私と囲碁 | 2014年8月18日
私の囲碁も昭和38年年4月に関西棋院からようやく初段の免状を授与され、翌39年に2段、41年に3段と順調に昇段した。
その間、昭和40年8月に青年法律家協会の友好使節団一員として中国を訪問した。北京、西安、延安などを周ったあと上海に到着。なつかしの我が家のあったアパートを訪れたところ、20年以上前に隣人として接触していた隣家のおばあさんから「おばあちゃん(当時上海で一緒に暮らしていた私の祖母)は元気にしていますか」とあいさつされ、嬉しく感動的なひとときを過ごしたことを思い出す。
上海では、ガーデンブリッジ付近の宿泊ホテルで、たまたま通訳の青年に囲碁の話をしたところ、翌日の休養日に早速碁盤を抱えた少年数名が来訪した。そのうちのひとり15,6歳位の少年が上海の高校生大会での優勝者と紹介され、早速盤を囲むこととなった。当時の中国の囲碁界は日本棋士の訪中団の指導のもとに研鑽を積んでいた時期で、プロ組織はまだなかったが、若手アマへの普及が進展していたものと思われた。同行の弁護士たちが見守る中、私の白番で始まった碁は、中終盤でのコウ争いに失敗し、見事敗局となる。この碁は中国少年が棋譜を採ってくれたのだが、後の我が家の引越しにまぎれて見当たらなくなってしまったのは残念の極みである。
なぜ私がこの棋譜にこだわるかというと、それが単に記念の棋譜というだけでなく、もしかするとその少年が、後年中国碁界を代表する「専業棋士」として名を馳せることになる棋士のひとりではなかったかとの思いを捨てきれないからであった。それから28年を経た平成5年3月に、関西棋院石井新蔵9段の依頼で、「囲碁関西」随筆欄に「幻の棋譜」と題して寄稿し、当時の思い出を再現した。(続)