弁碁士の呟き

私と囲碁(60)懐かしい囲碁会「碁久楽会」

| 2023年10月27日

 平成3年(1991)頃だったろうか「爛柯囲碁倶楽部」のどなたかに誘われ、西宮市苦楽園の植村兵衛氏の邸宅で毎月1回開催される「碁久楽会」に参加するようになった。

 同会は、会社経営者の植村5段と同じ苦楽園に住む「ライフ財団」代表の清水三夫6段とが設立した会で、当時の大阪府知事中川和雄3段(後の関西棋院理事長)、元大阪市長大島靖6段、北村春江芦屋市長初段、元ロイヤルホテル社長小松健男6段(前同)、大阪大学名誉教授和田博5段(前同)、大手前病院院長垂井誠一郎5段、成人病センター院長正岡徹7段(前同)、大阪音大教授仙石浩之6段、金両社長藤井信壽8段ら関西在住の各界の錚々たるメンバー70名ほどが勢揃いし、婦人会員も7名在籍していた。指導棋士も橋本昌二・石井邦生・本田邦久・清成哲也・今村俊也各9段、山田規三生7段、水戸由香里2段の豪華陣である。

 私は7段と登録され、毎月1度土曜日に遠路西宮まで出かけるのが楽しみであった。熱心に通っていたためなのか、平成7年には5人の世話人の一人となっていた。当時の対局記録が整理されていないため不明だが、平成4年(1992)1月11日に藤井信壽8段に先で敗れ、清水三夫6段に向先で勝ち、同9年(1997)9月に中川和雄氏に向こう5子で勝ったとのメモが偶々手帳に記されていたのが懐かしい。石井邦生9段始め多くの指導棋士の指導も受け、棋力増進の源となった。      

 対局場はその後清水さんの邸宅に移ったが、平成11年(1999)7月の胃がん手術の後、山道の歩行が困難になったため、同13年(2001)に同会を退会せざるを得なくなったのは残念であった。

赤沢敬之

私と囲碁(59)医師・弁護士対抗碁会

| 2023年10月13日

第1回医師・弁護士対抗碁会

 平成25年(2013)6月、井山六冠祝賀会で医師会囲碁会の重鎮(後に関西棋院理事長)で元大阪成人病センター院長の正岡徹先生にお会いした際、弁護士会との対抗戦はどうかとの話となり、その後協議の結果、日曜日か祝日で各チーム10人位、棋力は制限せず置き碁も可という内容で開催が決まった。

第3回大会の様子

 第1回は、同年9月8日に西天満の「サロンド碁」で行われ、医師(野本・羽田回・吉本祥生・蘆澤徹生・正岡哲・正岡徹・新宮雅各6段、垂井誠一郎・藤田典彦・坂本有甫・三谷昭雄各4段、河敬生3段)、弁護士(赤沢敬之・田中清和・赤澤博之・竹内隆夫・原田次郎各6段、和泉征尚・榊原正峰・小野健二各5段、小林保夫・山本忠雄・藤井伸介各4段)の陣容で熱戦が繰り広げられ、弁護士チームが18勝15敗で初戦を制した。私は幸い医師会の強豪に3連勝することができた。

5年ぶりの第4回大会

 第2回は、翌年5月に両軍ほぼ同じメンバーで戦われ、今度は9勝21敗の大差で見事リベンジされた。私も1勝を挙げるのがやっとであった。そして翌平成27年(2017)2月の第3回戦では、竹内6段と山本忠雄4段の3勝もあって21勝9敗の大勝であった。私は2勝1敗。第4回は5年の時を置いて、令和4年(2022)コロナ禍の中、東大阪市長田に移転した「サロンド碁」で行われ、9名ずつの対戦で、10勝14敗の接戦で敗北。私も1勝のみ。これで双方2対2のいい勝負となる。弁護士チームで気を吐いたのは最年少の岡本岳さんの3勝だった。

正岡徹先生(第5回大会)

 そして第5回。本年(2023)9月10日に大阪梅田第3ビルの「爛柯囲碁俱楽部」で8名ずつの対局となる。双方とも10年前の当初のメンバーから多少の変動はあったが、ほぼ顔なじみである。試合は1回戦3-4、2回戦5-3、3回戦5-4の接戦で13勝11敗の僅差で弁護士チームが辛勝。そして私は初めての3敗を喫した。左眼黄斑変性症のうえ右眼も視力低下で終盤でのヨミの失着が重なったとは言え、言い訳にはならない。捲土重来を期するのみである。それにしても3回戦で対局した正岡徹先生の頑張りはすごい。

