事務所便り

レタスの夏

| 2020年9月17日

 春先から続くコロナ禍に追い打ちをかけるような梅雨の豪雨災害と、いつになく心落ち着かない夏となりましたが、皆様におかれてはいかがお過ごしでしょうか。

 さて、この事務所ニュース夏号の巻頭言を書くにあたり、ここはやはり、目下、世間の最大の関心事であるコロナに関したことを書くべきではないかとあれこれ思いをめぐらしたのですが、私の文才ではコロナをテーマに皆様にお読みいただくような文章を書くのは無理とあきらめ、代わりに、コロナとは何の関係もない私個人のある夏の思い出を書いてお茶を濁すことをお許しください。

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 その夏とは、1984年(昭和59年)、私が24歳の年の夏でした。弁護士を目指して大学3年から司法試験を受け始めましたが、在学中に合格することは出来ず、その年の春に大学を卒業し、人生で初めて何の肩書きも持たない浪人の身分になっていました。

 7月下旬に論文試験を受け、10月頭の合格発表まで2か月余りの期間がありましたが、その年も自分としては落ちたと思っていましたので、最後の口述試験に向けての勉強は手につかず、生活費を稼ぐ必要もあって、バイトをすることにしました。そして、その前年に知り合いの受験仲間が福島県の梨農家でバイトをして歓待されたという情報を聞き、それなら私は趣味にしていた山登りの雑誌のバイト広告で見た長野県佐久地方の川上村というところのレタス農家にしようと決め、7月のうちに東京から電車で川上村に向かいました。

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 当時はまだ国鉄だった小海線の信濃川上という駅で降り、バイト先の農家の人(バイト仲間は「旦那さん」と呼んでいました)に車で迎えに来てもらったのですが、その旦那さんが初めて私を見た時に一瞬顔が曇ったように見え、私は自分が歓迎されていないように感じました。その理由は間もなく分かりました。

 農家に着くと、先に就労していたバイト仲間が5~6人おり、その人たちと一緒の、普段はその農家の小学生の子供の勉強部屋として使われているものと思われる大部屋に通され、そこで寝起きすることになりました。

 そして、翌日からさっそくバイト仕事が始まったのですが、朝5時に起き、朝飯をかっくらってから車に乗せられ、レタス畑に着いたのが6時頃、それからレタスの出荷作業が始まりました。

 私が担当させられたのはレタス切り、つまり、畝に列状に植わっているレタスを包丁で切っていく仕事でした。口で言うとそれだけのことですが、これが実際にやってみると大変。ご存知のように、レタスは中心の葉が球状に固まっている部分が「外葉」という少し開き気味の葉にくるまれているのですが、この外葉が2~3枚残る位置で芯を切らないといけません。この外葉がとれてしまうと、等級が下がってしまうのです。それもマイペースでやればよいというわけではありません。農協の集荷時間が午前10時頃と決まっており、それまでに集荷場に持ち込まないとその日は出荷できなくなりますので、皆、それに間に合わせようと必死で作業をするのです。ゆっくりやっていると、私が切って置いたレタスをダンボール箱に詰める役の農家の奥さんが後ろからどんどん迫ってきて、「遅い!」と怒られます。かといって慌てて切ると、外葉を全部落としてしまい、今度は旦那さんから「等級が下がる」と怒られます。そんな気の抜けない作業が3時間以上続きました。しかも、その間は中腰前屈みの姿勢で立ちっぱなしですから、最後の方は下半身の感覚が無くなりました。

 午前中にレタスの出荷を終えた後は、いったん農家に戻って昼食を食べてから、今度は午後の作業です。レタスの収穫が終わった畑に新たに作物を植えるため、土の上に張った黒色のビニールシートをはがしたり、トラクターで鋤き直した畑に苗を植えたりといった作業が夕方の6時頃まで続きました。高原とは言え、日中は真夏の容赦ない日差しが照りつけ、冷房の効いた大学の図書館で受験勉強しかしていなかった身には、まるで地中のミミズがいきなり炎天下のアスファルトの上に投げ出されたみたいなもので、終わった頃には疲労困憊で立つのもやっとの状態でした。

