弁碁士の呟き

カテゴリ:私と囲碁

私と囲碁(48) 重慶での中日韓律師囲碁大会(下の2)- 聶衛平9段の指導碁

| 2016年1月3日

new_中国弁護士囲碁大会 127 表彰式が終わり、これで閉会かと思っていたら、そのあと中国高段棋士による指導碁が予定されていた。何名かの棋士が担当する中で、聶衛平9段は中日韓の選手各1名と3面打ちをするとのことで、各国それぞれ対局者を選ぶこととなった。日本勢は、6勝の大山さんと私のくじ引きで、私が幸運を引き当てることができた。こうして大勢の観客に囲まれる中で、左に中国選手、右に韓国の長老文正斗さんと並んでかつての「世界ナンバーワン」聶衛平さんとの3子局が始まった。

  白1と星に対し、私は右辺星の3連星。以下の進行は別掲の棋譜が示すとおり中央に黒の大模様が形成され、中盤までは3子の置き石の利を活用して大過なく進んだ。しかし、黒80辺りで中央から右辺にかけて黒の大地が完成すれば残るのではと甘い期待をしたのが運の尽き、黒84が悪く、白85から巧みに黒の大模様が荒らされ、あとはただ防戦一方の中押し負けとなった。貴重な1局だったので、後で棋譜を記録しようと考えていたら、思いがけなく同僚の谷直哲さんから赤青鉛筆の棋譜を渡され有難く頂戴した。後日帰国してこの棋譜を石井邦生先生にお見せしたところ、黒84で7十一に打っておけば黒勝勢だったとの指摘を受け、「大魚を逸した」との残念な思いとともに1手のミスの恐ろしさを改めて痛感させられたのだった。

棋譜 中国指導碁  こうして丸4日をかけた大会も閉会式と中国律師協会の役員や日中韓選手との夜の晩餐会をもって無事終了し、翌日の南宋時代の旧跡大足石窟や大廣寺の観光と重慶司法局長の招宴を最後に、10月15日重慶から北京を経て無事帰国したのであった。この旅は同僚弁護士や現地の通訳、日本旅行社の案内役など多くの人々のお世話を受け充実した旅であった。そして好きなことに堪能することがいかに精神衛生のみならず身体にもよい影響を及ぼすかを実感した旅でもあった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(47) 重慶での中日韓律師囲碁大会(下の1)- 最後の対局

| 2015年12月27日

  2004年(平成16)10月13日の大会最終日は、海琴酒店(ホテル)で午前の第10局を終えた後、市内の繁華街にある金源大飯店に会場を移し表彰式が行われる予定となっていた。

new_中国弁護士囲碁大会 116  最後の対局に勝てば勝ち越しとなる。残る力を振り絞って午前8時半対局開始。江西省族自治区代表との白番である。序盤から中盤にかけて両者堅実に自軍を補強しつつ均衡を保ったが、中盤戦で白が地合いを稼ぎ有利な形勢となる。7目半のコミもあり、どうやらこのリードを維持できそうだと楽観したのが悪く、終盤黒の激しい追い込みにドンドン白地が削られて行く。持ち時間も少なくなるし、中国ルールでアゲ石の数も瞬時に計算できない。ともかくも運を天に任せるしかないと臍を固め、薄氷を踏む思いで終局に至った。そして、審判員の白石の整地の結果、辛うじて半目を残すことができたのはまさに幸運であった。こうして待望の6勝目を挙げることができ、ホッと安堵の吐息を漏らしたのであった。

  戦いを終え、やがて午後の会場移動。バスにて市内中心地の高層ホテル金源大飯店に向かう。繁華街の中、近辺での高層ビル建築の工事音が激しく、バスや自動車の往来も頻繁である。午後2時、3階大宴会場に参加者、関係者が全員集合して始まった表彰式。団体戦優勝は海南省、2位浙江省1組、3位四川省1組、以下31チームの順位発表(日本、韓国チームは参入せず)と表彰の後、個人戦の成績優秀者の表彰が行われた。壇上には、全国律師協会などの役員のほか、かつて1980年代から90年代にかけて日中スーパー囲碁対抗戦で日本のトップ棋士をなぎ倒し「鉄のゴールキーパー」と謳われた聶衛平9段ほか何人かの高段棋士も参列していた。日本勢の成績は、大山薫さんと私が6勝、谷直哲さんが5勝、鬼追明夫、日野原昌、山田洋史さんが4勝、河嶋昭さん3勝であった。(続)

