私と囲碁 | 2015年4月17日
対局が中盤に入り、白の厚みが地模様になりかけた。置石のハンディが徐々に消え去ろうとしている。こうなってはいけない。やさしい手つきで厳しい手を打つ滝口さんの追い込みに、再三の反撃のチャンスを逸し、ついに白に最後の大場に廻られてしまい、5目の負けとなってしまった。川熊さんの観戦記で紹介された滝口さんの指摘によれば、黒は3回のチャンスがあったとのこと。最近並べなおしてみると、確かにそのとおりである。なぜあのとき必要以上に守りの姿勢に終始してしまったのか、やはり「プロの指導碁を何十局も経験して慣れている人でも雑誌に載る一戦となると格別に緊張するようだ」との観戦子の批評が当たらずとも遠からずだったのだろうか。いい勉強をさせてもらったものだ。
なお、これには後日談がある。昭和36年(1961)の弁護士登録後、検事に任官した同期の逢坂貞夫君の任地には仕事で出かけた際に表敬訪問をして、時間や都合が許すときは一局手合わせすることもあった。岡山、大津、山口に続き、平成5年(1993)当時、同君は熊本地検の検事正を勤めていた。その年の8月末、山口在住の依頼者の相談を兼ねて、山口から熊本に足を伸ばすこととなった。逢坂君には前年発行された「週刊ポスト」の1992年4月1日号と8日号を送り、「残念だったが、いつもの君らしくない遠慮振りだったな」との慰めの言葉をもらっていたが、来訪の件を伝えると、「地検の囲碁クラブの事務官たちに『ポスト』を見せたところ、みんながコピーして研究している。君が来るのを手ぐすね引いて待っているぞ」とのことで、嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な思いをさせられたのであった。
やがて8月末、熊本を訪れ、初日は阿蘇山麓の雄大な山並みに囲まれたゴルフ場でプレーを始めたところ、折り悪しく豪雨と雷に襲われ、午前でプレーは断念。急遽会場を変えて、事務官たちを交え碁盤を囲むことと相成った。このとき何局の手合わせをしたのか記憶にはないが、生憎く当日、例の棋譜を熱心に研究していたという方が不在で、翌日宿で打つこととなった。そして翌日、その事務官の方と対戦。向う二子だったと思うが、熱心な「研究」に圧倒され、僅差で負けてしまった。思わぬ副産物が今なおなつかしく思い起こされるのである。(続)
*写真は「週刊ポスト」1992年4月8日号