弁碁士の呟き

カテゴリ:私と囲碁

私と囲碁(52)「碁縁は異なもの味なもの」ー比叡山律院叡南俊照阿闍梨師との出会いー

| 2019年9月19日

 「縁は異なもの味なもの」とは、古来予測できない人生の面白みを表す諺だが、私にとっては、これに「碁」という一文字を足すだけで語りつくせぬ囲碁と人生の深み面白みを表す言葉となる。比叡山律院の叡南俊照阿闍梨師との出会いはまさにその典型的な一例である。

 阿闍梨さんは昭和18年生まれ、昭和54年に戦後8人目(現在まで約40人)の千日回峰行(約30キロの比叡山の山道を1000日歩く荒行と堂入り後の9日間の断食、断水、不眠、不臥)を達成された高僧で、無類の囲碁好きの自称5段(一般の碁会では6、7段か)の打ち手である。

 私とは思わぬご縁でお知り合いになり、平成26年7月と翌年3月に律院を訪れ、護摩焚き祈願に参列したあと、烏鷺(注:囲碁の別名)を楽しんだ。

比叡山律院に初訪問(2014年)

律院での初対局

 2回目の訪問には高津高校同窓の向山さんと同行し、私は2局(向先)、向山さんは3子で1局打った。

2回めの訪問(2015年)

 さて、その碁縁とは、平成26年に同窓の前田さんから、従姉妹のMさんのご主人の法律問題の紹介を受け、無事案件が解決したあと、前田さんとMさんが事務所に来られた際、たまたま私の「医師弁護士対抗碁会」での対局が紹介された囲碁雑誌「梁山泊」を一冊欲しいとのことでお渡ししたところ、律院に奉仕をされているMさんが阿闍梨さんに見せられたようで、是非一度来院をとのお話があり、Mさんたちとともに平成26年の夏に訪問したことに始まるものだった。

囲碁梁山泊 (2013年白秋)

執務室にて(2014年)

 高僧でありながら(だからこそ)、腰の低いやさしいお人柄の方で、修行中も囲碁を楽しみ、毎週火曜日には宿舎で碁会を催される(現在は中止)ほか、これまでに全国の105の碁会所を回られたという驚異的な記録をもっておられる。

 この訪問がきっかけとなり、その後平成27年4月から、私たちの高津囲碁会に毎年1,2回は秘書役の囲碁愛好者の方と共に参加され、7段格で無類の早打ちを披歴されている。

高津囲碁会での対局(2018年)

高津囲碁会にて(2018年)

 碁会のこととて、ゆっくりとお話をお聞きする時間がないのが残念だが、そのうち千日回峰行の話や法話などをお伺いすることができればと期待する昨今である。

高津囲碁会の面々と(2016年)

(ニュースレター令和元年夏号より)

赤澤秀行

私と囲碁(51)鳴門紀行と囲碁入門

| 2019年2月6日

 私の故郷は、徳島県鳴門市の田舎町である。昭和11年から16年10月まで居住し、その後父が自動車修理工場を経営していた上海に渡り、国民学校3年の2学期まで上海の共同租界で暮らした。当時日本国内では、太平洋戦争での戦局を国民に偽り、国家総動員体制で鬼畜米英に対する戦意を鼓舞していたようだが、外地では日本はもう負けるとの情報が伝えられたため、父を残して軍用貨物船で7日をかけて命からがら門司港に帰国した。

 帰国後、故郷の鳴門市で国民学校3年から敗戦後の新制中学1年まで暮らした。居住地は淡路島に面する海岸に近く、昭和19年12月の南海大地震の津波騒動などがあったが、戦中戦後の大変動期をここで経験した。

 今回、長男秀行の提案で、10月7、8日の連休に、私が戦争末期から敗戦後の少年時代に暮らした鳴門を訪問し、昔の住まいの付近や岡崎海岸を散策する旅の企画をした。

岡崎海岸から大鳴門橋を望む

孫たちは残し、7日に、妻と子ども4人が神戸から高速バス明石大橋を渡り、淡路島を縦断して、鳴門大橋から土佐泊りの鳴門ルネッサンスホテルに着いたあと、昔私を導いてくれた3年先輩の内田英明さんのお宅を訪問した。その後、母校林崎小学校までの通学路を経て岡崎の旧家や家の前の西宮神社に参詣し、海水浴を楽しんだ岡崎海岸に出て夫婦岩や淡路島を遠望した。夕刻ホテルに帰り、夜の阿波踊りショーを楽しみ、翌8日には大塚国際美術館を見学する慌ただしい旅程で神戸まで帰って来た次第であった。

