弁碁士の呟き

私と囲碁(41) わが師匠たち – 石井邦生9段(下)

| 2015年9月3日

19991011c  石井邦生先生とのこれまでの長いお付き合いの中で、今も印象深く記憶に残るのは、平成9年(1997)から11年までの3年間に行われた4回の囲碁合宿であった。その頃よく通っていた「爛柯」囲碁倶楽部の好敵手であった山下明夫さん(6段・会社役員)から、石井先生、平野正明6段、長崎裕二5段のプロ棋士3名と山下さん、林威三雄先生(6段・元幸節記念病院院長)、私のアマ3名での「特訓合宿」の呼びかけがあった。1泊2日の日程で、アマ陣は3人のプロの先生に入れ替わり立ち替わり指導を受けるというなんとも贅沢な企画である。否応もなく喜んで参加させてもらうことにした。

 最初の合宿は山代温泉であった。平成9年9月14日午後、現地の旅館に着いてしばし休息の後、3面の碁盤が並べられ早速プロアマの指導碁が始まる。特訓と称するためすべて2子の手合いである。石井先生は長年院生師範を続けられ、多くの若手棋士を育成されてきた豊富な経験と実績の持ち主、平野先生も朝日カルチャーセンターの講師を勤められた方、長崎先生も「爛柯」囲碁倶楽部で多くのアマの指導の実績があり、いずれも願ってもない指導陣である。2子では到底碁にもならないとは自覚しつつもなんとか一矢をとの意気込みで臨んだが、やはり8局のうちようやく平野先生との4局目にお情けの1勝をいただいただけであった。この合宿では2日間殆ど観光らしきものをした記憶がない。

 続く2度目の合宿は、やはり同じメンバでの翌10年3月6,7日の南紀白浜。ここでも全6局のうち長崎先生からの1勝のみ。そして同年9月の函館での3回目は、長崎先生に代わって陳嘉鋭9段の登場。世界アマ選手権優勝のあと関西棋院5段となり名人戦リーグにも名を連ねた強豪だが、人なつっこい性格ですぐ親しくなった。この合宿では5局すべて敗北だったが、陳さんとの2局目が3目、平野さんとの対局が2目の惜敗であった。この合宿で想い出深いのは、函館の街並みの散策と世界3大夜景と言われる函館山山頂から遠く津軽海峡や下北半島を眼下に一望する宝石のきらめきのようなパノラマ風景に息をのむ感動を受けたことであった。ただ当時デジカメなどなかったため、碁打ち仲間との貴重な記念写真が残されていないのが残念である。

 4度目は翌平成11年10月10,11日の仙台松島の合宿。この年、私は6月に胃がん発見、7月12日に胃の3分の2の切除手術を受け月末に退院し、しばらくの間リハビリに専念していたが、まだ体調が戻らぬ9月初旬に山下さんからのお誘い。フラフラして皆さんに迷惑を掛けては困るし、と言って碁は打ちたいし、迷った末、幸い林威三雄先生という名医も同行されるし、思い切ってリハビリの一環として参加しようと決断したのだった。お蔭で松島の旅で食事や歩行などに困ることもなく石井、平野、陳先生に5局の指導を受けることができた。結果は言わずもがなの全敗だったが、体調回復のいい妙薬となったと「碁の効用」に感謝したものであった。なお、同行のアマお二人の指導対局の成り行きなどは、自分の碁で精一杯で観戦のゆとりもなく、一切記憶の外にあるが、熱心に教えを受けていたことは間違いがない。

 4回の合宿のあと数年の内に、この特訓合宿のプロモーターであった山下社長が病気のため亡くなられるという残念なこととなり、教えられることの多かった合宿シリーズも幕を閉じることとなった。シリーズを通じ、石井先生のやさしく厳しい指導が、まだ打ち盛りの頃であった私に改めて碁の魅力や奥深さを教えていただいたことに感謝している。なお、このシリーズの第2回合宿以後の棋譜は、途中までのものも多いが今なお保存しており、暇を見て並べたいと思っている。

*上掲の棋譜は、第4回松島合宿での石井先生との指導碁(平成11年10月11日、白:石井9
 段、2子:赤沢、171手まで白中押勝ち)(続)

赤沢敬之

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