赤沢敬之

私と囲碁(58)法曹囲碁大会

| 2023年10月6日

対戦中の筆者(2004.11.23)

 法曹囲碁大会は、毎年11月23日に全国の法曹(裁判官、公証人、検察官、弁護士)が市ヶ谷の日本棋院に集まり、団体戦・個人戦を戦うで盛大な大会である。第1回は昭和55年に東京を中心に開催され、偶々日弁連理事を務め東京行の多かった私が個人戦に参加したのだが、その後第3回大会に大阪からA級団体戦に今は亡き正森誠二5段・井土福男5段・鬼追昭夫4段が参加したのを皮切りに、第6回以降ABCリーグの各5名の団体戦と個人戦に大挙20名を超える選手が上京し、烏鷺を戦わせた。

青葉かおり5段と

 対局の合間には審判長の春山勇9段(退役)、青葉かおり5段、下坂美織2段や上野愛咲美4段の指導碁も受けられ、表彰式の後の懇親会で杯を傾けながら各地方や各職種の選手と歓談し親睦を深める良い機会であった。

優勝カップの授与

 大阪弁護士会チームは、Aリーグで平成7年(1995)の第16回と平成15・16年(2003-4)に優勝したが、そのメンバーは私、畑良武、竹内隆夫、原田次郎、岡本岳さんらであった。またBリーグでは、昭和59年(1984)の第5回以降平成21年(2010)の31回までに7回の優勝を重ねている。そのメンバーは井土福男、辺見陽一、三瀬顕、鬼追昭夫、福村武雄、小林保夫、豊川正明、金子光一さんらであり、今や故人となられた方々が多い。

浜口さん、岡本さんと

 この大会では、平成12年(2000)に日中韓弁護士大会にご一緒した谷直哲、山田博史、河島昭さんら(東弁)や名古屋の大山薫さん、東京弁護士会のエース故浜口臣邦さんなどと久闊を叙する対局や歓談がなによりも楽しみであった。そして、日本棋院での懇親会の後、私と岡本岳さんはさらに場所を移しての東弁チームの懇親会に参加し、新幹線での帰阪までの短時間、春山9段や青葉5段とも歓談できたのも幸いであった。

 大会は令和元年(2019)の第40回大会のあと同2年(2020)からの3年間、コロナ禍が世界を席巻したため休会となり寂しい限りであったが、ようやくこの11月に第41回大会が再開されるようで、久々の上京が楽しみである。

赤沢敬之

私と囲碁(57)アマ東西対抗戦

| 2023年9月29日

 第1回アマ東西対抗戦は、昭和52年(1977)11月に名古屋市の日本棋院中部会館で開催された。愛知県を境に東西に分かれ(愛知は西軍)、共に50人程度が互先で2回戦を戦う。この棋戦は、毎年1回行なわれ平成12年(2000)まで24回を重ねている。
 出場者は菊池康郎、村上文祥、原田実、中園清三氏などアマ名人・本因坊を筆頭にアマ界を代表する各県の強豪であり、代表幹事は東軍菊池康郎氏、西軍は松尾鐘一氏であった。

 対抗戦の記録は、毎年松尾氏を中心とする東西アマ囲碁交流事務局の編纂で「アマの碁(東西対抗戦激闘譜〇〇〇局)」と題し、藤沢秀行、坂田栄男、小林光一、趙治勲氏らプロトップ棋士の監修のもと自主出版を第10号(昭和61年・第10回大会)まで発刊している。
 私も第1号から最終号まで購入し、時々アマ強豪の棋譜を並べていたのだが、たまたま昭和の終りころから囲碁倶楽部「爛柯」で松尾氏に教えを受ける機会が何回かあり、同氏の推薦で第17回大会(1993年)から第24回(2000年)まで8回参加させてもらった。

 まさか自分がこんな棋戦に参加することなど思いもよらず、当然のことながらラインアップは50名のうち40番程度であったが、幸い13勝3敗の成績で恥をかかずに済んでホッとしたことを思い出す。
 なお、この棋戦には東西ともに弁護士の強手も参加しており、私と同時期に参加した同僚竹内隆夫君も10勝6敗の好成績を残している。

 対戦相手で記憶に残っているのは、平成12年(2000)、この棋戦最後の対局となった女流の笹子理紗さん。菊池康郎さんの緑星学園で修行中の当時はまだ14歳の中学生だったが、なんとか白番7目半を残すことができた。
 同氏はその後早稲田大在学中に全日本女子学生本因坊戦で4位となり、その後囲碁インストラクターとして多くのアマチュアを指導されたが、この記事の執筆のため偶々ネット情報を調べたところ、昨年8月に36歳で早逝されたとの記事を見つけた。あまりにも早いお別れでありご冥福を祈るのみである。

