囲碁雑録 | 2017年4月28日
徒然草にこんな一節がある。
「囲碁雙六好てあかし暮す人は、四重五逆にもまされる悪事とぞおもふと、或聖の申し事、耳にとどまりていみじく覚え侍る」
これを受けて、かの曽呂利新左衛門が、その狂歌集でいわく、
「雙六をうつ人、もし七目を塞がれては術なき事、腸を断ちて悶え焦る、碁を囲む人は敵に取込められ、点おろされては、逃遁れんとものする有様、多く負けぬれば、後は腹立ち怒り、助言する人あれば穴勝に怨を含む、誠に我執といひながら、愚なる事になん、味方を生して敵を殺さんと、手を盗み偽を構へ、従父子師弟兄弟と雖も許さず、四重五逆の罪にも過ぎたりと、兼好のいひけんも道理ぞかし、これほどに心を入れてすべくば、何れの事か感応の上手とならざらん、あたら光陰を従に費す事、聖賢の旨に違ふらんとぞ覚ゆるといひければ、世に高麗胡椒とて好む人、その辛き事魂を消り、胸を爛らかして、これを見しと思ひたる彼の囲碁雙六に負色付きて、憤しきを慰みにせば如何せん、蓼食ふ虫もあるものをと、呟く人も有けり
雙六に七目塞がれ碁にしちゃう 唐椒より辛う覚ゆる」
兼好法帥や曽呂利が、はたして自ら碁をたしなんだかどうかは寡聞にして知らないが、どうやらこの二人は、囲碁のもつ魅惑的な魔力というものを理解していたに違いない。
「碁打ちは親の死に目にあえぬ」などという、語源は江戸時代の御城碁における缶詰対局の巌しさから出たことばが変容し、もっばら碁の魅力を表わすようになった警句の意味するごとく、兼好らもおそらくは、碁打ちに対する戒めをかねて、囲碁の醍醐味を逆説的に語ったのではあるまいか。
それはともあれ、ひとたび碁の道に迷い込み、その魅力にとらえられた者にとっては、いくら「四重五逆の罪」だとおどかされても、もはや元の道へは引き返せないのである。
いわんや、いまさら「聖賢の旨に違ふ」まじく心掛けようったって無理な話というものである。
これを称して「碁キチ」という。
ところで、大阪弁護士会を見渡すとき、この種の先生方が老若強弱を問わずズラリと並んでいる。ご多分にもれずわが春秋会にも沢山いらっしゃる。
会館五階(碁会にあらず)へゆけば大抵つかまえることができるといわれる強腕島田五段、昨年暮にみごと衆議院選挙で高位当選され「聖賢の」道に邁進しながらも、おそらく議員宿舎には相当数の棋書を備えつけているだろうと伝えられるわが兄弟子正森五段をはじめ、橋本誼九段を師匠とする「新鋭法曹囲碁同好会」の世話人で最近とみに進境著しい大錦三段、副会長の激務でこの一年は表向き「四重五逆の罪」は犯しにくいと思われる鬼追三段など多士済々である。
もちろん小生もその一員であることは、いうまでもない。
こうした「憎さもにくしなつかしき」連中を観察すれば、碁キチの習性というか資格要件とでもいおうか、それがどんなものかを知ることができる。
もしあなたが、今より半目でも強くなりたいという願望をもっておられるとしたら、定石書を絡く時間の十分の一でもよい、碁打ちの生態の研究にあてられることだ。おそらく勝率はぐんと向上するに違いない。
囲碁は、単なる理屈や技術のみでなく、肉体的な総合戦である。
従って、平素からテキを知りオノレを知っておき、巧みにその習性を利用して、テキを攬乱し、盲点に陥れるのである。
これこそわれわれアマ碁客に許される無上の愉しみであり、実戦的な勝利の秘訣である。
(下へ続く)
※本稿は大阪弁護士会春秋会機関誌「春秋」に投稿したもので、当時38歳の客気があふれている。なつかしい原稿である。