弁碁士の呟き

カテゴリ:囲碁あれこれ

囲碁と裁判

| 2020年1月27日

 私の本業である弁護士業務の中で主たる仕事は民事裁判事件であり、主たる趣味は囲碁である。共に相手方との熾烈な戦いを繰り広げ、終局的にはいずれかの側が勝ちを収めるのが通例である。

ただ民事裁判では、当事者双方の言い分の相当性に応じて「和解」という解決が用意されている。

同じ勝負事であっても、将棋の場合はいずれか一方が完勝という結果で終わるのに対し、囲碁の場合はジゴという引き分け(「和局」という)や1目勝ちという僅差など勝敗の目数が表示されるので、対局者にとっては心理的な受け止め方が緩やかな面がある。

裁判に例えると、大まかに言えば囲碁は民事事件で将棋は刑事事件と対比できるのではないか。

 さて、ここでは囲碁と民事裁判の流れと勝敗を決するために必要な力量は何かを考えてみたい。

 

「前田なつほ木彫友の会」バス旅行の夕刻、琵琶湖畔のホテルで旧友と囲碁を楽しむ筆者(2019.10.29)

 

 

 裁判においては、まず依頼者からの事情聴取の段階で、その言い分の正当性や用意できる証拠の有無を大局的に判断し、裁判所にその主張を提出する。

囲碁における布石の段階である。

ここでは、いずれも大局的な判断力、直観力が要求される。

 

双方の主張が出揃った段階で、証拠書類提出や証人尋問等の証拠調べに入る。

囲碁における中盤戦の攻防である。

ここでは、双方の用意した主張や証拠を綿密に調べ、法令や判例の知見に基づき、当方の主張の正当性と相手方の主張の矛盾や不当性を追求する。

囲碁においても同様で、定石や手筋、古今東西の棋譜の知識に基づき、相手方の弱点を衝いたり、予想外の新手を繰り出すことが求められる。

言わば知識力、分析力、思考力が要求される。

 

 やがて証拠調べが終わり、裁判所の判決を待つか、或いは双方の合意に基づく和解の手続きに入るかという終局段階を迎える。

対して、囲碁における終盤では、詰碁やヨセの正確な判断力が不可欠である。

ここでは、最終解決をどうするかという決断力も試されることになる。

 

 このように考えると、裁判においてもまた囲碁においても、大局観、判断力、直観力、思考力、分析力、知識力、決断力、持続力の養成が不可欠であり、その総合としての人間力の絶えざる練磨・精進が欠かせない。

及ばずながら私もそのための努力を重ねたいと念願する新年である。

(ニュースレター2020年新年号より)

赤沢敬之

高川名誉本因坊との出会い

| 2019年4月17日

 高川さんの棋風は、「流水先を争わず」をモットーとする合理的で大局観に明るいものであった。温厚な学者肌の人柄で、ユーモアに溢れ多くの囲碁ファンに親しまれた。

 さて、このような大先輩に私か初めてお目にかかったのは1968年(昭和43年)の夏、先生が高野山での坂田本因坊と林海峰九段との本因坊戦の立会人を務められた後、浜寺での高津囲碁会に参加されたときであった。

 私か高津に在校中、「本因坊を獲得した高川さんは君たちの先輩だ」と囲碁好きの先生から教えられた記憶はあったが、当時私は将棋に凝っていて囲碁にはあまり関心がなく聞き流していただけだった。その後私は、大学後期から司法修習生の時代に囲碁に熱中し、弁護士になってからは各種囲碁の会に出て、1968年にはアマ四段になっていた。

 当時、高津の先輩達は定例の囲碁会を催しており、私も新参者として入会していたためこの碁会に列席し、高川さんが三面打ちの指導をするのを観戦したが、順番が回らず、折角の機会を逸し残念な思いをしたものだった。碁が終わり宴会の場で、それぞれが名誉本因坊に色紙の揮毫をお願いした。花押を所持されていなかったため墨書のみだが、貴重な銘品として今も私の書斎に飾られている。

 高川さんにお会いしたのはこの1回限りであったが、その後先生との「碁縁」は長く深く続くことになった。 1982年10月から1987年2月までの5年有余、『高川秀格全集』全8巻の対局譜を毎朝1局ずつ並べるのを日課とし、1118局を並べ終えたときは、すっかり高川流の棋風に感染した気分になっていた。因みにその頃には六段の免状を頂く棋力にはなっていたようだ。

 こうした偉大な先輩の驥尾に付して、今私は「弁碁土」と称し、弁護士会や同期生を中心に結成した高津囲碁会で研讃と普及に努めるのを残された人生の生き甲斐としている。どうか同窓の囲碁愛好者の皆さん、一度年4回の高津囲碁会を覗かれては如何でしょうか。
                                 赤沢敬之(高校6期)

(「大阪府高津高等高校創立100周年記念誌」寄稿)

 

【高川秀格 プロフィール】
1915年9月21日生、本名高川格。和歌山県田辺市出身で、1928年に旧制高津中学入学の11期生である。同年に日本棋院初段としてプロ生活を始める。 1933年17歳で上京。 1952年の第7期本因坊戦で挑戦者に躍り出る。橋本宇太郎本因坊に4連勝して本因坊に。以後1960年まで本因坊9連覇の偉業。 1961年に坂田栄男九段に城を明け渡したが、その後も各種棋戦で活躍し「不死鳥」と呼ばれた。 1964年に高川秀格名誉本因坊を名乗り、1986年71歳で死去。昭和を代表する名棋士の一人である。

赤沢敬之

「弁碁士の呟き」余話 

| 2019年2月13日

 私の囲碁歴は1958年大学4年の頃に遡る。ざっと60年である。多忙な弁護士の仕事や弁護士会の活動の合間によく飽きもせず続けてきたものと我ながら感心せざるを得ない。現在日本棋院の免状6段であるが、歳を重ねるごとに囲碁の尽きせぬ魅力に取りつかれ、棋力向上への果てしない欲求とともに、できるだけ多くの人にこの魅力を伝えたいと願っている。4年前の事務所のホームページ開設の機会に「弁碁士」と称し、「私と囲碁」のコラムを掲載することとした。現在50話で中断しているが、近く再開の予定である。

 さて、ここで紹介したいのは、故中山典之日本棋院6段の「囲碁いろは歌」の一首である。

「いろは歌」は、すべての仮名文字を一度ずつ使って作る歌で、古来空海作と伝えられ日本人なら誰でも幼少時から口ずさむ歌だが、同氏は1994年発行の「囲碁いろは歌」で囲碁にまつわる「いろは歌」をなんと84首も作り、囲碁の文化的魅力を存分に披歴している。まさに棋士であり文士の面目躍如である。私がこの中でお気に入りは「神造歌」と題する次の一首である。

 「神造りぬる囲碁楽し 世に夢を得て幸多き 争う人も懸念せず 烏鷺笑む山は平和なれ」

 今、我が国の囲碁人口は、かつての1000万人台から激減し、近時の調査では250万人とも報ぜられている。「琴棋書画は君子のたしなみ」と称されてきた囲碁は、論理的思考力や大局観の訓練に役立つだけでなく、忍耐力、持続力を養い、また人との交わりにも大きな役割を果たすものである。世界への普及度は、中国、韓国を筆頭に70か国で4000万人に達する現在、江戸時代の日本において伝統的な文化資産として練り上げた囲碁の盟主の地位を復活させたいものと素人ながら願うこの頃である。

(ニュースレター創刊号より)

追記。改めてインターネットで見ると、中山6段、84首どころか生涯で千首以上のいろは歌を作られたそうだ。なんともはやである。

赤沢敬之

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