 そんな作業を必死の思いで2日続けた時点で、私はここは自分のような人間が来るべき場所ではなかったことを悟りました。そして、3日目の作業の休憩時間中に、旦那さんに、「バイトをやめて帰ります」と言おうと決心しました。ところが、どういう訳か、その時に、旦那さんは、買っておいた缶ジュースを皆にふるまってくれたのです。それで、私は、言う機会を逸してしまいました。そして、翌日からもあの過酷な作業に従事する羽目になってしまったのです。

 しかし、人間の体というのはおかしなもので、そんな過酷な作業も、歯を食いしばって一週間ほど続けているうちに、だんだんと体が慣れ、他の人のペースについていけるようになってきました。受験勉強中、体ごなしのため、昼休みに大学のプールで毎日泳いでいたことも少しは役に立ったのかも知れません。

 そして、お盆が近づき、畑を吹く風が少し涼しく感じる頃には、外葉を残して切ることもうまくできるようになり、旦那さんから叱られることも少なくなりました。また、畑で作業しながら遠くに見える八ヶ岳の美しい山容を眺める余裕もでてきました。

バイト仲間とレタス畑で撮った写真。前列左から二人目が筆者。後ろの山は八ヶ岳。

 ところが、その頃から、左手の中指がだんだん腫れてきて、ついには普段の太さの1・5倍くらいまで膨れあがりました。包丁で誤って切った指の傷口から畑の雑菌が入り、化膿したのです。そこで、一日バイトを休み、少し離れた佐久市内の病院に行って指を切開してもらいましたが、切った所に溜まった膿を排出するためのドレーンを差し込まれ、その上を包帯でぐるぐる巻きにされて、レタス切りどころではなくなりました。それで、川上村にいてもしょうがないので、治るまで東京に帰ることにしました。帰る時には旦那さんにそれまで働いた分の給料を精算してもらいましたが、おそらく、旦那さんは、その時、こいつはもうここには戻ってこないだろうと予想していたものと思います。

 しかし、東京に1週間ほどいて傷口がふさがった私は、お盆過ぎに、旦那さんの予想に反してまた川上村にもどり、バイト仕事に復帰しました。そして、結局、高原に朝霜が降りる9月末頃まで働きました。

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 一緒に働いたバイト仲間には、将来自分で農業経営をすることを目指している同い年の青年や登山家を目指している人など、いろんな人がいましたが、バイトが休みの日には、一緒に奥秩父の金峰山に登ったり、清里の方にドライブに行ったりなど、いい思い出もできました。
 バイトを終えて東京に帰る日の前の晩に、旦那さんに最後の精算をしてもらいましたが、その時に、旦那さんから「井奥さん、あんたが最後まで続くとは思っていなかったよ」と言われたのは、私にとって最高の褒め言葉でした。

 そして、東京に帰る途中、浅間山麓の鬼押出しに寄り、遠く東京の方の空を眺めながら、また始まる1年間の受験生活のことを考えましたが、このバイトに比べたら司法試験の受験生活なんか楽なもんだと思え、闘志が沸いてきました。法務省中庭の司法試験合格発表会場の掲示板に自分の受験番号を発見したのはその2日後のことでした。

 それから36年、弁護士になってからも33年が経ち、仕事の上でつらい状況に立たされることも時にはありましたが、そんな時には川上村のレタス切りバイトのことを思い出し、あれができたんだからこれも何とかなるはずだと心の支えになりました。

 どなたにも、あのことを思えば頑張れるという体験が一つくらいはおありかと思いますが、私の場合のそれをお話しした次第です。

(ニュースレター2020年夏号より)

井奥圭介

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