※下の2は新年1月3日に投稿の予定

赤沢敬之

私と囲碁(46) 重慶での中日韓律師囲碁大会(中)- 対局と中国ルール

| 2015年12月9日

 さて、10月10日午前9時開始の第1局、対戦相手は広東省の38歳の青年律師。私の白番で幸先よく中押し勝ちだったが、午後の第2局目は河南省の34歳の青年に黒番中押負け。続く夜戦、午後7時半からの第3局は浙江省代表と2時間50分にわたる熱戦だったが、黒番時間切れの勝ちで無事1日目は終わった。持ち時間1人1時間半は、私にとって日頃の日本でのアマ戦の45分に比べゆったりと打てる。序盤作戦に時間を費やし終盤時間に追われて失敗することの多い私だが、2倍の持ち時間は有難く、お蔭で棋譜も100手ほどは採ることができたのだった。 

 翌11日の大会2日目、午前の第4局は四川省成都代表との白番。終盤まで楽勝の局勢だったのに、黒の石を取ろうと欲を出したのが悪く、損を重ねて1目半の逆転負け。この相手はなかなかの強手で個人戦で126名中9位であった。午後の部第5戦は海南省の32歳の青年との対局で黒番中押し勝ち。碁歴14年、棋譜並べの独学で上達したとのことだった。そして夕食後の第6戦。重慶市代表との白番を中押で制し、ようやく4勝2敗で2日目を終えた。

 第3日は、午前の第7戦が山西省代表の35歳の青年。力戦派で白番中押し負け。そのあと午後の第8戦に当たったのは数少ない韓国選手団の団長と思われる63歳の弁護士で、重厚な棋風の本格派。私の黒番だったが、序盤作戦が悪く、中押し負け。これで4勝4敗の相星となってしまった。そして夜の部の第9戦は天津市の48歳の中年律師との白番、終盤に逆転の11目半勝ちで愁眉を開く。こうして3日目を終え、日本ではとても味わえない終日「囲碁三昧」の日々が、懸念していた体調にも好影響をもたらしてくれたようだった。

 これまでの戦い、初めての中国ルールによる対局に戸惑いを覚えること屡々であった。日本では、勝敗は地合い(陣地マイナス取られ石)の広さを比較するのに対し、中国では、盤上に生存する石数の多さ(陣地プラス盤上の石数)を比較する。従ってダメも石数になるのでおろそかにできない。アゲ石は無関係なので、すぐ相手に返すか横に置く。これが私には最初よく分からず、目算のカンが狂う原因となった。終局後は審判員が白黒いずれか一方の石を整地して勝敗を判定する。ここまでの9局は殆どが中押しか大差の碁で中国ルールを意識する必要がなかったが、第4局の1目半負けの時は最後まで正確な数値をヨムことができなかった。
 3日目を終え、なんとか負け越しを免れたので、その夜12時までの日本団員との歓談で傾けた紹興酒の味わいが心地よかったことを思い出す。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(45) 重慶での中日韓律師囲碁大会(上)

| 2015年11月24日

 平成16年(2004)4月18日、前日風邪気味で回ったゴルフが無理だったのか、咳、痰に加え39度近い高熱を発し、病院で受診したところ肺炎で、4月20日から5月7日まで入院治療を受けた。退院後は入院中の体力の衰えの回復のため、早朝のウォーキングに努めてきたが、容易には元に復することがなかった。

