弁碁士の呟き

私と囲碁(49) 逢坂貞夫さんと検察庁めぐり

| 2016年7月6日

 司法修習生同期の逢坂さんとは、昭和34年以来の半世紀を超える長い付き合いである。青春の真っ只中、戦後の復興期を担う若者としての理想と意気込みは共有していたものの、互いの進路は検事と弁護士という2つの道に分かれて幾星霜を経たが、この間もずっと親しい交わりを続けて来られたのはひとえに囲碁のお蔭であった。

 彼の任官後の任地であった岡山や大津、山口、熊本、高松には、私の仕事での出張の機会や夏休みを利用して訪問し、時間があれば盤を囲むのが楽しみであった。特に思い出深いのは、昭和43年の大津地検での対局である。勤務時間の後、彼の執務室には7.8人の事務官たちが集まり、当時4段だった私と1級くらいだった彼との5子の対局を見守る。その頃の大津地検では、どうやら彼は筆頭格の腕自慢だったらしく、大勢の観客の目を意識してか、私の白石を猛烈に攻め立てたのだったが、あまりの強攻にあちこちに綻びが生じ、中盤以降黒の大石が次々と死滅し、ついには盤上石なしの結末を迎えたのであった。大敗を喫した同君には申し訳ない結果となってしまったが、反面この一戦が事務官連中に多大の刺激を与えたらしく、以後大津地検職員の囲碁熱が盛んになったようで、私の訪問も無駄ではなかったとの逢坂君の後年の述懐ではある。またそれから40数年を経て、当時の観戦者の一員で今は立派な5段の方と逢坂君の事務所で再会し、往時を懐かしく語ったのも嬉しいことである。

 彼の任地への訪問と囲碁体験は、その後の熊本や高松でも重ねられたが、いずれにおいても逢坂君の囲碁普及の伝道師の役割を窺うことができたのだった。熊本地検では、阿蘇でのゴルフと職員たちの碁会に参加し、また彼の高松高検検事長の頃には、同期の上原洋允弁護士と訪問し、大阪での検察囲碁会の師範高林5段に代わって高松高検の囲碁愛好者への初二段免状推薦のお手伝いをするという汗顔の至りともいうべき出過ぎた真似をしたのも、今となっては碁界活性化のためとしてお許し願えるのではないか。ともあれ彼の行くところ「碁の青山」ありという次第だ。(続)

赤沢敬之

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