弁碁士の呟き

アーカイブ:2022年

高川秀格本因坊の碁

| 2022年9月22日

  新型コロナウィルス感染拡大のこの3年間、対局の機会がめっきり減り、専らパソコンでのプロ対局の観戦や棋譜並べに加え、人智を凌駕したAI囲碁の鑑賞を楽しむ毎日だった。

 7月のある日、突然40年前に6年をかけて全集収録の1118局を並べた高川秀格22世本因坊の棋譜をもう一度並べ、現代碁との相違を実感してみたいと思い立ち、9連覇時代の本因坊戦対局56局をパソコンに入力して眺めてみた。

パソコンの囲碁ソフトに棋譜を入力する

  高川格さんは私の高津高校(旧制中学)の20期上の大先輩である。昭和3年(1928)にプロ初段となり、同27年(1952)に7段として第7期本因坊戦で橋本宇太郎本因坊に挑戦者し4勝1敗で本因坊となり、以後9連覇の偉業を果たし、以後平成2年(1990)に趙治勲本因坊の10連覇までの20年間破られなかった(その後本年7月に本因坊文裕が11連覇)大記録である。

 私が高津に在校中、「本因坊を獲得した高川さんは君たちの先輩だ」と囲碁好きの先生から教えられた記憶はあったが、当時私は将棋に凝っていて囲碁にはあまり関心がなく聞き流していただけだった。

  高川さんに私が初めてお目にかかったのは昭和43年の夏、先生が高野山での坂田本因坊と林海峰9段との本因坊戦の立会人を務められた後、浜寺での高津囲碁会に参加されたときであった。この頃私はアマ4段だったが、指導碁の順番が回らず残念な思いをしたものだった。しかし先生との「碁縁」はその後も全集の棋譜並べを通じ長く深く続いたのである。

高川秀格全集(全八巻)

 さて、今回の本因坊戦対局の相手は、第7期の橋本宇太郎本因坊、第8期以降は木谷実、杉内雅男、島村利博、藤沢朋斎、藤沢秀行、第16期に10連覇を阻止されたのがカミソリ坂田栄男9段など当時を代表する強豪棋士である。

  棋譜をざっと眺めてみたが、序盤の布石や隅の定石などは現在殆ど使われないものがあるが、中盤以降の攻防の応手は今とほぼ変わらぬヨミの応酬である。もちろん精緻なヨミにもミスが潜んでいるため形勢の優劣が生じ、終盤のヨセで勝敗が決する碁が多くみられた。とても素人6段の私にはAI碁との比較など無理な話であった。

  高川さんの棋風は、「流水先を争わず」をモットートする合理的で大局観に明るい平明流と称されたもので、あまり厳しく相手を追い詰めず、終局は1,2目の差で勝利した碁が多く、AI流に相当近いのではないかとの印象を受けた。

筆者の自宅に飾っている色紙

  真夏の日々のこの訓練は、囲碁の人智の及ばぬ深淵さを教えてくれるとともに、この40年間に私の棋力が僅かながら向上したことを実感させてくれるものだった。

(ニュースレター令和4年残暑号より)

赤沢敬之

待ち遠しい囲碁会の再開

| 2022年5月2日

新型コロナウィルスの感染拡大により、私の囲碁生活も多大な影響を被っている。この2年余、対局の機会がめっきり減り、それまではほぼ毎月10数局だったのが今は月1・2回数局の対局に留まっているのは、定例の各種囲碁会の休止が原因である。

コロナ以前、ここ10年に私が参加していた定例の囲碁会は、高校仲間の年4回の「高津囲碁会」(世話人向山裕三郎3段)、の年4回の「関西東大会」(世話人大阪大学井元秀剛教授)、私が会長を仰せつかっている大阪弁護士囲碁同好会の月3回の「5の日」、逢坂貞夫元大阪高検検事長主宰の月1回の「行友会」、年1回の全国規模の「法曹囲碁大会」、それに世話人原田次郎6段の毎月1回の大阪弁護士会有志の「王座研究会」であり、これだけで親しい囲碁仲間と膝突き合わせて対局を存分に楽しむことができたのである。加えて、石井邦生9段、吉田美香8段、古家正大4段などプロ棋士の指導碁を受ける機会も魅力的であった。

