囲碁雑録 | 2017年5月13日
編集子から、囲碁についてなにか書くようにとのお達しである。
「どうも碁について書くと、自慢話になる傾向がある。それは私だけでなく、自分の余技について語る時たいていの人はそうなってしまうようだ。まれには卑下の形をとることもあるが、それは自慢の裏返しなので、慇懃無礼というのと同じ形式である。人間は、自分の余技について語る時、何故必ず自慢話になってしまうのか」。
作家の梅崎春生は、「烏鷺近況」という題の随筆の冒頭をこのような問いかけで始め、その理由として、
「余技とは、専門以外の芸の謂いであり、つまり専門以外であるから、自分の力量について誤算する傾きを生ずる」こと、
「それからもう一つ人間が余技において自慢するのは、本業においては自慢しにくいという事情にもよるらしい」こと、
また、「余技が碁や将棋の場合は、どうせこれは遊びであるから、競争心や敵愾心がないと面白くない。……だから余技を語る時に、実際以上に自分を強しとし、実際以下に相手をけなしつければ、その相手はなにくそと奮起し、次の勝負が面白くなるだろう」
という効用をあげている。
まことに人間心理とりわけアマ碁客の天狗心理の奥底を鋭く洞察する卓見である。
この伝に従えば、私の小文もどうやら自慢話かその裏返しになってしまうのがオチであろうがそれも許されるというものではあるまいか。
先日中坊さんから、「赤沢さんが碁を打っている姿を見ると、本当に楽しくて仕方がないように見える」というおほめの言葉を頂戴した。
有難くお受けして、早速お礼に勝星をプレゼントすべきところを四子で中押し勝ちしてしまい、チョッビリ悪いことをしたような気になって、「あの手でこう打たれたら私の敗けでした」などと本音か儀礼的慰めか分らぬような言い方でお返ししたことであった。
たしかに碁は楽しいものである。そして、勝てばその楽しみは倍加する。
「芸」と「勝負」とは、プロ棋士がその弁証法的統一を追求する永遠の二つの課題である。
しかし、われらアマ碁客にとっては、「芸」などという高嶺の花よりも、即物的な「勝敗」の方に関心があり、碁仇との対戦に一喜一憂し、相手をヘコますために技術を磨くのである。
もっとも、本職ではないから勝敗が生活に関連することもなく、その意味では気楽な遊びであり、自由奔放に一九路の盤上に勝手な夢を描いて楽しむことができる。
ハメ手を研究し、相手がワナにかかって絶句する様を見るのを無上の悦びとする人もあるし(かつでの私もそうであった)、好敵手と一日数十局も石を並べ合う過程に精を出す人達もある。
碁は「手談」ともいわれる。
言語に頼らずして人と人との全人的な対話が成立する貴重な媒介手段である。
初対面の相手とのネジリ合いからその人となりを感得し、深い親交が始まることもまれではない。とくに好敵手=碁仇は、「にくさもにくしなつかしき」存在であり、終生離れがたい絆で結ばれながら、互いに相手を稚気といくばくかの親愛の情をこめた悪口雑言でけなしつつ、喜々として盤を囲むのである。
昭和32年に「ボヤキの大岡」「イカリの尾崎」の文章ではげしい応酬をした大岡昇平、尾崎一雄の文壇天狗の例をみても、その間の事情が彷彿とする。
「大岡君のやうな人と碁を打つのは、張合ひがあって面白い。外出の大儀な雨の日に、手土産なんか持って、大磯から下曽我までハイヤーでわざわざ負けに来てくれる人なんぞさうざらにあるものではない。私はこの棋友を大切にしたい」と一方が言えば、
「一体『ボヤキの大岡』なんて題で、小説を書いた奴があるか知らん。私小説がいくらワタクシゴトを書き連ねるのが特色とはいえ、全編ことごとく自慢話、ただぼくとの碁に勝ったというだけの話である。私小説も遂にここまで落ちたかと、十返肇が慨歎したそうだが、ぼくも全く同感である。……これまでぼくに負かされたくやしさも、おのずから行間ににじみ出ていて、要するに私小説の妙味得もいわれず、やはり尾崎の傑作の一つだろう」と他方が答えるやりとりなど、実に愉快至極である。
いまわが国の囲碁人口は急成長し500万人から1千万人に近い愛好者がいるといわれる。
白と黒のもっとも簡明な道具立てで天地四方の盤面のどこへでも着手することができる単純明快な、それでいて底知れぬ深みをもつゲームはそうザラにあるものでない。
中国をはじめ西欧にいたる世界諸国に熱烈なファンが続々と増え、いまや国際的な広がりをみせているのもムベなるかなである。
ひるがえってわが大阪弁護士会でも、近年公式戦も催され、棋運隆盛の兆しがあるのは喜ばしいことである。
老若男女を問わず誰でも気軽に打ちこめる囲碁の醍醐味をもっともっと多くの人に味わってもらいたいと思うことしきりの新春である。(1980.1.3)
※ 大阪弁護士会春秋会の機関誌「春秋」に寄せた原稿である。37年も前を振り返り、壮年の格気溢れる時期に、これほど囲碁の醍醐味に浸り、多忙な仕事の合間を縫って実戦に打ち込んでいたのか、思えばなつかしいかぎりである。