  こんな最中、7月中頃、法曹囲碁連盟の山田洋史事務局長から、四川省重慶で10月に開催される第6回中国律師(弁護士)囲碁大会に日本・韓国の弁護士を招待したいとの中華全国律師協会から日弁連への参加要請があったとの連絡と大阪・名古屋からも参加願いたいとの呼びかけを受けた。又とない好機でありなんとか参加したい、8年前呉清源先生に同行した「三峡下り」の際訪れた重慶への再訪である。しかしまだ体調に自信がなく、多くの方に迷惑を掛けることは避けねばならない。迷った挙句、一旦は辞退することに決めたのだが、たまたま締め切り前の8月24日に顧問先の黄檗山緑樹院の住職と事務所の弁護士との会食の際、この話をしたところ、「秋には体調は回復するだろうし、この好機を逃すべきでない、奥さんに同行してもらえば」との村瀬和尚や河村利行弁護士の強い勧めに逡巡していた気分が吹っ切れ、参加を決意した。

new_中国弁護士囲碁大会 055 こうした経緯を経て、秋10月9日、体調もほぼ回復し、日弁連訪中団の一員に加わり、空路重慶に向かった。団の構成は、東京弁護士会から河嶋昭5段、日野原昌6段、山田洋史5段、谷直哲7段、名古屋から大山薫7段、大阪から鬼追明夫5段(団長)と私7段の7名で、団体戦に大山、谷と私、個人戦に4名が参加することとなった。

 大会の会場は重慶市郊外の海琴酒店(ホテル)で、緑豊かな湖畔の観光地である。8年前には工場集積地帯である重慶市は大気汚染で青空もどんよりと霞んでいたが、その後北京、上海、天津と並ぶ直轄都市となり規制や老朽設備の改善が進んだためか、当時と較べかなり好転したとの印象を受けた。

new_中国弁護士囲碁大会 093 大会には、中国から22省及び直轄市の律師協会から選抜された30団体と個人戦参加者を含め120名、日本7名、韓国3名の合計130名、それに全国と各地方の律師協会役員50余名が参集した。対局は3日間に各人互先の9局、持ち時間は一人90分で時間切れ負け、昼夕の休憩をはさんで朝から夜まで1日3局打つ。そして4日目午前中には最終の10局目を打ち終了となる。コミは中国ルールによる7目半。

 10月10日の大会初日には、全国律師協会副会長や大会実行委員長に続き、中国囲碁協会主席の陳祖徳9段の挨拶があり、スイス方式での対局が始まった。高齢層主体の日本勢に比して、中国選手は青年層が大半で中年層はいるが高齢層はあまり見かけない。韓国の3名は高中青とバランスがいい。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(44) 三木正さんとの20年(下)

| 2015年10月25日

 三木さんとの対局は、平成7 (1995) 年9月に始まり、毎月1局、私の事務所で、午後6時頃から食事休憩をはさみ9時頃までというのが通例で、これが平成25(2013)年12月までたゆみなく続いた。この間、三木さんの骨折事故や奥様のご不幸、私の胃がん手術などでのブランクもあったが、ほぼ毎月月末の定例対局の楽しみが私の仕事の励みともなっていた。ところが、平成26年に入って程なく、三木さんの自宅庭での転倒による腰骨骨折という不慮の事故のため、永らく続いたこの対局も継続できなくなり、その後はお見舞い旁々の訪問の際やたまたまの事務所への来所の機会での数局の対局が数えられるのみとなったのが残念である。これまでの対局数は174局。

 第1局の開始当時、三木さんは75歳で私が59歳。同氏の強さは「爛柯」の仲間などからも聞いており、7段格の大先輩なので、私の定先の手合いと思っていたのだが、とりあえず互先で打とうということになり、私の黒番で打ったところ、たまたま私が幸いしたことから、以後互先の対局となった。しかし、それからがいけない。三木さんが本気を出され、その後2年間ほどは10局に1度ほどしか勝たせてもらえない。強力な攻めと終盤での強引ともいうべき取りかけにいつも屈服させられる展開となる。ようやく10年ほど経ち100局を数える頃になった平成17(2005)年頃にやっと累計の勝率が2割程度に上昇。そしてその後9年間の70数局の勝率はようやく4割を越えたが、累計では3割程度となっている。これらの対局の棋譜は、前半の9年ほどは対局中に三木さんが碁罫紙に記録されたが、後半に入りしばらくは私がパソコンに入力していた。

