弁碁士の呟き
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私と囲碁(57)アマ東西対抗戦
私と囲碁 | 2023年9月29日
第1回アマ東西対抗戦は、昭和52年(1977)11月に名古屋市の日本棋院中部会館で開催された。愛知県を境に東西に分かれ(愛知は西軍)、共に50人程度が互先で2回戦を戦う。この棋戦は、毎年1回行なわれ平成12年(2000)まで24回を重ねている。
出場者は菊池康郎、村上文祥、原田実、中園清三氏などアマ名人・本因坊を筆頭にアマ界を代表する各県の強豪であり、代表幹事は東軍菊池康郎氏、西軍は松尾鐘一氏であった。
対抗戦の記録は、毎年松尾氏を中心とする東西アマ囲碁交流事務局の編纂で「アマの碁(東西対抗戦激闘譜〇〇〇局)」と題し、藤沢秀行、坂田栄男、小林光一、趙治勲氏らプロトップ棋士の監修のもと自主出版を第10号(昭和61年・第10回大会)まで発刊している。
私も第1号から最終号まで購入し、時々アマ強豪の棋譜を並べていたのだが、たまたま昭和の終りころから囲碁倶楽部「爛柯」で松尾氏に教えを受ける機会が何回かあり、同氏の推薦で第17回大会(1993年)から第24回(2000年)まで8回参加させてもらった。
まさか自分がこんな棋戦に参加することなど思いもよらず、当然のことながらラインアップは50名のうち40番程度であったが、幸い13勝3敗の成績で恥をかかずに済んでホッとしたことを思い出す。
なお、この棋戦には東西ともに弁護士の強手も参加しており、私と同時期に参加した同僚竹内隆夫君も10勝6敗の好成績を残している。
対戦相手で記憶に残っているのは、平成12年(2000)、この棋戦最後の対局となった女流の笹子理紗さん。菊池康郎さんの緑星学園で修行中の当時はまだ14歳の中学生だったが、なんとか白番7目半を残すことができた。
同氏はその後早稲田大在学中に全日本女子学生本因坊戦で4位となり、その後囲碁インストラクターとして多くのアマチュアを指導されたが、この記事の執筆のため偶々ネット情報を調べたところ、昨年8月に36歳で早逝されたとの記事を見つけた。あまりにも早いお別れでありご冥福を祈るのみである。
なお、この大会の参加者には後にプロ入りした青木伸一、秋山次郎、三村智保、坂井秀至、森田道博、高梨聖健氏らの名が残されている。
私と囲碁(56)各種アマ囲碁大会への参加
私と囲碁 | 2023年9月22日
長らくの間投稿を怠っていましたが、これから少しずつ続編を書いて行こうと思います。
前回までは、私の碁歴のうち主として鮮烈な記憶に残る対局や先人の教えとプロ棋士からの指導の有難さについての記事が中心でしたが、今回からは私が常時囲碁の醍醐味を味わってきたアマチュアの大会や多くの囲碁会について紹介することにします。
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思い起こすと、橋本誼9段の指導の下、新鋭法曹囲碁同好会で5段の免状を頂いた昭和43年(1968)頃から、毎年各種アマ囲碁大会の大阪府予選に参加することが習わしとなった。
朝日新聞社主催のアマ10傑戦、毎日新聞社主催のアマ本因坊戦、世界アマ選手権予選などである。
対局の記録が残っていないが、当初は当然のことながら殆どが1回戦ボーイであった。そうするうちに昭和61年(1986)に日本棋院アマ6段を授与された50歳頃からようやく時々は2、3回戦に進めるようになったが、対局相手の棋力も強さを増すため強固な岩盤に跳ね返されるのが常であった。
一度だけこの壁を越えたのが平成9年(1997)の175人参加のアマ十傑戦府大会でのベスト16進出だった。あわよくば5回戦も突破し十傑入りをと狙ったがそうは問屋が卸さなかった。3年ほど前にこの大会の新聞記事の切り抜きを偶然に机の引き出しの底から発見して驚いたのは、「最年少の小2生、初戦敗退」とのタイトルの主があの井山裕太少年であったことだった。(その顛末についてはこちらの記事を参照)
対戦相手で印象に残るのは、平成11年(1999) 5月のアマ世界戦大阪府予選で2年前の全国学生囲碁十傑戦で優勝した立命館大学の古家正大さん(現日本棋院5段)との対局である。私の白番で中盤まで互角の戦いであったが、終盤に白が見込んでいた下辺の白地がすっかり荒らされ無念の投了。当夜帰宅後採った棋譜が残っている。
なお、アマ大会には、その当時から各種同好会で多忙となり参加していない。そして古家氏とはその後10年を経て、年4回の関西東大会で指導を受けることとなったのは、正しく碁縁の不思議さと言うべきか。同会もコロナ禍により今なお休会中であるが。
碁縁は巡る
囲碁あれこれ | 2023年1月18日
昨年7月、牛栄子4段(23歳)が女流最強戦・扇興杯で最年少の仲邑菫2段を破って優勝した際、母上の牛力力さん(ニュー・リーリー中国棋士)にお祝いのメールを送り、久しぶりの交流が復活した。