高津囲碁会

関西東大会

行友会

王座研究会

しかし、これらの定例会の殆どは休会となり、未だ再開の目途も立っていないだけでなく、この間に高津碁会の元世話人丸尾誠一5段、岩本義史6段、関西東大会の元関西棋院理事長小松健男6段など多くの囲碁仲間がこの世を去られ別離の悲しみを受けることとなっている。

現在僅かに「王座研究会」だけが囲碁クラブ「爛柯」で5,6人集まり月1回の土曜日の午後を楽しんでいるが、なんとかできるだけ早くこれらの定例囲碁会が再開されることをと切に祈る毎日である。

(ニュースレター令和4年GW号より)

赤沢敬之

私と囲碁(55)思い出の対局 日中韓律師親善大会と世界覇者聶衛平9段との指導碁(再掲版)

| 2022年1月31日

 2004 (平成16)年7月中頃、法曹囲碁連盟の山田洋史事務局長から、四川省重慶で10月に開催される第6回中国律師(弁護士)囲碁大会に日本・韓国の弁護士を招待したいとの中華全国律師協会から日弁連への参加要請があったとの連絡があった。

日弁連訪中団

秋10月9日、日弁連訪中団の一員に加わり、空路重慶に向かう。団の構成は、東京弁護士会から河嶋昭5段、日野原昌6段、山田洋史5段、谷直哲7段、名古屋から大山薫7段、大阪から鬼追明夫5段(団長)と私7段の7名で、団体戦に大山、谷と私、個人戦に4名が参加することとなった。大会の会場は重慶市郊外の海琴酒店(ホテル)で、緑豊かな湖畔の観光地である。

海琴飯店から湖畔を臨む

 大会には、中国から22省及び直轄市の律師協会から選抜された30団体と個人戦参加者を含め120名、日本7名、韓国3名の合計130名が参集。対局は3日間に各人互先の10局、持ち時間は一人90分で時間切れ負け、朝から夜まで1日3局打つ。そして4日目午前中には最終の10局目を打ち終了となる。コミは中国ルールによる7目半。

 10月10日の大会初日には、全国律師協会副会長や大会実行委員長に続き、中国囲碁協会主席の陳祖徳9段の挨拶があり、スイス方式での対局が始まった。高齢層主体の日本勢に比して、中国選手は青年層が大半で高齢層はあまり見かけない。韓国の3名は高中青とバランスがいい。

 さて、10月10日午前9時開始の第1局、対戦相手は広東省の38歳の青年律師。私の白番で幸先よく中押し勝ちだったが、午後の第2局目は河南省の34歳の青年に黒番中押負け。続く夜戦、午後7時半からの第3局は浙江省代表と2時間50分の熱戦で、黒番時間切れの勝ちで無事1日目は終わった。

 翌11日の大会2日目、午前の第4局は四川省成都代表との白番。終盤まで楽勝の局勢だったのに、黒の石を取ろうと欲を出したのが悪く、損を重ねて1目半の逆転負け。この相手はなかなかの強手で個人戦で126名中9位であった。
 午後の部第5戦は海南省の32歳の青年との対局で黒番中押し勝ち。碁歴14年。そして夕食後の第6戦。重慶市代表との白番を中押で制し、ようやく4勝2敗で2日目を終えた。

 第3日は、午前の第7戦が山西省代表の35歳の青年。力戦派で白番中押し負け。そのあと午後の第8戦に当たったのは数少ない韓国選手団の団長と思われる63歳の弁護士で、重厚な棋風の本格派。私の黒番だったが、序盤作戦が悪く、中押し負け。これで4勝4敗の相星となってしまった。そして夜の部の第9戦は天津市の48歳の中年律師との白番、終盤に逆転の11目半勝ちで愁眉を開く。

