弁碁士の呟き

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私と囲碁(54)コロナ禍と囲碁の楽しみ

| 2021年5月12日

 昨年は、新型コロナウィルスの全世界規模での感染拡大により、社会経済活動のみならず、人々の生活全般に多大な変容と犠牲を余儀なくさせた1年であり、その余波は今なお続いている。囲碁界もその例に漏れず、プロアマ問わず多くのイベントや大会が中止あるいはネット対局への切り替えで対処することとなった。
 私もこの1年、対局の機会がめっきり減った。月1・2回で数局の対局に留まり欲求不満が続いている。

 親しい碁敵の仲間と対面し、無駄口を交わしながら烏鷺を戦わせる楽しみは、何物にも代えられぬ碁キチの醍醐味である。

 ところが最近の碁会所などでは盤上を横断するアクリル板が設置され、マスク姿で対局する。致し方ないこととはいえ、これでは石が込み入ったときに全体を俯瞰して形勢判断をするのが難しく、また大石同士の攻め合いの手数を綿密にヨムときに、対面する相手の微妙な表情の動きや呟きを観察しながらひそかに形勢を判断する「奥の手」が使えない。言わば物言わぬAIと戦うようなものである。

 もっとも棋力向上の見地からすると、アクリル板による物理的な支障は別として、実はかような「奥の手」を使わぬ対局の方が純粋に大局的な判断力や複雑な局面でのヨミの力を養うのに適しているのかも知れない。

 そうした見地からいえば、遠隔地同士の対戦である「ネット対局」や「郵便碁」「FAX対局」は独特の面白さがあり、技量向上のよき手立てであるといえよう。

30年に渡る郵便碁・FAX対局の一部

 私はこれまでに、ネット対局は時間的な制約で打ったことはないが、ハガキで一手一手やりとりする「郵便碁」は故河合伸一さんと、同氏が弁護士から最高裁判事に就任した頃の1995年1月から2017年10月までの20年余の間に向こう5子から3子の22局を打ち、未完の4局を残した。

 最高裁の激務の中、同氏は他の相手とも相当数打ち、明らかに棋力向上の跡がみられた。昨年末に逝去されたことが惜しまれてならない。

 「FAX対局」については、西垣昭利弁護士が弁護士任官をした1991年12月から打ち始め、その後同君が弁護士に復帰した後の2017年4月までに向先で100局を打った。
 また原田次郎弁護士とは1992年7月に向先で始めてから25局、間もなく互先となってから2015年3月までに実に263局も烏鷺を戦わせたのであった。
 そして弟の弁護士赤澤博之とも2005年9月から2019年3月までに向先で75局を打っている。

 長きにわたる我が囲碁人生においてもこの約30年は「郵便碁」「FAX対局」で毎日数手ずつではあるが楽しく囲碁に接することができた。そしてそのことが日々の仕事や諸活動のエネルギー源となっていたのだ、と今になって改めて回顧する次第。

 コロナ禍においても、色々な方法で囲碁を楽しみたいと念ずる昨今である。

(ニュースレター2021年春号より)

赤沢敬之

私と囲碁(53)名伯楽石井邦生九段と天才少年井山裕太大三冠

| 2021年1月19日

 昨年12月初旬、日本棋院の「週刊碁」に「私と井山、師弟の歩み」と題する石井邦生九段の著書発刊との広告を見て、早速入手しようと通勤途上南千里の書店に寄ったが、見当たらず残念な思いをした。それにしても最近の一般書店での囲碁関係の書籍の少なさには驚かされる。

 当日、井山天元と挑戦者一力遼碁聖との天元戦第3局を、仕事と並行してネットで観戦し、井山さんの打ちぶりが見事と言う他ない完勝だったので、石井先生にメールで感想を送った際、新著発刊への祝意と通勤時のことを記載したのだった。

 早速、先生から「実は拙著をお送りしょうと思いながら根がズボラな性格でノンビリ構えていました。それとこのような本を読んでいただくのは恥ずかしい気持もありました。明日手元の三冊を進呈させていただきたいと存じます」との返信メールを頂戴し、週明けに事務所に出たところ、先生からのプレゼントが届いていた。

 早速緊急の仕事をそそくさと済ませ、夕刻から貪るように読み始め、帰宅後も食事の後深夜までかかり無事読了した。但し、貴重な棋譜解説はゆっくりと並べながらと思い、ざっと目を通したのだったが。先生の1000勝達成までの棋士一代記と井山少年との出会いから絶対王者に至る間の絶妙なる指導の軌跡を改めて拝見し、感動的な一夜を過した。中でも井山少年との文通録は貴重な歴史的遺産として後世に伝えるべき秀作と思った。加えて、好敵手の大竹英雄・林海峰・工藤紀夫・趙治勲九段などからの寄稿は先生のお人柄や生き様を見事に語っている好読み物だった。囲碁愛好者の皆様に是非ご一読をお薦めしたい。