 なお、この大会の参加者には後にプロ入りした青木伸一、秋山次郎、三村智保、坂井秀至、森田道博、高梨聖健氏らの名が残されている。

赤沢敬之

私と囲碁(56)各種アマ囲碁大会への参加

| 2023年9月22日

 長らくの間投稿を怠っていましたが、これから少しずつ続編を書いて行こうと思います。
 前回までは、私の碁歴のうち主として鮮烈な記憶に残る対局や先人の教えとプロ棋士からの指導の有難さについての記事が中心でしたが、今回からは私が常時囲碁の醍醐味を味わってきたアマチュアの大会や多くの囲碁会について紹介することにします。

 思い起こすと、橋本誼9段の指導の下、新鋭法曹囲碁同好会で5段の免状を頂いた昭和43年(1968)頃から、毎年各種アマ囲碁大会の大阪府予選に参加することが習わしとなった。
 朝日新聞社主催のアマ10傑戦、毎日新聞社主催のアマ本因坊戦、世界アマ選手権予選などである。

 対局の記録が残っていないが、当初は当然のことながら殆どが1回戦ボーイであった。そうするうちに昭和61年(1986)に日本棋院アマ6段を授与された50歳頃からようやく時々は2、3回戦に進めるようになったが、対局相手の棋力も強さを増すため強固な岩盤に跳ね返されるのが常であった。

 一度だけこの壁を越えたのが平成9年(1997)の175人参加のアマ十傑戦府大会でのベスト16進出だった。あわよくば5回戦も突破し十傑入りをと狙ったがそうは問屋が卸さなかった。3年ほど前にこの大会の新聞記事の切り抜きを偶然に机の引き出しの底から発見して驚いたのは、「最年少の小2生、初戦敗退」とのタイトルの主があの井山裕太少年であったことだった。(その顛末についてはこちらの記事を参照)

 対戦相手で印象に残るのは、平成11年(1999) 5月のアマ世界戦大阪府予選で2年前の全国学生囲碁十傑戦で優勝した立命館大学の古家正大さん(現日本棋院5段)との対局である。私の白番で中盤まで互角の戦いであったが、終盤に白が見込んでいた下辺の白地がすっかり荒らされ無念の投了。当夜帰宅後採った棋譜が残っている。

 なお、アマ大会には、その当時から各種同好会で多忙となり参加していない。そして古家氏とはその後10年を経て、年4回の関西東大会で指導を受けることとなったのは、正しく碁縁の不思議さと言うべきか。同会もコロナ禍により今なお休会中であるが。

赤沢敬之

碁縁は巡る

| 2023年1月18日

昨年7月、牛栄子4段(23歳)が女流最強戦・扇興杯で最年少の仲邑菫2段を破って優勝した際、母上の牛力力さん(ニュー・リーリー中国棋士)にお祝いのメールを送り、久しぶりの交流が復活した。

牛栄子さんを特集した囲碁雑誌

丁度7年前の2015年7月8日に、力力さんが当時高校1年生の栄子初段の大阪での初対局の付き添いとして来阪され、19年ぶりの再会に懐かしい思いをしたものだった。

2015年に当事務所を訪問された牛栄子さんと牛力力さん

遡る19年前の1996年4月、呉清源師が実行委員長を務められる上海での「第3回応氏杯世界選手権観戦ツアー」に「呉清源全集」購読者として参加し、大会観戦のあと船中2泊の長江上流「三峡下り」に呉先生ご夫妻とともに中国古代の面影を偲んだのだが、呉師の秘書役リーリーさんがなにかとお世話をされていたのが印象的だった。今回のメールにリーリーさんから丁寧な謝辞があり、何回かメールのやり取りをした。

三峽下りでの呉清源師(手前)と牛力力さん

そして10月15日、私の留守中に兵頭さんという方から事務所に電話があり、囲碁関係の人とのことで手紙を送る旨の伝言を聞いた。

ハテどなたなのか、どこかで会ったような微かな記憶があったが思い出せない。そして4日後に兵頭俊一さんからの書簡と資料が届き、拝見して驚いた。遥か40数年前の5段当時、大阪のアマ高段者の集まり「昭和会」で対局したことがあり棋譜も残っているとのこと、ただびっくりであった。そして同時に、何故私のことが分かったのか?

