弁碁士の呟き

カテゴリ:私と囲碁

私と囲碁(58)法曹囲碁大会

| 2023年10月6日

対戦中の筆者(2004.11.23)

 法曹囲碁大会は、毎年11月23日に全国の法曹(裁判官、公証人、検察官、弁護士)が市ヶ谷の日本棋院に集まり、団体戦・個人戦を戦うで盛大な大会である。第1回は昭和55年に東京を中心に開催され、偶々日弁連理事を務め東京行の多かった私が個人戦に参加したのだが、その後第3回大会に大阪からA級団体戦に今は亡き正森誠二5段・井土福男5段・鬼追昭夫4段が参加したのを皮切りに、第6回以降ABCリーグの各5名の団体戦と個人戦に大挙20名を超える選手が上京し、烏鷺を戦わせた。

青葉かおり5段と

 対局の合間には審判長の春山勇9段(退役)、青葉かおり5段、下坂美織2段や上野愛咲美4段の指導碁も受けられ、表彰式の後の懇親会で杯を傾けながら各地方や各職種の選手と歓談し親睦を深める良い機会であった。

優勝カップの授与

 大阪弁護士会チームは、Aリーグで平成7年(1995)の第16回と平成15・16年(2003-4)に優勝したが、そのメンバーは私、畑良武、竹内隆夫、原田次郎、岡本岳さんらであった。またBリーグでは、昭和59年(1984)の第5回以降平成21年(2010)の31回までに7回の優勝を重ねている。そのメンバーは井土福男、辺見陽一、三瀬顕、鬼追昭夫、福村武雄、小林保夫、豊川正明、金子光一さんらであり、今や故人となられた方々が多い。

浜口さん、岡本さんと

 この大会では、平成12年(2000)に日中韓弁護士大会にご一緒した谷直哲、山田博史、河島昭さんら(東弁)や名古屋の大山薫さん、東京弁護士会のエース故浜口臣邦さんなどと久闊を叙する対局や歓談がなによりも楽しみであった。そして、日本棋院での懇親会の後、私と岡本岳さんはさらに場所を移しての東弁チームの懇親会に参加し、新幹線での帰阪までの短時間、春山9段や青葉5段とも歓談できたのも幸いであった。

 大会は令和元年(2019)の第40回大会のあと同2年(2020)からの3年間、コロナ禍が世界を席巻したため休会となり寂しい限りであったが、ようやくこの11月に第41回大会が再開されるようで、久々の上京が楽しみである。

赤沢敬之

私と囲碁(57)アマ東西対抗戦

| 2023年9月29日

 第1回アマ東西対抗戦は、昭和52年(1977)11月に名古屋市の日本棋院中部会館で開催された。愛知県を境に東西に分かれ(愛知は西軍)、共に50人程度が互先で2回戦を戦う。この棋戦は、毎年1回行なわれ平成12年(2000)まで24回を重ねている。
 出場者は菊池康郎、村上文祥、原田実、中園清三氏などアマ名人・本因坊を筆頭にアマ界を代表する各県の強豪であり、代表幹事は東軍菊池康郎氏、西軍は松尾鐘一氏であった。

 対抗戦の記録は、毎年松尾氏を中心とする東西アマ囲碁交流事務局の編纂で「アマの碁(東西対抗戦激闘譜〇〇〇局)」と題し、藤沢秀行、坂田栄男、小林光一、趙治勲氏らプロトップ棋士の監修のもと自主出版を第10号(昭和61年・第10回大会)まで発刊している。
 私も第1号から最終号まで購入し、時々アマ強豪の棋譜を並べていたのだが、たまたま昭和の終りころから囲碁倶楽部「爛柯」で松尾氏に教えを受ける機会が何回かあり、同氏の推薦で第17回大会(1993年)から第24回(2000年)まで8回参加させてもらった。

 まさか自分がこんな棋戦に参加することなど思いもよらず、当然のことながらラインアップは50名のうち40番程度であったが、幸い13勝3敗の成績で恥をかかずに済んでホッとしたことを思い出す。
 なお、この棋戦には東西ともに弁護士の強手も参加しており、私と同時期に参加した同僚竹内隆夫君も10勝6敗の好成績を残している。