 10月13日の大会最終日は、海琴酒店(ホテル)で午前の第10局を終えた後、市内の繁華街にある金源大飯店に会場を移し表彰式が行われる予定となっていた。

最後の対局に勝てば勝ち越しとなる。残る力を振り絞って午前8時半対局開始。江西省族自治区代表との白番である。序盤から中盤にかけて両者堅実に自軍を補強しつつ均衡を保ったが、中盤戦で白が地合いを稼ぎ有利な形勢となる。7目半のコミもあり、どうやらこのリードを維持できそうだと楽観したのが悪く、終盤黒の激しい追い込みにドンドン白地が削られて行く。持ち時間も少なくなるし、中国ルールでアゲ石の数も瞬時に計算できない。ともかくも運を天に任せるしかないと臍を固め、薄氷を踏む思いで終局に至った。そして、審判員の白石の整地の結果、辛うじて半目を残すことができたのはまさに幸運であった。こうして待望の6勝目を挙げることができ、ホッと安堵の吐息を漏らしたのであった。

戦いを終え、やがて午後の会場移動。バスにて市内中心地の高層ホテル金源大飯店に向かう。午後2時、3階大宴会場に参加者、関係者が全員集合して始まった表彰式。団体戦優勝は海南省、2位浙江省1組、3位四川省1組、以下31チームの順位発表(日本、韓国チームは参入せず)と表彰の後、個人戦の成績優秀者の表彰が行われた。壇上には、全国律師協会などの役員のほか、かつて1980年代から90年代にかけて日中スーパー囲碁対抗戦で日本のトップ棋士をなぎ倒し「鉄のゴールキーパー」と謳われた聶衛平9段ほか何人かの高段棋士も参列していた。日本勢の成績は、大山薫さんと私が6勝、谷直哲さんが5勝、鬼追明夫、日野原昌、山田洋史さんが4勝、河嶋昭さん3勝であった。

「鉄のゴールキーパー」聶衛平9段

表彰式のあと中国高段棋士による指導碁が予定されていた。何名かの棋士が担当する中で、聶衛平9段は中日韓の選手各1名と3面打ちをするとのことで、各国それぞれ対局者を選ぶこととなった。日本勢は、6勝の大山さんと私のくじ引きで、私が幸運を引き当てることができた。こうして大勢の観客に囲まれる中で、左に中国選手、右に韓国の長老文正斗さんと並んでかつての「世界ナンバーワン」聶衛平さんとの3子局が始まった。

聶衛平9段との日中韓三面打ちの様子

白1と星に対し、私は右辺星の3連星。以下の進行は別掲の棋譜が示すとおり中央に黒の大模様が形成され、中盤までは3子の置き石の利を活用して大過なく進んだ。しかし、黒80辺りで中央から右辺にかけて黒の大地が完成すれば残るのではと甘い期待をしたのが運の尽き、黒84が悪く、白85から巧みに黒の大模様が荒らされ、あとはただ防戦一方の中押し負けとなった。貴重な1局だったので、後で棋譜を記録しようと考えていたら、思いがけなく同僚の谷直哲さんから赤青鉛筆の棋譜を渡され有難く頂戴した。後日帰国してこの棋譜を石井邦生先生にお見せしたところ、黒84で7十一に打っておけば黒勝勢だったとの指摘を受け、1手のミスの恐ろしさを改めて痛感させられた。この棋譜は私にとって生涯の宝物であり、パソコンに入力し時々再現して18年前を回顧している。

こうして丸4日をかけた大会も閉会式と中国律師協会の役員や日中韓選手との夜の晩餐会をもって無事終了し、翌日の南宋時代の旧跡大足石窟や大廣寺の観光と重慶司法局長の招宴を最後に、10月15日重慶から北京を経て無事帰国したのであった。

 

(ニュースレター令和4年新年号より)

赤沢敬之

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