所に在籍し、また昭和62年(1987)から後半の平成時代30年間を井奥圭介弁護士が事務所を支えてくれた。そして、大学駒場寮で同室であった浦島三郎元裁判官が平成18年(2006)に入所し現在に至る。 

いずれの弁護士も個性豊かで、理論派と実践派という傾向の違いはあっても、自由闊達な仕事ぶり、徒に金銭欲に走らない事件処理や弁護士会活動など社会的活動を通じて、事務所の年輪だけでなく姿形のよさを保持してくれたことに感謝したい。

これから始まる「令和」の時代に、果たして事務所の年輪と姿はどのようになるのか、私も生涯現役の覚悟で努力を重ねたいと念じている。

(ニュースレター平成31年春号より)

赤沢敬之

ニュースレター平成最終号を発送しました

| 2019年4月24日

こんにちは!相続アドバイザーでニュースレター担当の赤澤秀行です。

今年の夏に創刊しました弊事務所のニュースレター「事務所だより」、平成のうちに第3号をと、いうことで準備してきましたが、本日なんとか無事に平成最終号を発送することができました。

これまで当事務所とご縁のあった方々にお送りしております(うちに来てないよ、という方はどうぞご一報ください!)。

 

今号を最後に(終わりませんよ!)、夏の令和第1号からは紙面を新たに刷新する予定です。お役立ち記事や、楽しい企画を考えていますので、乞うご期待。

目標の10号まであと7号。次回は令和元年残暑にお送りする予定です!

投稿なども受け付けておりますので、今後とも宜しくお願いいたします!(*^^*)

赤澤秀行

新元号が令和に決まりました

| 2019年4月4日

こんにちは!相続アドバイザーの赤澤秀行です。

 

今月1日に、ようやく新元号が発表されましたね!

 

令和(れいわ)

 

当事務所でも早速令和に対応しました^ – ^

 

「令」というと、上から下への命令、というニュアンスを感じる人が多いと思いますし、実際ちょっと違和感を感じた人も多いようです。

 

ただ、「令」には「律令」とか「法令」とか「政令」のように、「おきて」「きまりごと」すなわち「法」そのものを表す意味もあります。

 

つまり、「令和」=法のもとの平和。秩序ある調和。(←法律事務所的解釈^ ^)

 

なので、英BBCが訳した「order and harmony = 秩序と調和」というのはあながち間違いではないような気がしますし、それでいいような気もします(BBCがどういう意味で使ったのかはわかりませんが)。

 

政府は「beautiful harmony ですよ~!」と海外への印象づけに躍起になってますので^^;、そのうちその解釈が浸透していくのかもしれませんけど。

 

いずれにせよ、いい時代になって欲しいですね!

赤澤秀行

小さな手の思い出

| 2019年3月4日

 もう数十年前、高度経済成長が盛期に入る少し前で、国内でも地方の端の地域ではその潤いがまだ行きわたってなく農業も担い手がそれほど老人化していない頃のこと。申立人(訴訟では原告)は二児の母親で、相手方(被告に相当する)は申立人の夫である。まだ幼い二児は父親である相手方とその母(祖母)のもとで養育されている。これは裁判官として私が担当した離婚調停での一期日のことである。

 申立人は九州の遠く離れた実家で父親と暮らしている。相手方は本州のとある町で二児とその祖母らと生活している。調停の期日はこの町に所在する家庭裁判所支部で開かれた。
 しかし、この日に指定された調停期日の時刻に相手方は出頭しなかった。種々の理由があるのか不出頭の意向は強いようである。このままでは離婚を求める調停は、当事者である相手方の不出頭を理由に不調となる他はない。そうなれば申立人が今後は原告となり改めて離婚を求める裁判(離婚訴訟)提起しなければならなくなる。

 申立人から聞くところでは、申立人は調停期日への出頭のため九州での辺境の土地から列車や航空機を乗り継いで来たもので、収穫した米の一俵を売って旅費を捻出したようである。かくなる上は何とか相手方と協議し同意を得て調停による離婚を成立させることができないか、私の苦慮が始まった。

