事務所便り

小さな手の思い出

| 2019年3月4日

 もう数十年前、高度経済成長が盛期に入る少し前で、国内でも地方の端の地域ではその潤いがまだ行きわたってなく農業も担い手がそれほど老人化していない頃のこと。申立人(訴訟では原告)は二児の母親で、相手方(被告に相当する)は申立人の夫である。まだ幼い二児は父親である相手方とその母(祖母)のもとで養育されている。これは裁判官として私が担当した離婚調停での一期日のことである。

 申立人は九州の遠く離れた実家で父親と暮らしている。相手方は本州のとある町で二児とその祖母らと生活している。調停の期日はこの町に所在する家庭裁判所支部で開かれた。
 しかし、この日に指定された調停期日の時刻に相手方は出頭しなかった。種々の理由があるのか不出頭の意向は強いようである。このままでは離婚を求める調停は、当事者である相手方の不出頭を理由に不調となる他はない。そうなれば申立人が今後は原告となり改めて離婚を求める裁判(離婚訴訟)提起しなければならなくなる。

 申立人から聞くところでは、申立人は調停期日への出頭のため九州での辺境の土地から列車や航空機を乗り継いで来たもので、収穫した米の一俵を売って旅費を捻出したようである。かくなる上は何とか相手方と協議し同意を得て調停による離婚を成立させることができないか、私の苦慮が始まった。

 ふとひらめいたのは、出頭しない相手方の住居へ申立人と一緒に赴き、何とか現地調停を試みる途が少しは残されていないかということであった。ここで私は、経験豊かな家事事件書記官の助力を得て、相手方の自宅を急遽訪れる方法を取ることに踏み切った。こうなると申立人を伴って相手方の住まいに上らせて貰えるか否かが、最初の関門となる。

 途次の天候にも恵まれてか、相手方の家族へ礼をつくしたうえ、ようやく申立人・書記官を同道し相手方の家庭に上げて貰うことができた。相手方の母親(姑さん)の種々の不満と意見も聞かせて貰うことができたうえ、申立人と相手方とはその場で話し合い、とうとう調停離婚の成立に漕ぎつけるに至った。相手方の家庭でそれまでどおり二児が養育されるという現地調停による離婚の成立であった(幼く小さい二人の幼児は、両親が「離婚」することの意味も、自分の未来がどうなるかということも、知り理解すること自体できない)。

 日没にはまだ遠い午後の一刻、私たちと申立人はタクシーに乗り込んだ。本能的に産みの母との別離を悟ったのであろうか、幼い二児は高く手を挙げて並び、母親が遠くへ去ってゆくのを全身でこれを受けとめ、両手を振っていた。           (弁護士 浦島三郎)

(ニュースレター2018年創刊号より)

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