弁碁士の呟き

私と囲碁(43) 三木正さんとの20年(上)

| 2015年10月14日

 三木正さん、関西碁界では知る人ぞ知る囲碁ジャーナリストの長老である。氏は、関西棋院の機関誌「囲碁新潮」を発行していた囲碁新潮社が倒産したあと、故宮本直毅9段から同社のアマ初中級者向けの「月刊碁学」の継続を引き受けられ、昭和50年代から約10数年間、発行者兼編集長兼ライターとして囲碁普及のため 悪戦苦闘を続けられた。この雑誌は、上級者・高段者にとっても有益で、懇切丁寧な解説は他に類を見ないものであった。私も時折特集号を求め勉強してきた。同氏は現在95歳のご高齢で西宮の自宅で自適されている。
 三木さんは、広島文理大学国語国文科を卒業され、元々は国文学者を目指していたが、戦時中のこととて やむなく昭和18年に江田島の海軍兵学校文学科教官(海軍中尉)に就任し、敗戦のあと神島化学工業の総 務部長・常務取締役を歴任されるという数奇な前半生を送られた。そして、昭和51年以降は、上述の囲碁専業の後半生に移られる。

 同氏の囲碁歴も数奇かつ多彩である。敗戦直前の昭和20年8月4日に瀬越憲作師に出会われたのが、第3期本因坊戦挑戦手合第2局の第1日目、所は広島県五日市の対局場。原爆投下の2日前であった。瀬越先生から橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫8段を紹介される。これが縁で、戦後は橋本囲碁道場で修行され、メキメキ腕を上げられたようであり、後年は宇太郎先生の後援会「雨洗会」のボランティア世話役を務められた。また、戦後まもなく昭和21年10月、会社からの出張の機会に瀬越先生の紹介状を持参して、当時岡山県玉島に住ま われていた第1期本因坊関山利一師の指導を受けることとなり、以後24年まで11局の4子局の棋譜を宝物として残されている。当時は初段だったとか。

 三木さんとの交遊が始まったのは、平成7年(1995)9月頃だった。「月刊碁学」の熱心な愛読者で全巻所持者の西垣昭利弁護士(6段格)が裁判官に任官することとなったのがきっかけだった。当時西垣さんは「雨洗会」の会員で、世話役の三木さんに事務的な便宜を提供していたが、事務所を離れるに当たり、三木さんに私をよき対局相手として紹介してくれたのである。以後20年にわたる三木さんとの対局の模様は次回に記すこととして、ここでは三木さんが「月刊碁学」の1984年から1988年の段級位認定テストに修正を加え、新たに書き直してミルトス図書から発刊した「次の一手」(2011.5)「続次の一手」(2012.11)を推奨しておきたい。

 同書は、「級位者のために」と銘打っているが、とてもそのような代物ではなく、高段者にも有益な問題集である。坂井秀至8段が精密に監修されており、私も販売協力員として碁友に合計180冊ほどを普及し、日頃の三木さんの「碁恩」にささやかながら報いることができた。  しかし、この本の圧巻はなんといっても問題の合間に新たに書き下ろされた珠玉のコラムである。「原爆対局12」「関山本因坊24」「橋本本因坊48」は、上述した三木さんの華麗な碁歴と瀬越先生ら錚々たる師匠たちとの人間味溢れる触れ合いを生き生きと描かれており、これだけでも一読の価値がある。なお多くの人に推奨したいと願うものである。(続)

赤沢敬之

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