 この旅の眼目は、子どもたちに父の幼少時のルーツを教えることであったが、同時に内田先輩に50年ぶりに会い久闊を叙し、私の小学6年から中学1年当時の思い出話を子どもたちに聞かせることだった。

 内田さんは、私の旧宅の近くに住む3年先輩で当時鳴門高校1年の故佐藤喜久男さん(元小学校長)の同級生で秀才の誉れの高かった方だったが、なにかの縁で高校生のグループに中学生ただ一人入れてもらったのがきっかけで多くの教えを受けたものだった。確か、当時岡崎で英語を教えていた倫敦帰りの的場先生の塾に入れてもらい、タイプライターを初めて見て驚いたことが記憶に残っている。

 同氏は、その後東大に進学し、卒業後は故郷の大塚製薬株式会社に69年間勤務し、現在は「大動脈解離」の後遺症など多くの病気を抱えながら、クラシック音楽、歴史書やチェス(3段)の研鑽を続ける前向きの生活を送っている。若い時には、囲碁5段、将棋4段の免状を得られたが、今は「初段程度の実力」とのことである。

 さて、内田さんのお宅を訪れたのが午後 時頃、奥様とともに玄関先まで出迎えを受け、開口一番「首を長くして待っていました」との挨拶に一同感激。応接間での対話は70年も前の昔話に及び、昭和26年同氏の大学入学後の帰省の際、大阪の拙宅に寄られ、当時高校1年だった私に囲碁のルールの指導をしたことにも触れられた。この時頂戴した瀬越憲作9段の「囲碁読本」が私の囲碁入門の原点であった。しかし、私がその後囲碁の実践に取り組むようになったのは昭和33年秋、大学4年の司法試験合格後で、この間は好敵手のいた将棋に情熱を燃やしていたのだった。司法修習生の時期から今日まで60年にわたり囲碁に熱中し、その尽きせぬ魅力に今なお飽きもせず取りつかれている現在、「あの時から始めていたなら今頃は」との感懐を催させられた今回の内田さんとの再会であった。

 尽きせぬ話が始まって間がないうちに予定の時間が越え、次の旅程の私の旧宅跡に向かうため、名残り惜しくも次回の再会を期してお別れしたのだった。

(ニュースレター新年号より)

赤沢敬之

私と囲碁(50)吉永検事総長と検察碁会

| 2016年7月21日

 平成5年(1993)1月頃、当時逢坂さんは大阪高検次席として、吉永祐介検事長とのコンビで大役を担っていたが、吉永さんも無類の碁好きで二人はときどき官舎で烏鷺を戦わすこともあったようだ。当時は検事や検察事務官の間でも囲碁を嗜むメンバーも多く、毎年の大会も催されていたようだったが、2人のトップの肝いりで「大阪高検地検合同囲碁クラブ」を設立することとなり、その指導棋士選定の相談があった。早速、師匠の石井邦生9段に推薦をお願いし、故細川千仭門下の弟弟子高林正宏5段を紹介して頂いた。会員は40名を超える賑やかさで、以後毎月の定例会が開催されることとなった。こうした経緯で、私もできるだけオブザーバーとして参加することとし、検察庁の碁客との親善対局を楽しんだ。翌年地検公判部長として大阪に復帰された大塚清明さんとも確か2子でお願いしたが、同氏退官後は弁護士同好会などで向先の対局を重ねている。

 この碁会発足からしばらくして、吉永さんの東京高検検事長、検事総長就任、逢坂さんの最高検公判部長就任と生みの親の大阪からの転出が相次いだが、検察碁会は平成16年までほぼ10年続いた。この間、逢坂君は平成9年(1997)に大阪高検検事長として古巣に復帰し、2年後に退官し弁護士登録をされたのちも検察碁会に通っていた。しかし、現職検事や事務官の定年退官の余波を受け、現役の愛好者が少なくなり、やむなく閉会の時を迎えることとなった。