 対戦相手で記憶に残っているのは、平成12年(2000)、この棋戦最後の対局となった女流の笹子理紗さん。菊池康郎さんの緑星学園で修行中の当時はまだ14歳の中学生だったが、なんとか白番7目半を残すことができた。
 同氏はその後早稲田大在学中に全日本女子学生本因坊戦で4位となり、その後囲碁インストラクターとして多くのアマチュアを指導されたが、この記事の執筆のため偶々ネット情報を調べたところ、昨年8月に36歳で早逝されたとの記事を見つけた。あまりにも早いお別れでありご冥福を祈るのみである。

 なお、この大会の参加者には後にプロ入りした青木伸一、秋山次郎、三村智保、坂井秀至、森田道博、高梨聖健氏らの名が残されている。

赤沢敬之

私と囲碁(56)各種アマ囲碁大会への参加

| 2023年9月22日

 長らくの間投稿を怠っていましたが、これから少しずつ続編を書いて行こうと思います。
 前回までは、私の碁歴のうち主として鮮烈な記憶に残る対局や先人の教えとプロ棋士からの指導の有難さについての記事が中心でしたが、今回からは私が常時囲碁の醍醐味を味わってきたアマチュアの大会や多くの囲碁会について紹介することにします。

 思い起こすと、橋本誼9段の指導の下、新鋭法曹囲碁同好会で5段の免状を頂いた昭和43年(1968)頃から、毎年各種アマ囲碁大会の大阪府予選に参加することが習わしとなった。
 朝日新聞社主催のアマ10傑戦、毎日新聞社主催のアマ本因坊戦、世界アマ選手権予選などである。

 対局の記録が残っていないが、当初は当然のことながら殆どが1回戦ボーイであった。そうするうちに昭和61年(1986)に日本棋院アマ6段を授与された50歳頃からようやく時々は2、3回戦に進めるようになったが、対局相手の棋力も強さを増すため強固な岩盤に跳ね返されるのが常であった。

 一度だけこの壁を越えたのが平成9年(1997)の175人参加のアマ十傑戦府大会でのベスト16進出だった。あわよくば5回戦も突破し十傑入りをと狙ったがそうは問屋が卸さなかった。3年ほど前にこの大会の新聞記事の切り抜きを偶然に机の引き出しの底から発見して驚いたのは、「最年少の小2生、初戦敗退」とのタイトルの主があの井山裕太少年であったことだった。(その顛末についてはこちらの記事を参照)

 対戦相手で印象に残るのは、平成11年(1999) 5月のアマ世界戦大阪府予選で2年前の全国学生囲碁十傑戦で優勝した立命館大学の古家正大さん(現日本棋院5段)との対局である。私の白番で中盤まで互角の戦いであったが、終盤に白が見込んでいた下辺の白地がすっかり荒らされ無念の投了。当夜帰宅後採った棋譜が残っている。

 なお、アマ大会には、その当時から各種同好会で多忙となり参加していない。そして古家氏とはその後10年を経て、年4回の関西東大会で指導を受けることとなったのは、正しく碁縁の不思議さと言うべきか。同会もコロナ禍により今なお休会中であるが。

赤沢敬之

私と囲碁(55)思い出の対局 日中韓律師親善大会と世界覇者聶衛平9段との指導碁(再掲版)

| 2022年1月31日

 2004 (平成16)年7月中頃、法曹囲碁連盟の山田洋史事務局長から、四川省重慶で10月に開催される第6回中国律師(弁護士)囲碁大会に日本・韓国の弁護士を招待したいとの中華全国律師協会から日弁連への参加要請があったとの連絡があった。

日弁連訪中団

秋10月9日、日弁連訪中団の一員に加わり、空路重慶に向かう。団の構成は、東京弁護士会から河嶋昭5段、日野原昌6段、山田洋史5段、谷直哲7段、名古屋から大山薫7段、大阪から鬼追明夫5段(団長)と私7段の7名で、団体戦に大山、谷と私、個人戦に4名が参加することとなった。大会の会場は重慶市郊外の海琴酒店(ホテル)で、緑豊かな湖畔の観光地である。

海琴飯店から湖畔を臨む

 大会には、中国から22省及び直轄市の律師協会から選抜された30団体と個人戦参加者を含め120名、日本7名、韓国3名の合計130名が参集。対局は3日間に各人互先の10局、持ち時間は一人90分で時間切れ負け、朝から夜まで1日3局打つ。そして4日目午前中には最終の10局目を打ち終了となる。コミは中国ルールによる7目半。

 10月10日の大会初日には、全国律師協会副会長や大会実行委員長に続き、中国囲碁協会主席の陳祖徳9段の挨拶があり、スイス方式での対局が始まった。高齢層主体の日本勢に比して、中国選手は青年層が大半で高齢層はあまり見かけない。韓国の3名は高中青とバランスがいい。

