囲碁雑録 | 2017年6月16日
頭の上がらぬ兄弟子
昨年11月、弁護士会から送られてきた第10回囲碁大会A組トーナメント組合せ表を見て、もしかすると今回は正森成二先生(以下正森さんと呼ばせて頂く)との公式対局が実現するかもしれないという淡い予感のようなものが、フッと私の脳裏をよぎったことを思い出す。
といっても、その組み合わせが実現するためには、両者が強豪ぞろいの互いの山をうまくくぐり抜けて無事決勝戦に進出するのでなければならず、その確率は極めて低いものだから、この予感にはなんの根拠もあったわけではない。
多分に私の希望的観測以外のなにものでもないが、そのようななんとも不遜というはかない予感を抱いたのも、正森さんと私との26年以上にわたる「憎さも憎しなつかしき」碁仇の連綿たる因縁が背景にあったからだとおもわれる。
正森さんは、私が弁護士を始めた頃からのこの道の兄弟子である。
昭和36、7年当時、まだ2、3級程度の実力であった私は、旧弁護士会館で時折大先輩の和島岩吉先生に五子、島田信治先生に三子置かせてもらうなどして勉強していたが、正森さんとの手合わせもおそらくはそうした機会が初めてではなかったかと今は定かではない。
たしか正森さんは、初段になりたてぐらいの頃で、私がニ・三子を置く手合いであった。
どの道でもそうだと思うが、囲碁の場合でも、あまりに実力差があり過ぎる相手には、教えを乞うという意識が走り過ぎて敵気心も沸かず、相手を上達へのスプリングボードとすることがなかなかできないものである。
「追いつき追い越せ」と自らの励みとする目標には、射程距離が二子ぐらいの上手がちょうどよいし、喜びと悔しさ、それに勝負の機微も味わえる。正森さんが、私にとって恰好の目標となったのも、そうした事情に因るところが大きい。
昭和38年に、自宅で道場を開いていた関西棋院の退役棋士のところに連れて行かれ、試験碁を打ってもらい、「野性の碁ですが、見込みはあります」という講評と初段の免状を頂戴したのも、正森さんの推薦によるものだったし、41年頃から10年以上にわたり、正森、島田、服部明義、鬼追明夫、畑良武、大錦義昭、木村五郎さんなど若手(当時は)のそうそうたるメンバーで構成された「新鋭法曹囲碁同好会」で毎月1回は指導を受けることとなった日本棋院の橋本誼九段を師匠として迎えたのも正森さんのおかげであった。
また、昭和54年から6年余をかけて、延べ2万図を超える「囲碁大辞典」を読破することができたのも、正森さんがこれを座右に備えているという話に触発されたからでもあった。
私にとっては、かように頭の上がらぬ兄弟子が正森さんなのである。
もし正森さんに会っていなかったら、私もこれほどこの道に深入りしてしまうこともなく、もっとほかの道でよい仕事ができていたかもしれないが、おそらくはまたこれはどの玄妙な味合いや醍醐味を経験することがなかったこともたしかであろう。
正森さんが昭和47年12月の衆議院選挙で当選されるまでの間は、会館や双方の事務所、碁会所などで絶えず打ち込み制の勝負を争い、はては、たまたま出会った茨木簡裁で顔なじみの書記官に頼み込み、古い宿直室で盤を囲んだこともあったほどである。
このときは、私が三子まで打ち込まれ、挽回に必死の状況だったと記憶する。
44、5年頃には、両者とも「貴殿棋道執心所作宜敷手段益巧」ということで五段を免許されていた。
(②につづく)