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私と囲碁 | 2022年1月31日
2004 (平成16)年7月中頃、法曹囲碁連盟の山田洋史事務局長から、四川省重慶で10月に開催される第6回中国律師(弁護士)囲碁大会に日本・韓国の弁護士を招待したいとの中華全国律師協会から日弁連への参加要請があったとの連絡があった。
秋10月9日、日弁連訪中団の一員に加わり、空路重慶に向かう。団の構成は、東京弁護士会から河嶋昭5段、日野原昌6段、山田洋史5段、谷直哲7段、名古屋から大山薫7段、大阪から鬼追明夫5段(団長)と私7段の7名で、団体戦に大山、谷と私、個人戦に4名が参加することとなった。大会の会場は重慶市郊外の海琴酒店(ホテル)で、緑豊かな湖畔の観光地である。
大会には、中国から22省及び直轄市の律師協会から選抜された30団体と個人戦参加者を含め120名、日本7名、韓国3名の合計130名が参集。対局は3日間に各人互先の10局、持ち時間は一人90分で時間切れ負け、朝から夜まで1日3局打つ。そして4日目午前中には最終の10局目を打ち終了となる。コミは中国ルールによる7目半。
10月10日の大会初日には、全国律師協会副会長や大会実行委員長に続き、中国囲碁協会主席の陳祖徳9段の挨拶があり、スイス方式での対局が始まった。高齢層主体の日本勢に比して、中国選手は青年層が大半で高齢層はあまり見かけない。韓国の3名は高中青とバランスがいい。
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さて、10月10日午前9時開始の第1局、対戦相手は広東省の38歳の青年律師。私の白番で幸先よく中押し勝ちだったが、午後の第2局目は河南省の34歳の青年に黒番中押負け。続く夜戦、午後7時半からの第3局は浙江省代表と2時間50分の熱戦で、黒番時間切れの勝ちで無事1日目は終わった。
翌11日の大会2日目、午前の第4局は四川省成都代表との白番。終盤まで楽勝の局勢だったのに、黒の石を取ろうと欲を出したのが悪く、損を重ねて1目半の逆転負け。この相手はなかなかの強手で個人戦で126名中9位であった。
午後の部第5戦は海南省の32歳の青年との対局で黒番中押し勝ち。碁歴14年。そして夕食後の第6戦。重慶市代表との白番を中押で制し、ようやく4勝2敗で2日目を終えた。
第3日は、午前の第7戦が山西省代表の35歳の青年。力戦派で白番中押し負け。そのあと午後の第8戦に当たったのは数少ない韓国選手団の団長と思われる63歳の弁護士で、重厚な棋風の本格派。私の黒番だったが、序盤作戦が悪く、中押し負け。これで4勝4敗の相星となってしまった。そして夜の部の第9戦は天津市の48歳の中年律師との白番、終盤に逆転の11目半勝ちで愁眉を開く。
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10月13日の大会最終日は、海琴酒店(ホテル)で午前の第10局を終えた後、市内の繁華街にある金源大飯店に会場を移し表彰式が行われる予定となっていた。
最後の対局に勝てば勝ち越しとなる。残る力を振り絞って午前8時半対局開始。江西省族自治区代表との白番である。序盤から中盤にかけて両者堅実に自軍を補強しつつ均衡を保ったが、中盤戦で白が地合いを稼ぎ有利な形勢となる。7目半のコミもあり、どうやらこのリードを維持できそうだと楽観したのが悪く、終盤黒の激しい追い込みにドンドン白地が削られて行く。持ち時間も少なくなるし、中国ルールでアゲ石の数も瞬時に計算できない。ともかくも運を天に任せるしかないと臍を固め、薄氷を踏む思いで終局に至った。そして、審判員の白石の整地の結果、辛うじて半目を残すことができたのはまさに幸運であった。こうして待望の6勝目を挙げることができ、ホッと安堵の吐息を漏らしたのであった。
