私と囲碁 | 2015年7月21日
7月初め、自宅に、ある女性からの思いがけない電話があった。妻から受話器を受け取ると「ニュー・リーリーです」との懐かしい声。年賀状のやりとりは欠かさなかったが、19年前の1996年(平成8年)4月、呉清源師との「三峡下り」で同行したとき以来の会話である。「今度7月6日から9日まで大阪に参ります。娘の栄子(日本棋院初段)の大阪での初対局の付き添いです」。先日このコラムの(38)で、あの日の懐かしい思い出を書いたばかりのこの時に、なんというグッドタイミングか。早速、来阪後の対局の合間の7月8日に栄子さんと共に私の事務所にお越しいただき、昼食と喫茶店であれ以来の積もる話に時を忘れたのであった。
牛力力さんは、1961年ハルピン市で出生、若い頃から中国棋院で研鑽、師匠は聶衛平9段で馬暁春、苪廼偉9段らとは同門の5段で、1989年に来日。爾来長年にわたり呉清源先生の秘書役として、囲碁雑誌や新聞の解説記事を先生に取材執筆し、更には先生の囲碁観を集大成した「21世紀の碁」全10巻や「思い出の18局 今ならこう打つ」の編集執筆という大作をものされている。もちろん19年前にはそのような履歴やその後の囲碁界に対する多大な貢献は知る由もなく、旅行の当時は、明朗闊達で知性豊かな美女との印象をもった程度であった。その後月刊「囲碁」の呉先生の解説記事は毎月欠かさず勉強させてもらっていたのだが。
事務所で顔合わせしたとき、互いに「あの頃とお変わりありませんね」との第一声。私は今や老骨に鞭打つ身だが、彼女は昔と変わらぬ姿に母親らしい落ち着きを加え、この間の成長を示していた。高校1年の栄子さんは前日の初対局に無事勝ち、事務所までの中之島界隈の散策を楽しんだ様子であった。力力さんは、手土産に呉先生の「百寿記念」のお祝いの会に向けて揮毫され今や絶筆となった貴重な「河山一局之棋」と題する扇子を持参され有難く拝受した。
話題はやはり呉清源先生のことが中心だったが、特に印象深かったのは、波瀾に富んだ棋士人生を送られた先生が、生涯を閉じられる寸前まで囲碁の道を探求され、最期まで頭脳の衰えを見せられなかったこと、そして70歳の頃からご自分の寿命を100歳と想定され、それ以上は生きている意味はないとよく話されていたとの話であった。そして、百寿のお祝いの際にも同様のことを述べられたが、その言葉のとおりその後間もなく昨年11月30日に天寿を全うされたということであった。長年にわたり先生の身近で取材執筆を勤められたリーリーさんならではの話であった。話は尽きなかったが、帰りがけに私の妻と電話で改めて久闊を叙したあと、ほのぼのとした気分で御堂筋の梅田新道付近でまたの再会を期してお別れした。(続)