 さて、10月10日午前9時開始の第1局、対戦相手は広東省の38歳の青年律師。私の白番で幸先よく中押し勝ちだったが、午後の第2局目は河南省の34歳の青年に黒番中押負け。続く夜戦、午後7時半からの第3局は浙江省代表と2時間50分の熱戦で、黒番時間切れの勝ちで無事1日目は終わった。

 翌11日の大会2日目、午前の第4局は四川省成都代表との白番。終盤まで楽勝の局勢だったのに、黒の石を取ろうと欲を出したのが悪く、損を重ねて1目半の逆転負け。この相手はなかなかの強手で個人戦で126名中9位であった。
 午後の部第5戦は海南省の32歳の青年との対局で黒番中押し勝ち。碁歴14年。そして夕食後の第6戦。重慶市代表との白番を中押で制し、ようやく4勝2敗で2日目を終えた。

 第3日は、午前の第7戦が山西省代表の35歳の青年。力戦派で白番中押し負け。そのあと午後の第8戦に当たったのは数少ない韓国選手団の団長と思われる63歳の弁護士で、重厚な棋風の本格派。私の黒番だったが、序盤作戦が悪く、中押し負け。これで4勝4敗の相星となってしまった。そして夜の部の第9戦は天津市の48歳の中年律師との白番、終盤に逆転の11目半勝ちで愁眉を開く。

 10月13日の大会最終日は、海琴酒店(ホテル)で午前の第10局を終えた後、市内の繁華街にある金源大飯店に会場を移し表彰式が行われる予定となっていた。

最後の対局に勝てば勝ち越しとなる。残る力を振り絞って午前8時半対局開始。江西省族自治区代表との白番である。序盤から中盤にかけて両者堅実に自軍を補強しつつ均衡を保ったが、中盤戦で白が地合いを稼ぎ有利な形勢となる。7目半のコミもあり、どうやらこのリードを維持できそうだと楽観したのが悪く、終盤黒の激しい追い込みにドンドン白地が削られて行く。持ち時間も少なくなるし、中国ルールでアゲ石の数も瞬時に計算できない。ともかくも運を天に任せるしかないと臍を固め、薄氷を踏む思いで終局に至った。そして、審判員の白石の整地の結果、辛うじて半目を残すことができたのはまさに幸運であった。こうして待望の6勝目を挙げることができ、ホッと安堵の吐息を漏らしたのであった。

戦いを終え、やがて午後の会場移動。バスにて市内中心地の高層ホテル金源大飯店に向かう。午後2時、3階大宴会場に参加者、関係者が全員集合して始まった表彰式。団体戦優勝は海南省、2位浙江省1組、3位四川省1組、以下31チームの順位発表(日本、韓国チームは参入せず)と表彰の後、個人戦の成績優秀者の表彰が行われた。壇上には、全国律師協会などの役員のほか、かつて1980年代から90年代にかけて日中スーパー囲碁対抗戦で日本のトップ棋士をなぎ倒し「鉄のゴールキーパー」と謳われた聶衛平9段ほか何人かの高段棋士も参列していた。日本勢の成績は、大山薫さんと私が6勝、谷直哲さんが5勝、鬼追明夫、日野原昌、山田洋史さんが4勝、河嶋昭さん3勝であった。

「鉄のゴールキーパー」聶衛平9段

表彰式のあと中国高段棋士による指導碁が予定されていた。何名かの棋士が担当する中で、聶衛平9段は中日韓の選手各1名と3面打ちをするとのことで、各国それぞれ対局者を選ぶこととなった。日本勢は、6勝の大山さんと私のくじ引きで、私が幸運を引き当てることができた。こうして大勢の観客に囲まれる中で、左に中国選手、右に韓国の長老文正斗さんと並んでかつての「世界ナンバーワン」聶衛平さんとの3子局が始まった。

聶衛平9段との日中韓三面打ちの様子

白1と星に対し、私は右辺星の3連星。以下の進行は別掲の棋譜が示すとおり中央に黒の大模様が形成され、中盤までは3子の置き石の利を活用して大過なく進んだ。しかし、黒80辺りで中央から右辺にかけて黒の大地が完成すれば残るのではと甘い期待をしたのが運の尽き、黒84が悪く、白85から巧みに黒の大模様が荒らされ、あとはただ防戦一方の中押し負けとなった。貴重な1局だったので、後で棋譜を記録しようと考えていたら、思いがけなく同僚の谷直哲さんから赤青鉛筆の棋譜を渡され有難く頂戴した。後日帰国してこの棋譜を石井邦生先生にお見せしたところ、黒84で7十一に打っておけば黒勝勢だったとの指摘を受け、1手のミスの恐ろしさを改めて痛感させられた。この棋譜は私にとって生涯の宝物であり、パソコンに入力し時々再現して18年前を回顧している。

