弁碁士の呟き

私と囲碁(7) 山本治雄先生との出会い

| 2014年7月26日

大阪での実務修習では、検察、刑事裁判の修習が、たまたまアイウエオ順で、ともに当時の大事件いわゆる「吹田騒擾事件(※)」の担当部に配属されたのが、その後の弁護士生活出発の原点となったのは運命の不思議さを物語るものであろうか。
やがて後期修習で上京する日も近づき、就職先を考えていた頃、ある先輩から「吹田事件を手伝ってくれる若手を探している」という話を聞き、初めて山本治雄先生を紹介された。

先生は、地元吹田で起ったこの事件の主任弁護人として、長期裁判の大弁護団を率いて獅子奮迅の活動を続けていたが、事務所は一人だったため、膨大な証拠書類の整理を担当していた他事務所の若手数名の常任弁護団の補充が必要だったのである。
しばしの面談のあと、話はスムーズに進み、私は「山本治雄法律事務所イソ弁第1号」となることになった。時に昭和36年4月、山本先生は50歳の働き盛り、私は25歳であった。先生は、明治人間の豪放磊落の野武士の面影を残す一面の裏に人情味溢れる「自由人」であった。法曹界の謡曲同好会の世話人であり、囲碁も当時3段位であった。

事務所に入る前の冬休みの帰阪時だったか、一度北新地の料亭に招かれたことがあり、そこで私が4子(だったか)を置いて対局第1戦。内容は覚えていないが、私の敗戦であったことは間違いないはずである。その後、事務所に入り何年かのうちに、私が黒番で勝つようになってからは、先生は手合わせをしなくなったから、私は終生先生に白を持ったことがないのである。(続)

※吹田騒擾事件…1952年に大阪府吹田市で発生した騒乱事件。Wikipedia(別ウィンドウで開きます)

赤沢敬之

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