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戦いを終え、やがて午後の会場移動。バスにて市内中心地の高層ホテル金源大飯店に向かう。午後2時、3階大宴会場に参加者、関係者が全員集合して始まった表彰式。団体戦優勝は海南省、2位浙江省1組、3位四川省1組、以下31チームの順位発表(日本、韓国チームは参入せず)と表彰の後、個人戦の成績優秀者の表彰が行われた。壇上には、全国律師協会などの役員のほか、かつて1980年代から90年代にかけて日中スーパー囲碁対抗戦で日本のトップ棋士をなぎ倒し「鉄のゴールキーパー」と謳われた聶衛平9段ほか何人かの高段棋士も参列していた。日本勢の成績は、大山薫さんと私が6勝、谷直哲さんが5勝、鬼追明夫、日野原昌、山田洋史さんが4勝、河嶋昭さん3勝であった。
表彰式のあと中国高段棋士による指導碁が予定されていた。何名かの棋士が担当する中で、聶衛平9段は中日韓の選手各1名と3面打ちをするとのことで、各国それぞれ対局者を選ぶこととなった。日本勢は、6勝の大山さんと私のくじ引きで、私が幸運を引き当てることができた。こうして大勢の観客に囲まれる中で、左に中国選手、右に韓国の長老文正斗さんと並んでかつての「世界ナンバーワン」聶衛平さんとの3子局が始まった。
白1と星に対し、私は右辺星の3連星。以下の進行は別掲の棋譜が示すとおり中央に黒の大模様が形成され、中盤までは3子の置き石の利を活用して大過なく進んだ。しかし、黒80辺りで中央から右辺にかけて黒の大地が完成すれば残るのではと甘い期待をしたのが運の尽き、黒84が悪く、白85から巧みに黒の大模様が荒らされ、あとはただ防戦一方の中押し負けとなった。貴重な1局だったので、後で棋譜を記録しようと考えていたら、思いがけなく同僚の谷直哲さんから赤青鉛筆の棋譜を渡され有難く頂戴した。後日帰国してこの棋譜を石井邦生先生にお見せしたところ、黒84で7十一に打っておけば黒勝勢だったとの指摘を受け、1手のミスの恐ろしさを改めて痛感させられた。この棋譜は私にとって生涯の宝物であり、パソコンに入力し時々再現して18年前を回顧している。
こうして丸4日をかけた大会も閉会式と中国律師協会の役員や日中韓選手との夜の晩餐会をもって無事終了し、翌日の南宋時代の旧跡大足石窟や大廣寺の観光と重慶司法局長の招宴を最後に、10月15日重慶から北京を経て無事帰国したのであった。
(ニュースレター令和4年新年号より)
私と囲碁 | 2021年5月12日
昨年は、新型コロナウィルスの全世界規模での感染拡大により、社会経済活動のみならず、人々の生活全般に多大な変容と犠牲を余儀なくさせた1年であり、その余波は今なお続いている。囲碁界もその例に漏れず、プロアマ問わず多くのイベントや大会が中止あるいはネット対局への切り替えで対処することとなった。
私もこの1年、対局の機会がめっきり減った。月1・2回で数局の対局に留まり欲求不満が続いている。
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親しい碁敵の仲間と対面し、無駄口を交わしながら烏鷺を戦わせる楽しみは、何物にも代えられぬ碁キチの醍醐味である。
ところが最近の碁会所などでは盤上を横断するアクリル板が設置され、マスク姿で対局する。致し方ないこととはいえ、これでは石が込み入ったときに全体を俯瞰して形勢判断をするのが難しく、また大石同士の攻め合いの手数を綿密にヨムときに、対面する相手の微妙な表情の動きや呟きを観察しながらひそかに形勢を判断する「奥の手」が使えない。言わば物言わぬAIと戦うようなものである。
