弁碁士の呟き

囲碁雑録(7)-1986年『ハンさんの「宇宙流」』④

| 2017年6月9日

(③より続く)

バリトン歌手ハンさん

 やがて対局は終わり、200人を上まわる参会者による親善パーティの場に移った。
吹田市長の歓迎の言葉や日本棋院代表など関係者のあいさつのあと、それぞれの懇親の輪があちこちに花開いた。
私もハンさんをつかまえ、オーストラリアの囲碁事情を聞く。
ハンさんは、メルボルンに住んでいるが、同国の囲碁人口は200人位で、ハンさんが抜群の力をもつ第一人者であるため常に代表になってしまうので、世界大会の選抜予選には3年に1回だけ出場することにしているとのことである。
因みに、メルボルンでは2か月に1回位しか対局しないが、ナンバー・ツーはハンさんに七子を置く初段だそうである。
シドニーにはもう少し強い人もいるようだが。
したがって、ハンさんの勉強は専ら日本のプロ棋士の打ち碁に拠っているのだろうと、さっきの「武宮宇宙流」を思い浮かべながら考えたものだった。

 さて、宴たけなわを迎えそれぞれのお国自慢の美声が披露されることとなった。
世界大会優勝の陳さん夫妻のデュエット、西独選手のドイツ民謡、ソ連・チェコーポーランド選手、役員のカチューシャの合唱、地元勢の黒田節など賑やかなうたごえのあと、ハンさんが指名された。
さてなにが飛び出るかと期待していると、音吐朗々たるバリトンの響き。
会場はとたんに静まりかえった。
曲目は忘れたが、確かオペラのアリアである。
声量豊かな見事な歌いぷりは並の素人ではない。
ああそうだ、と確か三年前に聞いた話が甦ってきた。
彼はメルボルン大学の声楽科で本格的に修業したプロ歌手で、時々今でも舞台に立つということだったのだ。
満場の拍手を受けて舞台を下りるハンさんの雰囲気は、碁打ちというよりもまさに声楽家のそれであった。

 時は移りパーティもやがてお開きとなり、それぞれが一日の充実した戦いや親善交流の貴重な思い々胸に深く刻み込みながら、またの再会を期して会場を後にしたのであった。
果たして3年後、三たびハンさんに相まみえる幸運に巡り合えるかどうか、いや是非その機会を作りたいものだと考えながら、その日のために私も一層の精進をせねばとひそかに心に期するのであった。(終)

赤沢敬之

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