 吉永検事長とは、この碁会発足前に「爛柯」で初めてお会いした際,3子で見事敗北を喫したが、検察碁会でのお手合わせは1度だけに留まったのは残念であった。ただ逢坂さんら親しい囲碁仲間での送別会での集まりで4子局をお願いしたほか、検事総長就任後の平成7年4月に来阪された際、「爛柯」で3子、4子局を打ったのが最後となった。
 ロッキード事件、リクルート事件、ゼネコン汚職など数々の難件の捜査を指揮された「仕事の鬼」も、仕事を離れると気さくで庶民的な人柄の紳士で、その棋風も穏やかで堅実なものであった。その後、平成8年に検事総長を退任し弁護士登録をされた数年のちだったか、日弁連の仕事で上京した際にご自宅に伺ったことがあった。その際確か碁盤を囲ったような記憶があるが、あるいは夢幻であったのか今は定かでない。先生は平成25年(2013)にあの世に旅立たれた。ご冥福をお祈りするばかりである。(続)

追記:この記事を投稿した日の翌朝の毎日新聞「余録」(7月22日付)に、奇しくも「ミスター検察」と言われた吉永祐介さんを偲ぶ記事が掲載されていた。一読をお勧めしたい。

 

赤沢敬之

私と囲碁(49) 逢坂貞夫さんと検察庁めぐり

| 2016年7月6日

 司法修習生同期の逢坂さんとは、昭和34年以来の半世紀を超える長い付き合いである。青春の真っ只中、戦後の復興期を担う若者としての理想と意気込みは共有していたものの、互いの進路は検事と弁護士という2つの道に分かれて幾星霜を経たが、この間もずっと親しい交わりを続けて来られたのはひとえに囲碁のお蔭であった。

 彼の任官後の任地であった岡山や大津、山口、熊本、高松には、私の仕事での出張の機会や夏休みを利用して訪問し、時間があれば盤を囲むのが楽しみであった。特に思い出深いのは、昭和43年の大津地検での対局である。勤務時間の後、彼の執務室には7.8人の事務官たちが集まり、当時4段だった私と1級くらいだった彼との5子の対局を見守る。その頃の大津地検では、どうやら彼は筆頭格の腕自慢だったらしく、大勢の観客の目を意識してか、私の白石を猛烈に攻め立てたのだったが、あまりの強攻にあちこちに綻びが生じ、中盤以降黒の大石が次々と死滅し、ついには盤上石なしの結末を迎えたのであった。大敗を喫した同君には申し訳ない結果となってしまったが、反面この一戦が事務官連中に多大の刺激を与えたらしく、以後大津地検職員の囲碁熱が盛んになったようで、私の訪問も無駄ではなかったとの逢坂君の後年の述懐ではある。またそれから40数年を経て、当時の観戦者の一員で今は立派な5段の方と逢坂君の事務所で再会し、往時を懐かしく語ったのも嬉しいことである。

 彼の任地への訪問と囲碁体験は、その後の熊本や高松でも重ねられたが、いずれにおいても逢坂君の囲碁普及の伝道師の役割を窺うことができたのだった。熊本地検では、阿蘇でのゴルフと職員たちの碁会に参加し、また彼の高松高検検事長の頃には、同期の上原洋允弁護士と訪問し、大阪での検察囲碁会の師範高林5段に代わって高松高検の囲碁愛好者への初二段免状推薦のお手伝いをするという汗顔の至りともいうべき出過ぎた真似をしたのも、今となっては碁界活性化のためとしてお許し願えるのではないか。ともあれ彼の行くところ「碁の青山」ありという次第だ。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(48) 重慶での中日韓律師囲碁大会(下の2)- 聶衛平9段の指導碁

| 2016年1月3日

new_中国弁護士囲碁大会 127 表彰式が終わり、これで閉会かと思っていたら、そのあと中国高段棋士による指導碁が予定されていた。何名かの棋士が担当する中で、聶衛平9段は中日韓の選手各1名と3面打ちをするとのことで、各国それぞれ対局者を選ぶこととなった。日本勢は、6勝の大山さんと私のくじ引きで、私が幸運を引き当てることができた。こうして大勢の観客に囲まれる中で、左に中国選手、右に韓国の長老文正斗さんと並んでかつての「世界ナンバーワン」聶衛平さんとの3子局が始まった。