もっとも棋力向上の見地からすると、アクリル板による物理的な支障は別として、実はかような「奥の手」を使わぬ対局の方が純粋に大局的な判断力や複雑な局面でのヨミの力を養うのに適しているのかも知れない。
そうした見地からいえば、遠隔地同士の対戦である「ネット対局」や「郵便碁」「FAX対局」は独特の面白さがあり、技量向上のよき手立てであるといえよう。
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私はこれまでに、ネット対局は時間的な制約で打ったことはないが、ハガキで一手一手やりとりする「郵便碁」は故河合伸一さんと、同氏が弁護士から最高裁判事に就任した頃の1995年1月から2017年10月までの20年余の間に向こう5子から3子の22局を打ち、未完の4局を残した。
最高裁の激務の中、同氏は他の相手とも相当数打ち、明らかに棋力向上の跡がみられた。昨年末に逝去されたことが惜しまれてならない。
「FAX対局」については、西垣昭利弁護士が弁護士任官をした1991年12月から打ち始め、その後同君が弁護士に復帰した後の2017年4月までに向先で100局を打った。
また原田次郎弁護士とは1992年7月に向先で始めてから25局、間もなく互先となってから2015年3月までに実に263局も烏鷺を戦わせたのであった。
そして弟の弁護士赤澤博之とも2005年9月から2019年3月までに向先で75局を打っている。
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長きにわたる我が囲碁人生においてもこの約30年は「郵便碁」「FAX対局」で毎日数手ずつではあるが楽しく囲碁に接することができた。そしてそのことが日々の仕事や諸活動のエネルギー源となっていたのだ、と今になって改めて回顧する次第。
コロナ禍においても、色々な方法で囲碁を楽しみたいと念ずる昨今である。
(ニュースレター2021年春号より)
私と囲碁 | 2021年1月19日
昨年12月初旬、日本棋院の「週刊碁」に「私と井山、師弟の歩み」と題する石井邦生九段の著書発刊との広告を見て、早速入手しようと通勤途上南千里の書店に寄ったが、見当たらず残念な思いをした。それにしても最近の一般書店での囲碁関係の書籍の少なさには驚かされる。
当日、井山天元と挑戦者一力遼碁聖との天元戦第3局を、仕事と並行してネットで観戦し、井山さんの打ちぶりが見事と言う他ない完勝だったので、石井先生にメールで感想を送った際、新著発刊への祝意と通勤時のことを記載したのだった。
早速、先生から「実は拙著をお送りしょうと思いながら根がズボラな性格でノンビリ構えていました。それとこのような本を読んでいただくのは恥ずかしい気持もありました。明日手元の三冊を進呈させていただきたいと存じます」との返信メールを頂戴し、週明けに事務所に出たところ、先生からのプレゼントが届いていた。
早速緊急の仕事をそそくさと済ませ、夕刻から貪るように読み始め、帰宅後も食事の後深夜までかかり無事読了した。但し、貴重な棋譜解説はゆっくりと並べながらと思い、ざっと目を通したのだったが。先生の1000勝達成までの棋士一代記と井山少年との出会いから絶対王者に至る間の絶妙なる指導の軌跡を改めて拝見し、感動的な一夜を過した。中でも井山少年との文通録は貴重な歴史的遺産として後世に伝えるべき秀作と思った。加えて、好敵手の大竹英雄・林海峰・工藤紀夫・趙治勲九段などからの寄稿は先生のお人柄や生き様を見事に語っている好読み物だった。囲碁愛好者の皆様に是非ご一読をお薦めしたい。