new_2006_0727_202443AA 対局の日、三木さんはまず関西棋院に顔を出し、知り合いの棋士に私との打ち碁の講評を願い、夕刻私の事務所に来られるのが常であった。そのうち10年程前の何時の頃であったか、高津高校時代の友人向山裕三郎さん(元会社社長、当時初段前)が毎回観戦に来て、棋譜採り役を受け持つようになった。さらに2年後、三木さんから聞かれたのか石井新蔵9段が関西棋院の帰りに事務所に寄られるようになり、対局途中に向山さんからパソコン入力を引き継がれることになった。そして終局後の講評。なんとも有難い指導である。おかげで向山さんも棋力とみに上昇し今は3段格。それに加え、囲碁の面白みや奥深さを実感したと述懐されている。

 対局途中の夕食休憩で、取り寄せの「うな重」に舌鼓を打ちながら、石井先生のプロ碁界の話題や三木さんの昔話に耳を傾ける楽しいひとときもあった。事務所の浦島三郎弁護士(初段格)や高津囲碁会の世話役故岩崎佳枝さん、同会常連の故藤田貞吉君(3段格)もたまに顔を出し歓談に加わっていた。

 三木さんは、理非曲直をわきまえ古武士の面影を宿す剛直の人である。90年を超える波乱の人生経験に教えられることが多かった。棋風も同様に剛直な力戦派でありながら、筋や形を重んじる手厚さは、百戦錬磨の棋歴と「月刊碁学」の編集者としての永年の蓄積なのであろう。これまでのお付き合いに感謝するとともに、今なお衰えぬ棋力にこれからも触れる機会を作りたいと願っている。(続)

 

赤沢敬之

私と囲碁(43) 三木正さんとの20年(上)

| 2015年10月14日

 三木正さん、関西碁界では知る人ぞ知る囲碁ジャーナリストの長老である。氏は、関西棋院の機関誌「囲碁新潮」を発行していた囲碁新潮社が倒産したあと、故宮本直毅9段から同社のアマ初中級者向けの「月刊碁学」の継続を引き受けられ、昭和50年代から約10数年間、発行者兼編集長兼ライターとして囲碁普及のため 悪戦苦闘を続けられた。この雑誌は、上級者・高段者にとっても有益で、懇切丁寧な解説は他に類を見ないものであった。私も時折特集号を求め勉強してきた。同氏は現在95歳のご高齢で西宮の自宅で自適されている。
 三木さんは、広島文理大学国語国文科を卒業され、元々は国文学者を目指していたが、戦時中のこととて やむなく昭和18年に江田島の海軍兵学校文学科教官(海軍中尉)に就任し、敗戦のあと神島化学工業の総 務部長・常務取締役を歴任されるという数奇な前半生を送られた。そして、昭和51年以降は、上述の囲碁専業の後半生に移られる。

 同氏の囲碁歴も数奇かつ多彩である。敗戦直前の昭和20年8月4日に瀬越憲作師に出会われたのが、第3期本因坊戦挑戦手合第2局の第1日目、所は広島県五日市の対局場。原爆投下の2日前であった。瀬越先生から橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫8段を紹介される。これが縁で、戦後は橋本囲碁道場で修行され、メキメキ腕を上げられたようであり、後年は宇太郎先生の後援会「雨洗会」のボランティア世話役を務められた。また、戦後まもなく昭和21年10月、会社からの出張の機会に瀬越先生の紹介状を持参して、当時岡山県玉島に住ま われていた第1期本因坊関山利一師の指導を受けることとなり、以後24年まで11局の4子局の棋譜を宝物として残されている。当時は初段だったとか。