  白1と星に対し、私は右辺星の3連星。以下の進行は別掲の棋譜が示すとおり中央に黒の大模様が形成され、中盤までは3子の置き石の利を活用して大過なく進んだ。しかし、黒80辺りで中央から右辺にかけて黒の大地が完成すれば残るのではと甘い期待をしたのが運の尽き、黒84が悪く、白85から巧みに黒の大模様が荒らされ、あとはただ防戦一方の中押し負けとなった。貴重な1局だったので、後で棋譜を記録しようと考えていたら、思いがけなく同僚の谷直哲さんから赤青鉛筆の棋譜を渡され有難く頂戴した。後日帰国してこの棋譜を石井邦生先生にお見せしたところ、黒84で7十一に打っておけば黒勝勢だったとの指摘を受け、「大魚を逸した」との残念な思いとともに1手のミスの恐ろしさを改めて痛感させられたのだった。

棋譜 中国指導碁  こうして丸4日をかけた大会も閉会式と中国律師協会の役員や日中韓選手との夜の晩餐会をもって無事終了し、翌日の南宋時代の旧跡大足石窟や大廣寺の観光と重慶司法局長の招宴を最後に、10月15日重慶から北京を経て無事帰国したのであった。この旅は同僚弁護士や現地の通訳、日本旅行社の案内役など多くの人々のお世話を受け充実した旅であった。そして好きなことに堪能することがいかに精神衛生のみならず身体にもよい影響を及ぼすかを実感した旅でもあった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(47) 重慶での中日韓律師囲碁大会(下の1)- 最後の対局

| 2015年12月27日

  2004年(平成16)10月13日の大会最終日は、海琴酒店(ホテル)で午前の第10局を終えた後、市内の繁華街にある金源大飯店に会場を移し表彰式が行われる予定となっていた。

new_中国弁護士囲碁大会 116  最後の対局に勝てば勝ち越しとなる。残る力を振り絞って午前8時半対局開始。江西省族自治区代表との白番である。序盤から中盤にかけて両者堅実に自軍を補強しつつ均衡を保ったが、中盤戦で白が地合いを稼ぎ有利な形勢となる。7目半のコミもあり、どうやらこのリードを維持できそうだと楽観したのが悪く、終盤黒の激しい追い込みにドンドン白地が削られて行く。持ち時間も少なくなるし、中国ルールでアゲ石の数も瞬時に計算できない。ともかくも運を天に任せるしかないと臍を固め、薄氷を踏む思いで終局に至った。そして、審判員の白石の整地の結果、辛うじて半目を残すことができたのはまさに幸運であった。こうして待望の6勝目を挙げることができ、ホッと安堵の吐息を漏らしたのであった。

  戦いを終え、やがて午後の会場移動。バスにて市内中心地の高層ホテル金源大飯店に向かう。繁華街の中、近辺での高層ビル建築の工事音が激しく、バスや自動車の往来も頻繁である。午後2時、3階大宴会場に参加者、関係者が全員集合して始まった表彰式。団体戦優勝は海南省、2位浙江省1組、3位四川省1組、以下31チームの順位発表(日本、韓国チームは参入せず)と表彰の後、個人戦の成績優秀者の表彰が行われた。壇上には、全国律師協会などの役員のほか、かつて1980年代から90年代にかけて日中スーパー囲碁対抗戦で日本のトップ棋士をなぎ倒し「鉄のゴールキーパー」と謳われた聶衛平9段ほか何人かの高段棋士も参列していた。日本勢の成績は、大山薫さんと私が6勝、谷直哲さんが5勝、鬼追明夫、日野原昌、山田洋史さんが4勝、河嶋昭さん3勝であった。(続)