翌日、お礼と上記の読後感とともに「先便で厚かましくも催促がましいメールをお送りし恐縮の限りで、『後で気が付く・・・』というところでした」との謝辞を送信した次第である。
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石井先生とのお付き合いは、高校の同窓南諭さんとの縁で、池田市医師会の囲碁仲間の碁会に顔を出した1975年(昭和50年)頃にお会いしたのが始まりであった。その後「爛柯囲碁倶楽部」などで時折指導碁をお願いすることがあったが、先生の追突事故被害の件で相談を受けてから、先生の温厚且つ清廉なお人柄に魅せられ、今日まで交流を深めてきた。
先生には、時折の2子局の指導碁でやんわりと私の打ち過ぎを矯正していただくほか、私が「会長(世話役)」を勤める大阪弁護士囲碁同好会や高津囲碁会の例会での指導碁、そして棋譜の講評と関西での名人戦・本因坊戦挑戦手合いの観戦の際のプロ棋士の検討室の見学など多岐にわたるご指導を頂いている。
中でも、なによりも有難いのは、打碁の講評である。何時の頃からか私は大阪弁護士会囲碁大会決勝戦の「観戦記者」になってしまい、弁護士会の「会報」に掲載するのが常となった。執筆にあたり、先生に棋譜をお送りすると、碁罫紙に変化図を7、8枚は作成し、懇切丁寧な解説や批評・感想を書き添えて返送して下さるのである。私はこれを引用し、対局風景の描写や個人的な感想を書き加えれば「観戦記」はたちどころに完成する仕掛けである。なるほどこれぞ井山大三冠を鍛えた打碁講評の極意であったかと妙に納得し、勝手に井山さんの「兄弟子」を任じている次第である。
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そして、井山さんである。初めてお逢いしたのは、2005年(平成17年)井山さん中学3年の頃、昼食時に当時の関西総本部の近くの食堂に入ったところ、偶然にも石井先生と井山さんが食事中だった。その頃、井山さんは四段だったろうか。しばしの歓談だったが、既に全日本早碁オープン戦で小林覚九段を破り、史上最年少優勝の記録を打ち建てる前後で、その挙措言動は将来の大飛躍を予感させるものだった。
その後の井山さんの活躍ぶりは、数々のタイトルを次々と奪取し、2000年(平成12年)には五冠、翌年に六冠、そして2016年(平成28年)と翌年には遂に7大タイトルを同時獲得する「絶対王者」にまで上り詰めたことは周知のとおりである。
この間、私は棋聖戦、名人戦、本因坊戦などの挑戦手合いが、大阪や近畿で行われる際にはできるだけ現地に駆け付け、大盤解説会や石井先生の計らいでの検討室における解説者などプロの検討風景を間近に見せていただいた。因みに、私が観戦した対局の殆どは井山さんの勝利であった。
対局前の前夜祭やタイトル獲得の祝賀会・日本棋院創立90周年記念式典では、暫しの時間ながら会話を楽しみ、井山さんの真面目で飾らぬお人柄に触れることができた。
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ところで、コロナ騒動による自宅待機中、昔の書類や雑誌の整理をしていたところ、机の抽斗の底から1997年(平成9年)4月の朝日新聞のアマ十傑戦府大会の記事の切り抜きを発見した。その頃私は6段で、アマの各種棋戦によく参加していた。成績は1、2回戦で敗退というのが通例だったが、この年のアマ十傑戦府大会では偶々初日の3回戦を突破、2日目の4回戦にも勝ってベスト16となった。あわよくば十傑入りをとひそかに狙ったが、アマ強豪の揃った中では望み叶うべくもなく涙を呑んだのだった。新聞切り抜きは、この大会の初日の勝者名と2日目の対戦成績が掲載されたものであった。