 翌日、お礼と上記の読後感とともに「先便で厚かましくも催促がましいメールをお送りし恐縮の限りで、『後で気が付く・・・』というところでした」との謝辞を送信した次第である。

 *

 石井先生とのお付き合いは、高校の同窓南諭さんとの縁で、池田市医師会の囲碁仲間の碁会に顔を出した1975年(昭和50年)頃にお会いしたのが始まりであった。その後「爛柯囲碁倶楽部」などで時折指導碁をお願いすることがあったが、先生の追突事故被害の件で相談を受けてから、先生の温厚且つ清廉なお人柄に魅せられ、今日まで交流を深めてきた。

 先生には、時折の2子局の指導碁でやんわりと私の打ち過ぎを矯正していただくほか、私が「会長(世話役)」を勤める大阪弁護士囲碁同好会や高津囲碁会の例会での指導碁、そして棋譜の講評と関西での名人戦・本因坊戦挑戦手合いの観戦の際のプロ棋士の検討室の見学など多岐にわたるご指導を頂いている。

 中でも、なによりも有難いのは、打碁の講評である。何時の頃からか私は大阪弁護士会囲碁大会決勝戦の「観戦記者」になってしまい、弁護士会の「会報」に掲載するのが常となった。執筆にあたり、先生に棋譜をお送りすると、碁罫紙に変化図を7、8枚は作成し、懇切丁寧な解説や批評・感想を書き添えて返送して下さるのである。私はこれを引用し、対局風景の描写や個人的な感想を書き加えれば「観戦記」はたちどころに完成する仕掛けである。なるほどこれぞ井山大三冠を鍛えた打碁講評の極意であったかと妙に納得し、勝手に井山さんの「兄弟子」を任じている次第である。

名人戦宝塚対局の前夜祭にて (2009年9月23日)

名人戦宝塚対局の前夜祭にて

 そして、井山さんである。初めてお逢いしたのは、2005年(平成17年)井山さん中学3年の頃、昼食時に当時の関西総本部の近くの食堂に入ったところ、偶然にも石井先生と井山さんが食事中だった。その頃、井山さんは四段だったろうか。しばしの歓談だったが、既に全日本早碁オープン戦で小林覚九段を破り、史上最年少優勝の記録を打ち建てる前後で、その挙措言動は将来の大飛躍を予感させるものだった。

 その後の井山さんの活躍ぶりは、数々のタイトルを次々と奪取し、2000年(平成12年)には五冠、翌年に六冠、そして2016年(平成28年)と翌年には遂に7大タイトルを同時獲得する「絶対王者」にまで上り詰めたことは周知のとおりである。

日本棋院創立90周年記念式典にて

この間、私は棋聖戦、名人戦、本因坊戦などの挑戦手合いが、大阪や近畿で行われる際にはできるだけ現地に駆け付け、大盤解説会や石井先生の計らいでの検討室における解説者などプロの検討風景を間近に見せていただいた。因みに、私が観戦した対局の殆どは井山さんの勝利であった。

 対局前の前夜祭やタイトル獲得の祝賀会・日本棋院創立90周年記念式典では、暫しの時間ながら会話を楽しみ、井山さんの真面目で飾らぬお人柄に触れることができた。

 

1997年4月7日朝日新聞朝刊より(クリックで拡大)

 ところで、コロナ騒動による自宅待機中、昔の書類や雑誌の整理をしていたところ、机の抽斗の底から1997年(平成9年)4月の朝日新聞のアマ十傑戦府大会の記事の切り抜きを発見した。その頃私は6段で、アマの各種棋戦によく参加していた。成績は1、2回戦で敗退というのが通例だったが、この年のアマ十傑戦府大会では偶々初日の3回戦を突破、2日目の4回戦にも勝ってベスト16となった。あわよくば十傑入りをとひそかに狙ったが、アマ強豪の揃った中では望み叶うべくもなく涙を呑んだのだった。新聞切り抜きは、この大会の初日の勝者名と2日目の対戦成績が掲載されたものであった。

 ところが、この記事の初日のタイトルは「175人参加し熱戦、最年少の小2生、初戦惜敗」であり、それが井山少年であったことに驚きを禁じられなかった。なんと同じ大会に名を連ねていたとは・・組み合わせ次第で対戦もあったかもしれず、碁縁の繋がりの不思議さを感じざるを得なかった。

 井山さんは、この年と翌年の全国少年少女囲碁大会・小学生の部で優勝し、院生としてプロを目指すことになるが、この頃には既に石井先生の指導碁を受けていたようである。

 すっかり忘れていたこの新聞切り抜きは、私にとって様々な記憶を呼び起こしてくれるよき素材であった。そして今、井山さんが強豪まみえる中国・韓国の打ち手を破り、世界一の王者に成って欲しいとの願いとともに、わが生涯の思い出として是非1局でも指導碁をお願いしたいと思うこの頃である。(弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター令和3年新年号より)

 

赤沢敬之

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