※下の2は新年1月3日に投稿の予定

赤沢敬之

私と囲碁(46) 重慶での中日韓律師囲碁大会(中)- 対局と中国ルール

| 2015年12月9日

 さて、10月10日午前9時開始の第1局、対戦相手は広東省の38歳の青年律師。私の白番で幸先よく中押し勝ちだったが、午後の第2局目は河南省の34歳の青年に黒番中押負け。続く夜戦、午後7時半からの第3局は浙江省代表と2時間50分にわたる熱戦だったが、黒番時間切れの勝ちで無事1日目は終わった。持ち時間1人1時間半は、私にとって日頃の日本でのアマ戦の45分に比べゆったりと打てる。序盤作戦に時間を費やし終盤時間に追われて失敗することの多い私だが、2倍の持ち時間は有難く、お蔭で棋譜も100手ほどは採ることができたのだった。 

 翌11日の大会2日目、午前の第4局は四川省成都代表との白番。終盤まで楽勝の局勢だったのに、黒の石を取ろうと欲を出したのが悪く、損を重ねて1目半の逆転負け。この相手はなかなかの強手で個人戦で126名中9位であった。午後の部第5戦は海南省の32歳の青年との対局で黒番中押し勝ち。碁歴14年、棋譜並べの独学で上達したとのことだった。そして夕食後の第6戦。重慶市代表との白番を中押で制し、ようやく4勝2敗で2日目を終えた。

 第3日は、午前の第7戦が山西省代表の35歳の青年。力戦派で白番中押し負け。そのあと午後の第8戦に当たったのは数少ない韓国選手団の団長と思われる63歳の弁護士で、重厚な棋風の本格派。私の黒番だったが、序盤作戦が悪く、中押し負け。これで4勝4敗の相星となってしまった。そして夜の部の第9戦は天津市の48歳の中年律師との白番、終盤に逆転の11目半勝ちで愁眉を開く。こうして3日目を終え、日本ではとても味わえない終日「囲碁三昧」の日々が、懸念していた体調にも好影響をもたらしてくれたようだった。

 これまでの戦い、初めての中国ルールによる対局に戸惑いを覚えること屡々であった。日本では、勝敗は地合い(陣地マイナス取られ石)の広さを比較するのに対し、中国では、盤上に生存する石数の多さ(陣地プラス盤上の石数)を比較する。従ってダメも石数になるのでおろそかにできない。アゲ石は無関係なので、すぐ相手に返すか横に置く。これが私には最初よく分からず、目算のカンが狂う原因となった。終局後は審判員が白黒いずれか一方の石を整地して勝敗を判定する。ここまでの9局は殆どが中押しか大差の碁で中国ルールを意識する必要がなかったが、第4局の1目半負けの時は最後まで正確な数値をヨムことができなかった。
 3日目を終え、なんとか負け越しを免れたので、その夜12時までの日本団員との歓談で傾けた紹興酒の味わいが心地よかったことを思い出す。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(45) 重慶での中日韓律師囲碁大会(上)

| 2015年11月24日

 平成16年(2004)4月18日、前日風邪気味で回ったゴルフが無理だったのか、咳、痰に加え39度近い高熱を発し、病院で受診したところ肺炎で、4月20日から5月7日まで入院治療を受けた。退院後は入院中の体力の衰えの回復のため、早朝のウォーキングに努めてきたが、容易には元に復することがなかった。

  こんな最中、7月中頃、法曹囲碁連盟の山田洋史事務局長から、四川省重慶で10月に開催される第6回中国律師(弁護士)囲碁大会に日本・韓国の弁護士を招待したいとの中華全国律師協会から日弁連への参加要請があったとの連絡と大阪・名古屋からも参加願いたいとの呼びかけを受けた。又とない好機でありなんとか参加したい、8年前呉清源先生に同行した「三峡下り」の際訪れた重慶への再訪である。しかしまだ体調に自信がなく、多くの方に迷惑を掛けることは避けねばならない。迷った挙句、一旦は辞退することに決めたのだが、たまたま締め切り前の8月24日に顧問先の黄檗山緑樹院の住職と事務所の弁護士との会食の際、この話をしたところ、「秋には体調は回復するだろうし、この好機を逃すべきでない、奥さんに同行してもらえば」との村瀬和尚や河村利行弁護士の強い勧めに逡巡していた気分が吹っ切れ、参加を決意した。

new_中国弁護士囲碁大会 055 こうした経緯を経て、秋10月9日、体調もほぼ回復し、日弁連訪中団の一員に加わり、空路重慶に向かった。団の構成は、東京弁護士会から河嶋昭5段、日野原昌6段、山田洋史5段、谷直哲7段、名古屋から大山薫7段、大阪から鬼追明夫5段(団長)と私7段の7名で、団体戦に大山、谷と私、個人戦に4名が参加することとなった。