ところが、この記事の初日のタイトルは「175人参加し熱戦、最年少の小2生、初戦惜敗」であり、それが井山少年であったことに驚きを禁じられなかった。なんと同じ大会に名を連ねていたとは・・組み合わせ次第で対戦もあったかもしれず、碁縁の繋がりの不思議さを感じざるを得なかった。
井山さんは、この年と翌年の全国少年少女囲碁大会・小学生の部で優勝し、院生としてプロを目指すことになるが、この頃には既に石井先生の指導碁を受けていたようである。
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すっかり忘れていたこの新聞切り抜きは、私にとって様々な記憶を呼び起こしてくれるよき素材であった。そして今、井山さんが強豪まみえる中国・韓国の打ち手を破り、世界一の王者に成って欲しいとの願いとともに、わが生涯の思い出として是非1局でも指導碁をお願いしたいと思うこの頃である。(弁護士 赤沢敬之)
(ニュースレター令和3年新年号より)
私と囲碁 | 2019年9月19日
「縁は異なもの味なもの」とは、古来予測できない人生の面白みを表す諺だが、私にとっては、これに「碁」という一文字を足すだけで語りつくせぬ囲碁と人生の深み面白みを表す言葉となる。比叡山律院の叡南俊照阿闍梨師との出会いはまさにその典型的な一例である。
阿闍梨さんは昭和18年生まれ、昭和54年に戦後8人目(現在まで約40人)の千日回峰行(約30キロの比叡山の山道を1000日歩く荒行と堂入り後の9日間の断食、断水、不眠、不臥)を達成された高僧で、無類の囲碁好きの自称5段(一般の碁会では6、7段か)の打ち手である。
私とは思わぬご縁でお知り合いになり、平成26年7月と翌年3月に律院を訪れ、護摩焚き祈願に参列したあと、烏鷺(注:囲碁の別名)を楽しんだ。
2回目の訪問には高津高校同窓の向山さんと同行し、私は2局(向先)、向山さんは3子で1局打った。
さて、その碁縁とは、平成26年に同窓の前田さんから、従姉妹のMさんのご主人の法律問題の紹介を受け、無事案件が解決したあと、前田さんとMさんが事務所に来られた際、たまたま私の「医師弁護士対抗碁会」での対局が紹介された囲碁雑誌「梁山泊」を一冊欲しいとのことでお渡ししたところ、律院に奉仕をされているMさんが阿闍梨さんに見せられたようで、是非一度来院をとのお話があり、Mさんたちとともに平成26年の夏に訪問したことに始まるものだった。
高僧でありながら(だからこそ)、腰の低いやさしいお人柄の方で、修行中も囲碁を楽しみ、毎週火曜日には宿舎で碁会を催される(現在は中止)ほか、これまでに全国の105の碁会所を回られたという驚異的な記録をもっておられる。
この訪問がきっかけとなり、その後平成27年4月から、私たちの高津囲碁会に毎年1,2回は秘書役の囲碁愛好者の方と共に参加され、7段格で無類の早打ちを披歴されている。
碁会のこととて、ゆっくりとお話をお聞きする時間がないのが残念だが、そのうち千日回峰行の話や法話などをお伺いすることができればと期待する昨今である。
(ニュースレター令和元年夏号より)
私と囲碁 | 2019年2月6日
私の故郷は、徳島県鳴門市の田舎町である。昭和11年から16年10月まで居住し、その後父が自動車修理工場を経営していた上海に渡り、国民学校3年の2学期まで上海の共同租界で暮らした。当時日本国内では、太平洋戦争での戦局を国民に偽り、国家総動員体制で鬼畜米英に対する戦意を鼓舞していたようだが、外地では日本はもう負けるとの情報が伝えられたため、父を残して軍用貨物船で7日をかけて命からがら門司港に帰国した。
帰国後、故郷の鳴門市で国民学校3年から敗戦後の新制中学1年まで暮らした。居住地は淡路島に面する海岸に近く、昭和19年12月の南海大地震の津波騒動などがあったが、戦中戦後の大変動期をここで経験した。