こうして丸4日をかけた大会も閉会式と中国律師協会の役員や日中韓選手との夜の晩餐会をもって無事終了し、翌日の南宋時代の旧跡大足石窟や大廣寺の観光と重慶司法局長の招宴を最後に、10月15日重慶から北京を経て無事帰国したのであった。

 

(ニュースレター令和4年新年号より)

赤沢敬之

私と囲碁(54)コロナ禍と囲碁の楽しみ

| 2021年5月12日

 昨年は、新型コロナウィルスの全世界規模での感染拡大により、社会経済活動のみならず、人々の生活全般に多大な変容と犠牲を余儀なくさせた1年であり、その余波は今なお続いている。囲碁界もその例に漏れず、プロアマ問わず多くのイベントや大会が中止あるいはネット対局への切り替えで対処することとなった。
 私もこの1年、対局の機会がめっきり減った。月1・2回で数局の対局に留まり欲求不満が続いている。

 親しい碁敵の仲間と対面し、無駄口を交わしながら烏鷺を戦わせる楽しみは、何物にも代えられぬ碁キチの醍醐味である。

 ところが最近の碁会所などでは盤上を横断するアクリル板が設置され、マスク姿で対局する。致し方ないこととはいえ、これでは石が込み入ったときに全体を俯瞰して形勢判断をするのが難しく、また大石同士の攻め合いの手数を綿密にヨムときに、対面する相手の微妙な表情の動きや呟きを観察しながらひそかに形勢を判断する「奥の手」が使えない。言わば物言わぬAIと戦うようなものである。

 もっとも棋力向上の見地からすると、アクリル板による物理的な支障は別として、実はかような「奥の手」を使わぬ対局の方が純粋に大局的な判断力や複雑な局面でのヨミの力を養うのに適しているのかも知れない。

 そうした見地からいえば、遠隔地同士の対戦である「ネット対局」や「郵便碁」「FAX対局」は独特の面白さがあり、技量向上のよき手立てであるといえよう。

30年に渡る郵便碁・FAX対局の一部

 私はこれまでに、ネット対局は時間的な制約で打ったことはないが、ハガキで一手一手やりとりする「郵便碁」は故河合伸一さんと、同氏が弁護士から最高裁判事に就任した頃の1995年1月から2017年10月までの20年余の間に向こう5子から3子の22局を打ち、未完の4局を残した。

 最高裁の激務の中、同氏は他の相手とも相当数打ち、明らかに棋力向上の跡がみられた。昨年末に逝去されたことが惜しまれてならない。

 「FAX対局」については、西垣昭利弁護士が弁護士任官をした1991年12月から打ち始め、その後同君が弁護士に復帰した後の2017年4月までに向先で100局を打った。
 また原田次郎弁護士とは1992年7月に向先で始めてから25局、間もなく互先となってから2015年3月までに実に263局も烏鷺を戦わせたのであった。
 そして弟の弁護士赤澤博之とも2005年9月から2019年3月までに向先で75局を打っている。

 長きにわたる我が囲碁人生においてもこの約30年は「郵便碁」「FAX対局」で毎日数手ずつではあるが楽しく囲碁に接することができた。そしてそのことが日々の仕事や諸活動のエネルギー源となっていたのだ、と今になって改めて回顧する次第。

 コロナ禍においても、色々な方法で囲碁を楽しみたいと念ずる昨今である。

(ニュースレター2021年春号より)

赤沢敬之

私と囲碁(53)名伯楽石井邦生九段と天才少年井山裕太大三冠

| 2021年1月19日

 昨年12月初旬、日本棋院の「週刊碁」に「私と井山、師弟の歩み」と題する石井邦生九段の著書発刊との広告を見て、早速入手しようと通勤途上南千里の書店に寄ったが、見当たらず残念な思いをした。それにしても最近の一般書店での囲碁関係の書籍の少なさには驚かされる。