 大会の会場は重慶市郊外の海琴酒店(ホテル)で、緑豊かな湖畔の観光地である。8年前には工場集積地帯である重慶市は大気汚染で青空もどんよりと霞んでいたが、その後北京、上海、天津と並ぶ直轄都市となり規制や老朽設備の改善が進んだためか、当時と較べかなり好転したとの印象を受けた。

new_中国弁護士囲碁大会 093 大会には、中国から22省及び直轄市の律師協会から選抜された30団体と個人戦参加者を含め120名、日本7名、韓国3名の合計130名、それに全国と各地方の律師協会役員50余名が参集した。対局は3日間に各人互先の9局、持ち時間は一人90分で時間切れ負け、昼夕の休憩をはさんで朝から夜まで1日3局打つ。そして4日目午前中には最終の10局目を打ち終了となる。コミは中国ルールによる7目半。

 10月10日の大会初日には、全国律師協会副会長や大会実行委員長に続き、中国囲碁協会主席の陳祖徳9段の挨拶があり、スイス方式での対局が始まった。高齢層主体の日本勢に比して、中国選手は青年層が大半で中年層はいるが高齢層はあまり見かけない。韓国の3名は高中青とバランスがいい。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(44) 三木正さんとの20年(下)

| 2015年10月25日

 三木さんとの対局は、平成7 (1995) 年9月に始まり、毎月1局、私の事務所で、午後6時頃から食事休憩をはさみ9時頃までというのが通例で、これが平成25(2013)年12月までたゆみなく続いた。この間、三木さんの骨折事故や奥様のご不幸、私の胃がん手術などでのブランクもあったが、ほぼ毎月月末の定例対局の楽しみが私の仕事の励みともなっていた。ところが、平成26年に入って程なく、三木さんの自宅庭での転倒による腰骨骨折という不慮の事故のため、永らく続いたこの対局も継続できなくなり、その後はお見舞い旁々の訪問の際やたまたまの事務所への来所の機会での数局の対局が数えられるのみとなったのが残念である。これまでの対局数は174局。

 第1局の開始当時、三木さんは75歳で私が59歳。同氏の強さは「爛柯」の仲間などからも聞いており、7段格の大先輩なので、私の定先の手合いと思っていたのだが、とりあえず互先で打とうということになり、私の黒番で打ったところ、たまたま私が幸いしたことから、以後互先の対局となった。しかし、それからがいけない。三木さんが本気を出され、その後2年間ほどは10局に1度ほどしか勝たせてもらえない。強力な攻めと終盤での強引ともいうべき取りかけにいつも屈服させられる展開となる。ようやく10年ほど経ち100局を数える頃になった平成17(2005)年頃にやっと累計の勝率が2割程度に上昇。そしてその後9年間の70数局の勝率はようやく4割を越えたが、累計では3割程度となっている。これらの対局の棋譜は、前半の9年ほどは対局中に三木さんが碁罫紙に記録されたが、後半に入りしばらくは私がパソコンに入力していた。

new_2006_0727_202443AA 対局の日、三木さんはまず関西棋院に顔を出し、知り合いの棋士に私との打ち碁の講評を願い、夕刻私の事務所に来られるのが常であった。そのうち10年程前の何時の頃であったか、高津高校時代の友人向山裕三郎さん(元会社社長、当時初段前)が毎回観戦に来て、棋譜採り役を受け持つようになった。さらに2年後、三木さんから聞かれたのか石井新蔵9段が関西棋院の帰りに事務所に寄られるようになり、対局途中に向山さんからパソコン入力を引き継がれることになった。そして終局後の講評。なんとも有難い指導である。おかげで向山さんも棋力とみに上昇し今は3段格。それに加え、囲碁の面白みや奥深さを実感したと述懐されている。

