アーカイブ:2016年
私と囲碁 | 2016年7月21日
平成5年(1993)1月頃、当時逢坂さんは大阪高検次席として、吉永祐介検事長とのコンビで大役を担っていたが、吉永さんも無類の碁好きで二人はときどき官舎で烏鷺を戦わすこともあったようだ。当時は検事や検察事務官の間でも囲碁を嗜むメンバーも多く、毎年の大会も催されていたようだったが、2人のトップの肝いりで「大阪高検地検合同囲碁クラブ」を設立することとなり、その指導棋士選定の相談があった。早速、師匠の石井邦生9段に推薦をお願いし、故細川千仭門下の弟弟子高林正宏5段を紹介して頂いた。会員は40名を超える賑やかさで、以後毎月の定例会が開催されることとなった。こうした経緯で、私もできるだけオブザーバーとして参加することとし、検察庁の碁客との親善対局を楽しんだ。翌年地検公判部長として大阪に復帰された大塚清明さんとも確か2子でお願いしたが、同氏退官後は弁護士同好会などで向先の対局を重ねている。
この碁会発足からしばらくして、吉永さんの東京高検検事長、検事総長就任、逢坂さんの最高検公判部長就任と生みの親の大阪からの転出が相次いだが、検察碁会は平成16年までほぼ10年続いた。この間、逢坂君は平成9年(1997)に大阪高検検事長として古巣に復帰し、2年後に退官し弁護士登録をされたのちも検察碁会に通っていた。しかし、現職検事や事務官の定年退官の余波を受け、現役の愛好者が少なくなり、やむなく閉会の時を迎えることとなった。
吉永検事長とは、この碁会発足前に「爛柯」で初めてお会いした際,3子で見事敗北を喫したが、検察碁会でのお手合わせは1度だけに留まったのは残念であった。ただ逢坂さんら親しい囲碁仲間での送別会での集まりで4子局をお願いしたほか、検事総長就任後の平成7年4月に来阪された際、「爛柯」で3子、4子局を打ったのが最後となった。
ロッキード事件、リクルート事件、ゼネコン汚職など数々の難件の捜査を指揮された「仕事の鬼」も、仕事を離れると気さくで庶民的な人柄の紳士で、その棋風も穏やかで堅実なものであった。その後、平成8年に検事総長を退任し弁護士登録をされた数年のちだったか、日弁連の仕事で上京した際にご自宅に伺ったことがあった。その際確か碁盤を囲ったような記憶があるが、あるいは夢幻であったのか今は定かでない。先生は平成25年(2013)にあの世に旅立たれた。ご冥福をお祈りするばかりである。(続)
追記:この記事を投稿した日の翌朝の毎日新聞「余録」(7月22日付)に、奇しくも「ミスター検察」と言われた吉永祐介さんを偲ぶ記事が掲載されていた。一読をお勧めしたい。
私と囲碁 | 2016年7月6日
司法修習生同期の逢坂さんとは、昭和34年以来の半世紀を超える長い付き合いである。青春の真っ只中、戦後の復興期を担う若者としての理想と意気込みは共有していたものの、互いの進路は検事と弁護士という2つの道に分かれて幾星霜を経たが、この間もずっと親しい交わりを続けて来られたのはひとえに囲碁のお蔭であった。
彼の任官後の任地であった岡山や大津、山口、熊本、高松には、私の仕事での出張の機会や夏休みを利用して訪問し、時間があれば盤を囲むのが楽しみであった。特に思い出深いのは、昭和43年の大津地検での対局である。勤務時間の後、彼の執務室には7.8人の事務官たちが集まり、当時4段だった私と1級くらいだった彼との5子の対局を見守る。その頃の大津地検では、どうやら彼は筆頭格の腕自慢だったらしく、大勢の観客の目を意識してか、私の白石を猛烈に攻め立てたのだったが、あまりの強攻にあちこちに綻びが生じ、中盤以降黒の大石が次々と死滅し、ついには盤上石なしの結末を迎えたのであった。大敗を喫した同君には申し訳ない結果となってしまったが、反面この一戦が事務官連中に多大の刺激を与えたらしく、以後大津地検職員の囲碁熱が盛んになったようで、私の訪問も無駄ではなかったとの逢坂君の後年の述懐ではある。またそれから40数年を経て、当時の観戦者の一員で今は立派な5段の方と逢坂君の事務所で再会し、往時を懐かしく語ったのも嬉しいことである。
彼の任地への訪問と囲碁体験は、その後の熊本や高松でも重ねられたが、いずれにおいても逢坂君の囲碁普及の伝道師の役割を窺うことができたのだった。熊本地検では、阿蘇でのゴルフと職員たちの碁会に参加し、また彼の高松高検検事長の頃には、同期の上原洋允弁護士と訪問し、大阪での検察囲碁会の師範高林5段に代わって高松高検の囲碁愛好者への初二段免状推薦のお手伝いをするという汗顔の至りともいうべき出過ぎた真似をしたのも、今となっては碁界活性化のためとしてお許し願えるのではないか。ともあれ彼の行くところ「碁の青山」ありという次第だ。(続)
私と囲碁 | 2016年1月3日
表彰式が終わり、これで閉会かと思っていたら、そのあと中国高段棋士による指導碁が予定されていた。何名かの棋士が担当する中で、聶衛平9段は中日韓の選手各1名と3面打ちをするとのことで、各国それぞれ対局者を選ぶこととなった。日本勢は、6勝の大山さんと私のくじ引きで、私が幸運を引き当てることができた。こうして大勢の観客に囲まれる中で、左に中国選手、右に韓国の長老文正斗さんと並んでかつての「世界ナンバーワン」聶衛平さんとの3子局が始まった。
白1と星に対し、私は右辺星の3連星。以下の進行は別掲の棋譜が示すとおり中央に黒の大模様が形成され、中盤までは3子の置き石の利を活用して大過なく進んだ。しかし、黒80辺りで中央から右辺にかけて黒の大地が完成すれば残るのではと甘い期待をしたのが運の尽き、黒84が悪く、白85から巧みに黒の大模様が荒らされ、あとはただ防戦一方の中押し負けとなった。貴重な1局だったので、後で棋譜を記録しようと考えていたら、思いがけなく同僚の谷直哲さんから赤青鉛筆の棋譜を渡され有難く頂戴した。後日帰国してこの棋譜を石井邦生先生にお見せしたところ、黒84で7十一に打っておけば黒勝勢だったとの指摘を受け、「大魚を逸した」との残念な思いとともに1手のミスの恐ろしさを改めて痛感させられたのだった。
こうして丸4日をかけた大会も閉会式と中国律師協会の役員や日中韓選手との夜の晩餐会をもって無事終了し、翌日の南宋時代の旧跡大足石窟や大廣寺の観光と重慶司法局長の招宴を最後に、10月15日重慶から北京を経て無事帰国したのであった。この旅は同僚弁護士や現地の通訳、日本旅行社の案内役など多くの人々のお世話を受け充実した旅であった。そして好きなことに堪能することがいかに精神衛生のみならず身体にもよい影響を及ぼすかを実感した旅でもあった。(続)