手紙の続きを見て2度の驚き。なんと力力さんとの深い繋がりがその鍵であった。

お送りいただいた資料によると、兵頭俊一さんは、私の3歳下の83歳で兵庫県在住の方で、19年前の2003年にインターネット碁サーバーの「会員の集い(OFF会)」を開設、年2回の囲碁合宿を定例行事としていたが、2011年にこれを「碁苦楽会」と改称して、近畿・中部・九州のほか台湾・ニュージランド・中国などで25回の囲碁合宿を主宰されている無類の囲碁好きである。

そして牛力力さんは、2004年以来、碁苦楽会の指導棋士として合宿に同行され、「栄子ちゃん(当時2段)」もグループに参加されたこともある由である。

兵頭さんは続けて「力力さんから事務所を訪問されたことをお聞きし、『赤沢さんと碁を打ったことがある・・・』と申しますとびっくりされ、その時の写真や貴殿の囲碁コラムの『呉清源師と三峡下り』も見せて戴き、昭和会での対局のことが懐かしくなり、一度お尋ねしたいと思っていました」と述べられている。

なんというグッドタイミングか!今回の栄子さんの優勝のあとの私のお祝いメ-ルに合わせて見事に三者のリンクが完成したようである。「碁縁は巡る」とはまさにこのことなのかと感じ入り、益々囲碁の魅力と奥深さに引き込まれる思いがした次第であった。

久方ぶりに兵頭さんとお会いしてなつかしい昔話を楽しむとともに、40数年前の二人の対局譜を並べてみたいと願う今日この頃である。

(ニュースレター令和5年新年号より)

赤沢敬之

高川秀格本因坊の碁

| 2022年9月22日

  新型コロナウィルス感染拡大のこの3年間、対局の機会がめっきり減り、専らパソコンでのプロ対局の観戦や棋譜並べに加え、人智を凌駕したAI囲碁の鑑賞を楽しむ毎日だった。

 7月のある日、突然40年前に6年をかけて全集収録の1118局を並べた高川秀格22世本因坊の棋譜をもう一度並べ、現代碁との相違を実感してみたいと思い立ち、9連覇時代の本因坊戦対局56局をパソコンに入力して眺めてみた。

パソコンの囲碁ソフトに棋譜を入力する

  高川格さんは私の高津高校(旧制中学)の20期上の大先輩である。昭和3年(1928)にプロ初段となり、同27年(1952)に7段として第7期本因坊戦で橋本宇太郎本因坊に挑戦者し4勝1敗で本因坊となり、以後9連覇の偉業を果たし、以後平成2年(1990)に趙治勲本因坊の10連覇までの20年間破られなかった(その後本年7月に本因坊文裕が11連覇)大記録である。

 私が高津に在校中、「本因坊を獲得した高川さんは君たちの先輩だ」と囲碁好きの先生から教えられた記憶はあったが、当時私は将棋に凝っていて囲碁にはあまり関心がなく聞き流していただけだった。

  高川さんに私が初めてお目にかかったのは昭和43年の夏、先生が高野山での坂田本因坊と林海峰9段との本因坊戦の立会人を務められた後、浜寺での高津囲碁会に参加されたときであった。この頃私はアマ4段だったが、指導碁の順番が回らず残念な思いをしたものだった。しかし先生との「碁縁」はその後も全集の棋譜並べを通じ長く深く続いたのである。

高川秀格全集(全八巻)

 さて、今回の本因坊戦対局の相手は、第7期の橋本宇太郎本因坊、第8期以降は木谷実、杉内雅男、島村利博、藤沢朋斎、藤沢秀行、第16期に10連覇を阻止されたのがカミソリ坂田栄男9段など当時を代表する強豪棋士である。

  棋譜をざっと眺めてみたが、序盤の布石や隅の定石などは現在殆ど使われないものがあるが、中盤以降の攻防の応手は今とほぼ変わらぬヨミの応酬である。もちろん精緻なヨミにもミスが潜んでいるため形勢の優劣が生じ、終盤のヨセで勝敗が決する碁が多くみられた。とても素人6段の私にはAI碁との比較など無理な話であった。

  高川さんの棋風は、「流水先を争わず」をモットートする合理的で大局観に明るい平明流と称されたもので、あまり厳しく相手を追い詰めず、終局は1,2目の差で勝利した碁が多く、AI流に相当近いのではないかとの印象を受けた。

筆者の自宅に飾っている色紙

  真夏の日々のこの訓練は、囲碁の人智の及ばぬ深淵さを教えてくれるとともに、この40年間に私の棋力が僅かながら向上したことを実感させてくれるものだった。

(ニュースレター令和4年残暑号より)

赤沢敬之

pagtTop