 当日、井山天元と挑戦者一力遼碁聖との天元戦第3局を、仕事と並行してネットで観戦し、井山さんの打ちぶりが見事と言う他ない完勝だったので、石井先生にメールで感想を送った際、新著発刊への祝意と通勤時のことを記載したのだった。

 早速、先生から「実は拙著をお送りしょうと思いながら根がズボラな性格でノンビリ構えていました。それとこのような本を読んでいただくのは恥ずかしい気持もありました。明日手元の三冊を進呈させていただきたいと存じます」との返信メールを頂戴し、週明けに事務所に出たところ、先生からのプレゼントが届いていた。

 早速緊急の仕事をそそくさと済ませ、夕刻から貪るように読み始め、帰宅後も食事の後深夜までかかり無事読了した。但し、貴重な棋譜解説はゆっくりと並べながらと思い、ざっと目を通したのだったが。先生の1000勝達成までの棋士一代記と井山少年との出会いから絶対王者に至る間の絶妙なる指導の軌跡を改めて拝見し、感動的な一夜を過した。中でも井山少年との文通録は貴重な歴史的遺産として後世に伝えるべき秀作と思った。加えて、好敵手の大竹英雄・林海峰・工藤紀夫・趙治勲九段などからの寄稿は先生のお人柄や生き様を見事に語っている好読み物だった。囲碁愛好者の皆様に是非ご一読をお薦めしたい。

 翌日、お礼と上記の読後感とともに「先便で厚かましくも催促がましいメールをお送りし恐縮の限りで、『後で気が付く・・・』というところでした」との謝辞を送信した次第である。

 *

 石井先生とのお付き合いは、高校の同窓南諭さんとの縁で、池田市医師会の囲碁仲間の碁会に顔を出した1975年(昭和50年)頃にお会いしたのが始まりであった。その後「爛柯囲碁倶楽部」などで時折指導碁をお願いすることがあったが、先生の追突事故被害の件で相談を受けてから、先生の温厚且つ清廉なお人柄に魅せられ、今日まで交流を深めてきた。

 先生には、時折の2子局の指導碁でやんわりと私の打ち過ぎを矯正していただくほか、私が「会長(世話役)」を勤める大阪弁護士囲碁同好会や高津囲碁会の例会での指導碁、そして棋譜の講評と関西での名人戦・本因坊戦挑戦手合いの観戦の際のプロ棋士の検討室の見学など多岐にわたるご指導を頂いている。

 中でも、なによりも有難いのは、打碁の講評である。何時の頃からか私は大阪弁護士会囲碁大会決勝戦の「観戦記者」になってしまい、弁護士会の「会報」に掲載するのが常となった。執筆にあたり、先生に棋譜をお送りすると、碁罫紙に変化図を7、8枚は作成し、懇切丁寧な解説や批評・感想を書き添えて返送して下さるのである。私はこれを引用し、対局風景の描写や個人的な感想を書き加えれば「観戦記」はたちどころに完成する仕掛けである。なるほどこれぞ井山大三冠を鍛えた打碁講評の極意であったかと妙に納得し、勝手に井山さんの「兄弟子」を任じている次第である。

名人戦宝塚対局の前夜祭にて (2009年9月23日)

名人戦宝塚対局の前夜祭にて

 そして、井山さんである。初めてお逢いしたのは、2005年(平成17年)井山さん中学3年の頃、昼食時に当時の関西総本部の近くの食堂に入ったところ、偶然にも石井先生と井山さんが食事中だった。その頃、井山さんは四段だったろうか。しばしの歓談だったが、既に全日本早碁オープン戦で小林覚九段を破り、史上最年少優勝の記録を打ち建てる前後で、その挙措言動は将来の大飛躍を予感させるものだった。

 その後の井山さんの活躍ぶりは、数々のタイトルを次々と奪取し、2000年(平成12年)には五冠、翌年に六冠、そして2016年(平成28年)と翌年には遂に7大タイトルを同時獲得する「絶対王者」にまで上り詰めたことは周知のとおりである。

日本棋院創立90周年記念式典にて

この間、私は棋聖戦、名人戦、本因坊戦などの挑戦手合いが、大阪や近畿で行われる際にはできるだけ現地に駆け付け、大盤解説会や石井先生の計らいでの検討室における解説者などプロの検討風景を間近に見せていただいた。因みに、私が観戦した対局の殆どは井山さんの勝利であった。

 対局前の前夜祭やタイトル獲得の祝賀会・日本棋院創立90周年記念式典では、暫しの時間ながら会話を楽しみ、井山さんの真面目で飾らぬお人柄に触れることができた。

 

