弁碁士の呟き

囲碁雑録(2)-1974年「囲碁雑感」(下)

| 2017年5月5日

(上より続く)
 そこで考えるに、碁キチの習性の第一は、まずなんといっても、例外なく大変な自信家(天狗)であり、負けず嫌いだということである。
日頃温厚篤実な謙虚な紳士として知られる人であっても、こと碁に関するかぎりどうも事情が違うようである。「オレがアイツに二目も置くなどとは世の中がどこか狂っている」と真剣に考え、「オレはアイツに互先で勝った男を白番でやっつけたことがある。だからアイツはオレに黒をもつべきだ」などと間接事実を有利に援用する。
そして面白いことには、大抵の場合廻り廻って自己の主張を証明する間接証拠を発見することができるのである。
彼はまた、自分が負けでも、決して相手が強いから負けたのだとはなかなかいわない。自分が不覚にも思わぬ錯覚をして悪手を打ったからだという。
連戦連敗しても、容易に相手の上達ぶりを認諾せず、「最近どうも調子が悪い。オレは弱くなったらしい」などとつぶやくのである。
歯切れの悪いことおびただしい。

 次に、彼は自己の敗戦を人に語りたがらない。
とくに弁護士なるもの簡単に「自白」はせず、不利な事実はもっばら黙秘権を行使する。「敗軍の将は兵を語らず」というような高次元のものではないのである。
ところが勝ったときには、相手かまわず大声で吹聴する。だからいつも常勝軍のごとく意気揚々としている。
「口だけは皆一廉の碁打ちなり」という次第である。
しかし、そこは相手のあること。「相手」もやはり同じような習性をもっている。そこで丁度バランスがとれる仕組みになっているというものだ。

 情報伝達の早さもその特性である。
暮夜惜しくもコミがかりで涙を呑んだ勝負が、はや翌朝には流布されて、会う人ごとに「昨夜は惨敗したらしいな」などと冷やかされることもまれではない。
折角忘れかけた口惜しさをまた思い起させられ、何回も負けた気にさせられる。
だからたまには、公知の事実になる前に「先行自白」をしておくことが得策なこともある。
こういうような具合だから情報化時代の荒波の中で、「実体的真実」を発見するのは容易なことではない。
当事者双方の主張を整理し、慎重に証拠調をする必要がある所以である。

 彼はまた、勝碁は絶対に忘れない抜群の記憶力をもっでいる代りに、負けた碁はケロリと忘却する独特の能力をもっている。
二、三年前の大勝を昨日のごとくに語ったり、はては、かって某五段(現)に一度互先で勝ったという某先生のように時効になった十年も昔のことを飲むたびに話す御仁もいるのである。
だから碁打ちたるものユメユメ勝負をおろそかにはできないと心得なければならぬ。
このことに関連するが、以前高川名誉本因坊が、「アマは勝碁のことはよく覚えているが、プロは逆です。負けた碁は敗因を反芻し何年たっても忘れないものです」といっていたが、ここらにもわれわれとの大きな違いがあることを知るべきだ。やはりプロの道はきびしい。

 三味線、ポーカーフェイスも、碁キチの資格の一つだといってよかろう。
「しまったと云へど内心得意なり」と川柳にもあるが、「参った。死んでしまいそうだ。」などと独言をいって相手を油断させるのも手のうち芸のうちである。
反対に、形勢が悪化しても何くわぬ顔をして、相手の見損じを待つのも大事な心理作戦である。
だからわれわれは、常にことばや表情の裏にかくされた真実を見抜く眼力を養っておかなければならないことになる。
その他あげればいろいろとあるが、これらの習性にはいずれもどこか一本抜けた他愛のない無邪気さが眼底に流れており、それ故に碁キチには愛すべき人物が多いのではあるが、残念ながらなかなかに「高段の域」には達し難いというわけなのである。
従って、もしあなたが、さらに大きな飛躍を遂げようと決意されるなら、右にのべた碁キチの習性を逆の方向に改造することが、その要諦であるといってもよいであろう。

 かくいう小生も、この道に入ってから十有五年。
「あたら光陰を従に費」したおかげで、「貴殿棋道執心修行無懈怠手般漸進依之初段令免許畢猶以勉励上達之掛可為肝要者也以仍而免状如件」と墨痕鮮やかに記された免状を恭々しく頂戴したのが十年前。
その後「手段愈進」「手段漸熟」「手段愈熟」ときて、やっと五年前に「貴殿棋道執心所作宜」とは相成ったが、やはり素性争い難く、容易に碁キチの習性をアウフヘーベンすることはできそうにもない。
かくして小生も、「聖賢の旨に違ふ」ことを知りながら、「四重五逆の罪」を重ねつつ、日暮れて遠き道をトボトボと歩み続けねばならないのである。(終)

赤沢敬之

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