 ふとひらめいたのは、出頭しない相手方の住居へ申立人と一緒に赴き、何とか現地調停を試みる途が少しは残されていないかということであった。ここで私は、経験豊かな家事事件書記官の助力を得て、相手方の自宅を急遽訪れる方法を取ることに踏み切った。こうなると申立人を伴って相手方の住まいに上らせて貰えるか否かが、最初の関門となる。

 途次の天候にも恵まれてか、相手方の家族へ礼をつくしたうえ、ようやく申立人・書記官を同道し相手方の家庭に上げて貰うことができた。相手方の母親(姑さん)の種々の不満と意見も聞かせて貰うことができたうえ、申立人と相手方とはその場で話し合い、とうとう調停離婚の成立に漕ぎつけるに至った。相手方の家庭でそれまでどおり二児が養育されるという現地調停による離婚の成立であった(幼く小さい二人の幼児は、両親が「離婚」することの意味も、自分の未来がどうなるかということも、知り理解すること自体できない)。

 日没にはまだ遠い午後の一刻、私たちと申立人はタクシーに乗り込んだ。本能的に産みの母との別離を悟ったのであろうか、幼い二児は高く手を挙げて並び、母親が遠くへ去ってゆくのを全身でこれを受けとめ、両手を振っていた。           (弁護士 浦島三郎)

(ニュースレター2018年創刊号より)

事務局

58の手習い

| 2019年2月15日

 私が当事務所に入所したのは、かれこれ30年以上前になりますが、入所早々の頃に、赤沢先生から囲碁の教則本を渡され、読むように勧められたことを覚えています。赤沢先生は、当然、私が、それに従い、囲碁を習い始めるものと期待されていたと思いますが、実際は、その期待に見事に反し、これまで、囲碁とは無縁の人生を歩んできました。それが、この度、事務所の企画で、個人的には老後も楽しめる趣味をもちたいという動機と相まって、赤沢先生から、月に一回のペースで囲碁を教えていただくことになり、58歳にして囲碁を始めました。

 始めるまでは、正直、白石と黒石を並べるだけの単調なゲームのどこが面白いのかと思っていましたが(それが私がこれまで囲碁を始めなかった主な理由でした)、ルールが分かってくるにつれて、単純なだけに、かえって打ち手の自由な発想が許され、だんだんと面白いものだと思うようになってきました。

赤沢先生の熱心な指導で上達も早い!?

 今は、仕事帰りの電車の中で、携帯のタブレットに入れた囲碁のアプリを相手に腕をみがいており、9路盤で15級相当のAI相手に勝ち負け合い相半ばしている状況です。今後の進歩に乞うご期待!

(ニュースレター2018年新年号より)

井奥圭介

今年最後の囲碁教室。だんだん実力差が(汗)

| 2018年12月28日

こんにちわ!相続アドバイザーの赤澤秀行です。

年末もいよいよ押し迫ってきて、今日が当事務所も仕事納め。午後からちょっと早めの忘年会が行われ、ほろよい気分で今年最後の所内囲碁教室が開かれました。

数えると、今年の囲碁教室はなんだかんだで都合5回ほど。一応毎月開く予定なんですが、なかなか時間調整が難しい。

 

さて、生徒の井奥弁護士と私の棋力(囲碁の実力)ですが、どちらも素人ですので、始まった当初は五分五分。ところが・・・

井奥弁護士、ここ数ヶ月、暇を見て密かに囲碁の修行をしていたようです!(・o・)
※詳しくはニュースレター(新年号)を御覧ください(ご希望の方には配布します!)

二人の実力差がだんだんと開いてきた模様・・・これはまずいです。(;・∀・)

今日の9路盤対局。井奥弁護士の2連勝!

赤沢6段の指導も本格的になってきました

このままでは置いてけぼりになること必至。私も気持ちを入れ替えて囲碁の修行に励むことを決意しました。

とりあえず、お正月休みの間に下記の東大の囲碁講座の本を読んでみます。(-ω☆)キラリ

東大教養囲碁講座―ゼロからわかりやすく (光文社新書)

 

でもって来年の暮までに5級~10級ぐらいを目指します!(えらいアバウト)

 

それでは皆さま、良いお年を!(^o^)

赤澤秀行

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