事務所便り

戦争体験と弁護士

| 2019年9月12日

以下は、昨年60周年を迎えた春秋会(大阪弁護士会7つの会派の一つ)が発刊した60周年記念誌の「戦争体験と弁護士」という特集に掲載された赤沢敬之弁護士のインタビュー記事です。8月も終わり、すでに9月に入りましたが、一弁護士の戦争体験としてお読みいただければ幸いです。(インタビュアー 河村利行弁護士)

 

1.先生がお生まれになったのは?

「1936(昭和11)年2月8日に四国徳島の鳴門で生まれました。終戦の時は、9才で小学校4年生でした。」

 

 

2.戦時中のご体験は?

「昭和16年10月に、父親が上海で自動車修理工場をしており、仕事が軌道に乗ったということで、母親と祖母、妹3人が一緒に上海に行きました。神戸から豪華客船2万トンの大洋丸に乗船し、親戚の見送りがあり、2日かけて行きました。」

「昭和17年4月に上海第6国民学校に入学し、上海の共同租界で生活しました。その当時は日本も元気なころでした。近隣には、中国の家族も普通に生活しており、仲良くしていました。しかし、家の近くの上海北駅で抗日の爆破事件があったことは家の2階から見てびっくりしました。太平洋戦争が始まると、学校では軍事訓練(竹槍や手旗・モールス信号)をしたことを覚えています。」

「共同租界ですので、戦争の情報なども正確に伝わるのか、昭和19年になると、父が『日本は負ける』という情報を伝え聞いたようです。」

 

Hongkou Japantown(Wikipediaより)

 

「そこで、昭和19年10月、国民学校3年の時に日本に帰国することになりましたが、帰国の許可がなかなか下りなかったということでした。父親は、帰国の許可が下りず、また、現地の工場の整理もあって、家族だけで帰国し、父親は上海に残りました。夜の上海港の埠頭で、父と永久の別れかもしれないと子ども心に思ったことを記憶しています。」

「帰りは6千トンの軍用貨物船で、船底に茣蓙を引いて雑魚寝で、夜は灯火管制で停泊しながら、米軍機の攻撃や魚雷・水雷を避け、海岸沿いを通って1週間かかり門司港に帰ってきました。上海にはあまり緑がなかったので、門司港の緑豊かな山河が鮮烈でした。」

 

現在の関門橋と門司港

 

「甲板に皆が集められ、船長から、万一の時(船を沈められたような場合は)は、なんとかして子どもを船の外に投げ出せ、それを船員が助けるというような話があったことが印象に残っています。因みに、往路の大洋丸も帰りの軍用貨物船も敗戦までに沈没させられています。命からがらの帰国でした。」

「帰国後は、徳島の農村の父親の実家の納屋で生活することになり、その後、海岸近くの町の住宅街に移りました。帰国時は8才で、地元の国民学校3年生に転校しました。」

「納屋から一軒家に移りましたが、徳島の田舎町でしたので、空襲等の経験はありませんが、灯火管制はあり、また防空壕も空き地に作りました。徳島市内が空襲され、焼夷弾が落とされているのが遠くから見えました。農村の畔道で、米軍の飛行機に追いかけられましたが、子どもと見て飛び去ったことは覚えています。」

 

3.先生は敗戦をどのように迎えられましたか。

「昭和20年8月15日は、小学校4年生でしたが、海水浴のため海岸への道を歩いているときに、三木武吉の別荘から玉音放送が流れてくるのを聞きました。それが、終戦の放送であることは、子どもながらになんとか理解できました。」

「学校での生活も変わり、教科書を墨塗りにしたり、講堂の奥に隠された「ご真影」もなくなり、先生の態度が柔らかくなった思い出があります。校庭に生徒が集められて、新しい憲法の話もあり、昭和22年中学1年のときには、「あたらしい憲法のはなし」という冊子が社会科の教材として配られました。ずいぶん変わったのだなと思った記憶があります。」

 

『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。(Wikipediaより)

 

「昭和21年4月に、父親が思いがけなく帰国してきました。昭和22年に大阪で仕事を始めることになり、母親が小さな弟博之(24期・春秋会)だけを連れて大阪に出て、父親の手伝いをしておりました。」

「私が大阪の天王寺に出てきたのは、昭和24年の春、中学2年生になるときでした。四天王寺の近くが焼け野原になっているのを見て、衝撃を受けました。家族全員が大阪で生活するようになったのは、昭和25年になってからでした。」

 

空襲後の大阪市街(Wikipediaより)

 

4.先生の戦争体験は、のちに弁護士になられたこと、または、弁護士になった後の弁護士の仕事の内容と関係がありますか。

「少年時代にリンカーンの伝記を読んだり、佐藤紅緑の少年熱血小説に親しみ、何か人のために役立つことをしたいという思いは、ずっと持っていました。勿論具体的な弁護士像などは知る由もなく、大学進学の頃に法学部コースを選んだ頃から漠然と憧れを抱くようになったのではと思います。戦争体験は、平和や憲法に対する思いの基礎になっていると思います。」

 

ああ玉杯に花うけて 少年倶楽部名作選 (講談社文芸文庫)

 

「昭和36年に弁護士となり、昭和27年6月に発生した朝鮮戦争に対する米軍の軍事物質輸送に反対するデモ行進参加者を大量に逮捕し、騒擾罪で起訴をした吹田事件の主任弁護人山本治雄先生の事務所に入りました。当時若手の石川元也・井関和彦・阿形旨通(故人)先生ら常任弁護団の事務局長として度々合宿し、膨大な事件記録と格闘した青春の日々は私の原点となっています。幸いこの事件は一審無罪が最高裁で確定しました。」

 

吹田事件を扱った雑誌の記事(Wikipediaより)

 

5.第二次世界大戦をどう思いますか。戦争体験が風化している現状についてどう思われますか。

「朝鮮・中国からアジアに資源の確保を狙って日本が行った戦争が侵略戦争であったことは間違いないのであり、そのことを忘れず、若い皆さんに戦争体験を伝えていかなければならないと思います。」

「ともかく戦争は一般市民にとっていいところはなく、特に核戦争時代の現代は一触即発で国家そのものが破滅する危険にさらされています。なんとしてもそのような事態を食い止めるため、戦争の危機感を無暗に煽る政治勢力の跋扈を許さない意思と行動を選挙などで示したいものです。」

 

6.現在憲法70年経過して憲法をどう思われますか。現在の憲法改正の議論をどのように考えておられますか。

「自分の在職中に憲法9条を改正したいという首相の思いのみで、拙速に改正を議論するのは誤りです。アジアへの侵略戦争の反省もなく、アメリカの世界戦略に呼応して、自衛隊の海外派遣の道を大幅に開く可能性のある「改正案」は許してはならないと思います。幸い国民の大半は憲法改正は望んでいませんが、狡猾な手法での既成事実の積み重ねには警戒しなければなりません。」

(春秋会60周年記念誌より)

 

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