 対局途中の夕食休憩で、取り寄せの「うな重」に舌鼓を打ちながら、石井先生のプロ碁界の話題や三木さんの昔話に耳を傾ける楽しいひとときもあった。事務所の浦島三郎弁護士(初段格)や高津囲碁会の世話役故岩崎佳枝さん、同会常連の故藤田貞吉君(3段格)もたまに顔を出し歓談に加わっていた。

 三木さんは、理非曲直をわきまえ古武士の面影を宿す剛直の人である。90年を超える波乱の人生経験に教えられることが多かった。棋風も同様に剛直な力戦派でありながら、筋や形を重んじる手厚さは、百戦錬磨の棋歴と「月刊碁学」の編集者としての永年の蓄積なのであろう。これまでのお付き合いに感謝するとともに、今なお衰えぬ棋力にこれからも触れる機会を作りたいと願っている。(続)

 

赤沢敬之

私と囲碁(43) 三木正さんとの20年(上)

| 2015年10月14日

 三木正さん、関西碁界では知る人ぞ知る囲碁ジャーナリストの長老である。氏は、関西棋院の機関誌「囲碁新潮」を発行していた囲碁新潮社が倒産したあと、故宮本直毅9段から同社のアマ初中級者向けの「月刊碁学」の継続を引き受けられ、昭和50年代から約10数年間、発行者兼編集長兼ライターとして囲碁普及のため 悪戦苦闘を続けられた。この雑誌は、上級者・高段者にとっても有益で、懇切丁寧な解説は他に類を見ないものであった。私も時折特集号を求め勉強してきた。同氏は現在95歳のご高齢で西宮の自宅で自適されている。
 三木さんは、広島文理大学国語国文科を卒業され、元々は国文学者を目指していたが、戦時中のこととて やむなく昭和18年に江田島の海軍兵学校文学科教官(海軍中尉)に就任し、敗戦のあと神島化学工業の総 務部長・常務取締役を歴任されるという数奇な前半生を送られた。そして、昭和51年以降は、上述の囲碁専業の後半生に移られる。

 同氏の囲碁歴も数奇かつ多彩である。敗戦直前の昭和20年8月4日に瀬越憲作師に出会われたのが、第3期本因坊戦挑戦手合第2局の第1日目、所は広島県五日市の対局場。原爆投下の2日前であった。瀬越先生から橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫8段を紹介される。これが縁で、戦後は橋本囲碁道場で修行され、メキメキ腕を上げられたようであり、後年は宇太郎先生の後援会「雨洗会」のボランティア世話役を務められた。また、戦後まもなく昭和21年10月、会社からの出張の機会に瀬越先生の紹介状を持参して、当時岡山県玉島に住ま われていた第1期本因坊関山利一師の指導を受けることとなり、以後24年まで11局の4子局の棋譜を宝物として残されている。当時は初段だったとか。

 三木さんとの交遊が始まったのは、平成7年(1995)9月頃だった。「月刊碁学」の熱心な愛読者で全巻所持者の西垣昭利弁護士(6段格)が裁判官に任官することとなったのがきっかけだった。当時西垣さんは「雨洗会」の会員で、世話役の三木さんに事務的な便宜を提供していたが、事務所を離れるに当たり、三木さんに私をよき対局相手として紹介してくれたのである。以後20年にわたる三木さんとの対局の模様は次回に記すこととして、ここでは三木さんが「月刊碁学」の1984年から1988年の段級位認定テストに修正を加え、新たに書き直してミルトス図書から発刊した「次の一手」(2011.5)「続次の一手」(2012.11)を推奨しておきたい。

 同書は、「級位者のために」と銘打っているが、とてもそのような代物ではなく、高段者にも有益な問題集である。坂井秀至8段が精密に監修されており、私も販売協力員として碁友に合計180冊ほどを普及し、日頃の三木さんの「碁恩」にささやかながら報いることができた。  しかし、この本の圧巻はなんといっても問題の合間に新たに書き下ろされた珠玉のコラムである。「原爆対局12」「関山本因坊24」「橋本本因坊48」は、上述した三木さんの華麗な碁歴と瀬越先生ら錚々たる師匠たちとの人間味溢れる触れ合いを生き生きと描かれており、これだけでも一読の価値がある。なお多くの人に推奨したいと願うものである。(続)

赤沢敬之

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