弁碁士の呟き

カテゴリ:私と囲碁

私と囲碁(2) 囲碁との出会い

| 2014年6月12日

徳島では、田舎町の街角の餅屋のおやじさんの店の一角で、夕刻になると近所の人たちが縁台将棋を楽しむのをよく見学したことから、将棋には親しむことができたが、囲碁とは縁がなかった。

大阪に移り、父の建てた工場の母屋で暮らしていると、家に碁盤が置いてあるのを見つけた。そして、住み込みの工員さん2、3人が夜になると烏鷺(黒白)を戦わせていた。これが碁とのかかわりの第一歩であった。どうやら父が戦後上海で2年ほど行動制限をされていた間の暇時に、知人から碁の手ほどきを受けたらしい。父もたまに工員さんの相手をしていた。

当時、ルールもろくに知らない私が少しは碁を知っていると称していた近所の同級生と見よう見真似で一局打ってみたが、盤上石なしの散々な目に会い、何回打っても同様だったので、なにやら悔しく、もうやめたということになり、高校1年まで石を握ることがなかった。今になって悔やまれるところだ。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(1) 時代と境遇

| 2014年6月2日

私が碁盤なるものを初めて目にしたのは、昭和24年春、中学2年生の頃であった。徳島の田舎町から大阪の学校に転校して、天王寺区の焼け跡に父が戦後建てたバラック家屋に移ってきたときであった。

明治生まれの父は農家の三男で、外地で一旗揚げるべく昭和13年頃から単身上海に渡って自動車修理工場を始めていたが、仕事も順調にいっていたようで、昭和16年10月「大東亜戦争」開始直前に、家族一同を現地に呼び寄せていた。当時私は、「国民学校」入学前。やがて真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争に突入したのだが、そのあたりの話についてはまた折に触れて書き留めていきたい。

ともあれ、それから3年後、祖国が敗色濃厚との情報が現地に届き外地での敗戦を避けさせたいとの父の判断で、敗戦の前年秋に家族は父を残して海路門司港に帰国し、徳島の父の実家に身を寄せることとなった。

父が帰国したのは戦後2年を経てからだったが、大阪で再出発した自動車修理業がなんとか軌道に乗り始めたこともあって、私も中学2年で大阪に移ってきたのであった。こんな時代と境遇であった。(続)

赤沢敬之

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