牛栄子さんを特集した囲碁雑誌
丁度7年前の2015年7月8日に、力力さんが当時高校1年生の栄子初段の大阪での初対局の付き添いとして来阪され、19年ぶりの再会に懐かしい思いをしたものだった。

2015年に当事務所を訪問された牛栄子さんと牛力力さん
遡る19年前の1996年4月、呉清源師が実行委員長を務められる上海での「第3回応氏杯世界選手権観戦ツアー」に「呉清源全集」購読者として参加し、大会観戦のあと船中2泊の長江上流「三峡下り」に呉先生ご夫妻とともに中国古代の面影を偲んだのだが、呉師の秘書役リーリーさんがなにかとお世話をされていたのが印象的だった。今回のメールにリーリーさんから丁寧な謝辞があり、何回かメールのやり取りをした。

三峽下りでの呉清源師(手前)と牛力力さん
そして10月15日、私の留守中に兵頭さんという方から事務所に電話があり、囲碁関係の人とのことで手紙を送る旨の伝言を聞いた。
ハテどなたなのか、どこかで会ったような微かな記憶があったが思い出せない。そして4日後に兵頭俊一さんからの書簡と資料が届き、拝見して驚いた。遥か40数年前の5段当時、大阪のアマ高段者の集まり「昭和会」で対局したことがあり棋譜も残っているとのこと、ただびっくりであった。そして同時に、何故私のことが分かったのか?
手紙の続きを見て2度の驚き。なんと力力さんとの深い繋がりがその鍵であった。
お送りいただいた資料によると、兵頭俊一さんは、私の3歳下の83歳で兵庫県在住の方で、19年前の2003年にインターネット碁サーバーの「会員の集い(OFF会)」を開設、年2回の囲碁合宿を定例行事としていたが、2011年にこれを「碁苦楽会」と改称して、近畿・中部・九州のほか台湾・ニュージランド・中国などで25回の囲碁合宿を主宰されている無類の囲碁好きである。
そして牛力力さんは、2004年以来、碁苦楽会の指導棋士として合宿に同行され、「栄子ちゃん(当時2段)」もグループに参加されたこともある由である。
兵頭さんは続けて「力力さんから事務所を訪問されたことをお聞きし、『赤沢さんと碁を打ったことがある・・・』と申しますとびっくりされ、その時の写真や貴殿の囲碁コラムの『呉清源師と三峡下り』も見せて戴き、昭和会での対局のことが懐かしくなり、一度お尋ねしたいと思っていました」と述べられている。
なんというグッドタイミングか!今回の栄子さんの優勝のあとの私のお祝いメ-ルに合わせて見事に三者のリンクが完成したようである。「碁縁は巡る」とはまさにこのことなのかと感じ入り、益々囲碁の魅力と奥深さに引き込まれる思いがした次第であった。
久方ぶりに兵頭さんとお会いしてなつかしい昔話を楽しむとともに、40数年前の二人の対局譜を並べてみたいと願う今日この頃である。
(ニュースレター令和5年新年号より)