今回、長男秀行の提案で、10月7、8日の連休に、私が戦争末期から敗戦後の少年時代に暮らした鳴門を訪問し、昔の住まいの付近や岡崎海岸を散策する旅の企画をした。
岡崎海岸から大鳴門橋を望む
孫たちは残し、7日に、妻と子ども4人が神戸から高速バス明石大橋を渡り、淡路島を縦断して、鳴門大橋から土佐泊りの鳴門ルネッサンスホテルに着いたあと、昔私を導いてくれた3年先輩の内田英明さんのお宅を訪問した。その後、母校林崎小学校までの通学路を経て岡崎の旧家や家の前の西宮神社に参詣し、海水浴を楽しんだ岡崎海岸に出て夫婦岩や淡路島を遠望した。夕刻ホテルに帰り、夜の阿波踊りショーを楽しみ、翌8日には大塚国際美術館を見学する慌ただしい旅程で神戸まで帰って来た次第であった。
この旅の眼目は、子どもたちに父の幼少時のルーツを教えることであったが、同時に内田先輩に50年ぶりに会い久闊を叙し、私の小学6年から中学1年当時の思い出話を子どもたちに聞かせることだった。
内田さんは、私の旧宅の近くに住む3年先輩で当時鳴門高校1年の故佐藤喜久男さん(元小学校長)の同級生で秀才の誉れの高かった方だったが、なにかの縁で高校生のグループに中学生ただ一人入れてもらったのがきっかけで多くの教えを受けたものだった。確か、当時岡崎で英語を教えていた倫敦帰りの的場先生の塾に入れてもらい、タイプライターを初めて見て驚いたことが記憶に残っている。
同氏は、その後東大に進学し、卒業後は故郷の大塚製薬株式会社に69年間勤務し、現在は「大動脈解離」の後遺症など多くの病気を抱えながら、クラシック音楽、歴史書やチェス(3段)の研鑽を続ける前向きの生活を送っている。若い時には、囲碁5段、将棋4段の免状を得られたが、今は「初段程度の実力」とのことである。
さて、内田さんのお宅を訪れたのが午後 時頃、奥様とともに玄関先まで出迎えを受け、開口一番「首を長くして待っていました」との挨拶に一同感激。応接間での対話は70年も前の昔話に及び、昭和26年同氏の大学入学後の帰省の際、大阪の拙宅に寄られ、当時高校1年だった私に囲碁のルールの指導をしたことにも触れられた。この時頂戴した瀬越憲作9段の「囲碁読本」が私の囲碁入門の原点であった。しかし、私がその後囲碁の実践に取り組むようになったのは昭和33年秋、大学4年の司法試験合格後で、この間は好敵手のいた将棋に情熱を燃やしていたのだった。司法修習生の時期から今日まで60年にわたり囲碁に熱中し、その尽きせぬ魅力に今なお飽きもせず取りつかれている現在、「あの時から始めていたなら今頃は」との感懐を催させられた今回の内田さんとの再会であった。
尽きせぬ話が始まって間がないうちに予定の時間が越え、次の旅程の私の旧宅跡に向かうため、名残り惜しくも次回の再会を期してお別れしたのだった。
(ニュースレター新年号より)
私と囲碁 | 2016年7月21日
平成5年(1993)1月頃、当時逢坂さんは大阪高検次席として、吉永祐介検事長とのコンビで大役を担っていたが、吉永さんも無類の碁好きで二人はときどき官舎で烏鷺を戦わすこともあったようだ。当時は検事や検察事務官の間でも囲碁を嗜むメンバーも多く、毎年の大会も催されていたようだったが、2人のトップの肝いりで「大阪高検地検合同囲碁クラブ」を設立することとなり、その指導棋士選定の相談があった。早速、師匠の石井邦生9段に推薦をお願いし、故細川千仭門下の弟弟子高林正宏5段を紹介して頂いた。会員は40名を超える賑やかさで、以後毎月の定例会が開催されることとなった。こうした経緯で、私もできるだけオブザーバーとして参加することとし、検察庁の碁客との親善対局を楽しんだ。翌年地検公判部長として大阪に復帰された大塚清明さんとも確か2子でお願いしたが、同氏退官後は弁護士同好会などで向先の対局を重ねている。