 三木さんとの交遊が始まったのは、平成7年(1995)9月頃だった。「月刊碁学」の熱心な愛読者で全巻所持者の西垣昭利弁護士(6段格)が裁判官に任官することとなったのがきっかけだった。当時西垣さんは「雨洗会」の会員で、世話役の三木さんに事務的な便宜を提供していたが、事務所を離れるに当たり、三木さんに私をよき対局相手として紹介してくれたのである。以後20年にわたる三木さんとの対局の模様は次回に記すこととして、ここでは三木さんが「月刊碁学」の1984年から1988年の段級位認定テストに修正を加え、新たに書き直してミルトス図書から発刊した「次の一手」(2011.5)「続次の一手」(2012.11)を推奨しておきたい。

 同書は、「級位者のために」と銘打っているが、とてもそのような代物ではなく、高段者にも有益な問題集である。坂井秀至8段が精密に監修されており、私も販売協力員として碁友に合計180冊ほどを普及し、日頃の三木さんの「碁恩」にささやかながら報いることができた。  しかし、この本の圧巻はなんといっても問題の合間に新たに書き下ろされた珠玉のコラムである。「原爆対局12」「関山本因坊24」「橋本本因坊48」は、上述した三木さんの華麗な碁歴と瀬越先生ら錚々たる師匠たちとの人間味溢れる触れ合いを生き生きと描かれており、これだけでも一読の価値がある。なお多くの人に推奨したいと願うものである。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(42) わが師匠たち – 10人のプロ棋士

| 2015年9月24日

98516 作家吉川英治の座右の銘に「我以外皆我師」という言葉がある。また、藤沢秀行師も「3歳の童子たりとも導師である」と述べている。いずれも人生における謙虚な「学びの精神」こそ成長と向上の要諦であることを示す言葉である。囲碁の道も例外ではなく、我が師は私以外のすべての人と言っても良いのだが、それではあまりに無限定なので、ここでは、私がこれまでに受けた指導碁の対局数を基準として10名のプロ棋士を私の師匠として紹介したい。
 
 私の書斎には400局を越える指導碁の棋譜が眠っている。若いころには対局直後や帰宅後に自分で赤青鉛筆で記述したものだが、最近はデジカメやスマホに頼らなければ再現は難しい。このうち300局程度はパソコンのデーターファイルに入力しているので、いつでも見ることができる。昭和41年(1965)から約50年間の集積の賜物であり、我ながら何時の間にこんなに溜まったのかと驚いている。その1枚1枚に疑問手や失着に対する師匠たちの指摘やたまの好手への評価が記載され、なによりの勉強のよすがとなるものである。また、あの時代にはどの程度の棋力だったかを知ることができる貴重な私の宝物である。なお、全局通じての勝率はほぼ2割程度であった。

 さて、最大の局数はやはり昭和40年代から50年代に師事した橋本誼9段で、5子から2子局での100局を越える。次いで50年代から平成年間まで「爛柯」の研修会で3子・2子局で指導を受けた石井新蔵9段の棋譜が約50局、そして本田邦久9段と石井邦生9段の約40局が続く。20局を越えるのは、円田秀樹9段、白石裕9段、吉田美香8段、10局以上には坂口隆三9段、長崎裕二5段、古家正大4段が連なる。以上合わせて約350局となる。この10名が私の「師匠」として特別に感謝の念を捧げる方たちである。これらの方たちは、いずれも私が参加してきた友人知人の定例碁会での師範であり、今後折に触れてそれぞれのエピソードなどを紹介したい。

 不肖の弟子にとって、この豪華な師匠たちの指導に十分に応える上達ができなかったことにただ忸怩たる思いであるが、少なくとも囲碁の深奥な尽きせぬ魅力を存分に味わうことにより人生を豊かなものと実感することができたことに満足している。(続)

*上掲の棋譜は、爛柯研修会での石井新蔵先生との指導碁(1998年5月16日、白:石井9
 段、3子:赤沢、243手まで黒1目勝ち)(続)

赤沢敬之

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