1997年4月7日朝日新聞朝刊より(クリックで拡大)

 ところで、コロナ騒動による自宅待機中、昔の書類や雑誌の整理をしていたところ、机の抽斗の底から1997年(平成9年)4月の朝日新聞のアマ十傑戦府大会の記事の切り抜きを発見した。その頃私は6段で、アマの各種棋戦によく参加していた。成績は1、2回戦で敗退というのが通例だったが、この年のアマ十傑戦府大会では偶々初日の3回戦を突破、2日目の4回戦にも勝ってベスト16となった。あわよくば十傑入りをとひそかに狙ったが、アマ強豪の揃った中では望み叶うべくもなく涙を呑んだのだった。新聞切り抜きは、この大会の初日の勝者名と2日目の対戦成績が掲載されたものであった。

 ところが、この記事の初日のタイトルは「175人参加し熱戦、最年少の小2生、初戦惜敗」であり、それが井山少年であったことに驚きを禁じられなかった。なんと同じ大会に名を連ねていたとは・・組み合わせ次第で対戦もあったかもしれず、碁縁の繋がりの不思議さを感じざるを得なかった。

 井山さんは、この年と翌年の全国少年少女囲碁大会・小学生の部で優勝し、院生としてプロを目指すことになるが、この頃には既に石井先生の指導碁を受けていたようである。

 すっかり忘れていたこの新聞切り抜きは、私にとって様々な記憶を呼び起こしてくれるよき素材であった。そして今、井山さんが強豪まみえる中国・韓国の打ち手を破り、世界一の王者に成って欲しいとの願いとともに、わが生涯の思い出として是非1局でも指導碁をお願いしたいと思うこの頃である。(弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター令和3年新年号より)

 

赤沢敬之

私と囲碁(52)「碁縁は異なもの味なもの」ー比叡山律院叡南俊照阿闍梨師との出会いー

| 2019年9月19日

 「縁は異なもの味なもの」とは、古来予測できない人生の面白みを表す諺だが、私にとっては、これに「碁」という一文字を足すだけで語りつくせぬ囲碁と人生の深み面白みを表す言葉となる。比叡山律院の叡南俊照阿闍梨師との出会いはまさにその典型的な一例である。

 阿闍梨さんは昭和18年生まれ、昭和54年に戦後8人目(現在まで約40人)の千日回峰行(約30キロの比叡山の山道を1000日歩く荒行と堂入り後の9日間の断食、断水、不眠、不臥)を達成された高僧で、無類の囲碁好きの自称5段(一般の碁会では6、7段か)の打ち手である。

 私とは思わぬご縁でお知り合いになり、平成26年7月と翌年3月に律院を訪れ、護摩焚き祈願に参列したあと、烏鷺(注:囲碁の別名)を楽しんだ。

比叡山律院に初訪問(2014年)

律院での初対局

 2回目の訪問には高津高校同窓の向山さんと同行し、私は2局(向先)、向山さんは3子で1局打った。

2回めの訪問(2015年)

 さて、その碁縁とは、平成26年に同窓の前田さんから、従姉妹のMさんのご主人の法律問題の紹介を受け、無事案件が解決したあと、前田さんとMさんが事務所に来られた際、たまたま私の「医師弁護士対抗碁会」での対局が紹介された囲碁雑誌「梁山泊」を一冊欲しいとのことでお渡ししたところ、律院に奉仕をされているMさんが阿闍梨さんに見せられたようで、是非一度来院をとのお話があり、Mさんたちとともに平成26年の夏に訪問したことに始まるものだった。

囲碁梁山泊 (2013年白秋)

執務室にて(2014年)

 高僧でありながら(だからこそ)、腰の低いやさしいお人柄の方で、修行中も囲碁を楽しみ、毎週火曜日には宿舎で碁会を催される(現在は中止)ほか、これまでに全国の105の碁会所を回られたという驚異的な記録をもっておられる。

 この訪問がきっかけとなり、その後平成27年4月から、私たちの高津囲碁会に毎年1,2回は秘書役の囲碁愛好者の方と共に参加され、7段格で無類の早打ちを披歴されている。

高津囲碁会での対局(2018年)

高津囲碁会にて(2018年)

 碁会のこととて、ゆっくりとお話をお聞きする時間がないのが残念だが、そのうち千日回峰行の話や法話などをお伺いすることができればと期待する昨今である。

高津囲碁会の面々と(2016年)

(ニュースレター令和元年夏号より)

赤澤秀行

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