この碁会発足からしばらくして、吉永さんの東京高検検事長、検事総長就任、逢坂さんの最高検公判部長就任と生みの親の大阪からの転出が相次いだが、検察碁会は平成16年までほぼ10年続いた。この間、逢坂君は平成9年(1997)に大阪高検検事長として古巣に復帰し、2年後に退官し弁護士登録をされたのちも検察碁会に通っていた。しかし、現職検事や事務官の定年退官の余波を受け、現役の愛好者が少なくなり、やむなく閉会の時を迎えることとなった。
吉永検事長とは、この碁会発足前に「爛柯」で初めてお会いした際,3子で見事敗北を喫したが、検察碁会でのお手合わせは1度だけに留まったのは残念であった。ただ逢坂さんら親しい囲碁仲間での送別会での集まりで4子局をお願いしたほか、検事総長就任後の平成7年4月に来阪された際、「爛柯」で3子、4子局を打ったのが最後となった。
ロッキード事件、リクルート事件、ゼネコン汚職など数々の難件の捜査を指揮された「仕事の鬼」も、仕事を離れると気さくで庶民的な人柄の紳士で、その棋風も穏やかで堅実なものであった。その後、平成8年に検事総長を退任し弁護士登録をされた数年のちだったか、日弁連の仕事で上京した際にご自宅に伺ったことがあった。その際確か碁盤を囲ったような記憶があるが、あるいは夢幻であったのか今は定かでない。先生は平成25年(2013)にあの世に旅立たれた。ご冥福をお祈りするばかりである。(続)
追記:この記事を投稿した日の翌朝の毎日新聞「余録」(7月22日付)に、奇しくも「ミスター検察」と言われた吉永祐介さんを偲ぶ記事が掲載されていた。一読をお勧めしたい。
私と囲碁 | 2016年7月6日
司法修習生同期の逢坂さんとは、昭和34年以来の半世紀を超える長い付き合いである。青春の真っ只中、戦後の復興期を担う若者としての理想と意気込みは共有していたものの、互いの進路は検事と弁護士という2つの道に分かれて幾星霜を経たが、この間もずっと親しい交わりを続けて来られたのはひとえに囲碁のお蔭であった。
彼の任官後の任地であった岡山や大津、山口、熊本、高松には、私の仕事での出張の機会や夏休みを利用して訪問し、時間があれば盤を囲むのが楽しみであった。特に思い出深いのは、昭和43年の大津地検での対局である。勤務時間の後、彼の執務室には7.8人の事務官たちが集まり、当時4段だった私と1級くらいだった彼との5子の対局を見守る。その頃の大津地検では、どうやら彼は筆頭格の腕自慢だったらしく、大勢の観客の目を意識してか、私の白石を猛烈に攻め立てたのだったが、あまりの強攻にあちこちに綻びが生じ、中盤以降黒の大石が次々と死滅し、ついには盤上石なしの結末を迎えたのであった。大敗を喫した同君には申し訳ない結果となってしまったが、反面この一戦が事務官連中に多大の刺激を与えたらしく、以後大津地検職員の囲碁熱が盛んになったようで、私の訪問も無駄ではなかったとの逢坂君の後年の述懐ではある。またそれから40数年を経て、当時の観戦者の一員で今は立派な5段の方と逢坂君の事務所で再会し、往時を懐かしく語ったのも嬉しいことである。
彼の任地への訪問と囲碁体験は、その後の熊本や高松でも重ねられたが、いずれにおいても逢坂君の囲碁普及の伝道師の役割を窺うことができたのだった。熊本地検では、阿蘇でのゴルフと職員たちの碁会に参加し、また彼の高松高検検事長の頃には、同期の上原洋允弁護士と訪問し、大阪での検察囲碁会の師範高林5段に代わって高松高検の囲碁愛好者への初二段免状推薦のお手伝いをするという汗顔の至りともいうべき出過ぎた真似をしたのも、今となっては碁界活性化のためとしてお許し願えるのではないか。ともあれ彼の行くところ「碁の青山」ありという次第だ。(続)