弁碁士の呟き

私と囲碁(13) 5段免状争奪戦

| 2014年9月21日

 昭和43年3月当時、「新鋭法曹囲碁同好会」には4人の4段がいた。年齢順に云うと、切れ味鋭い力戦派の雄・島田信治さん、石の形を重んずる正統派の正森さん、じっくり型の地合派・畑良武さん、それに粘り強さを唯一の頼りとする私であった。

 ある日の研究会のこと、橋本9段から、この4人でリーグ戦を行い、優勝者に5段の免状を推薦するとの有り難い提案があった。いずれ劣らず腕に自信のあるメンバーのこと、早速4月の日曜日にOS囲碁センターで「血戦」を行うこととなった。この日のことを正森さんが昭和44年4月発行の「青法協」の機関誌に「私のこの頃」という題でユーモアたっぷりに紹介しているので、少々長くなるが引用させて頂きたい。

 「正11時開始、30分以上遅刻は負けとするという男の約束である。これは何をかくそう正森4段が言い出したもので、かねがね赤沢4段が宮本武蔵の故知にならって人をじらすのを封じようとする深謀遠慮であった。当日いそいそと正11時前に来ると・・・案の定赤沢4段は遅刻である。やむなく3人で抽選となり、第1局に私と赤沢4段が当たることとなった。正直言って私はその時赤沢の『野郎』とは当たりたくなかった。というのは、赤沢4段がいつも碁会は第1局が肝心だと称して第1局に全力を投入し例のパイプをくゆらせて延々と考え込むことを熟知していたからで、気の短い小生のこと、願わくば第2局以降に雌雄を決したいと心ひそかに考えていたのである。

 いやなことになったと思ったが仕方がない。例の早碁でパチパチやっている島田さんを冷やかしながら敵の現れるのを今やおそしと待ち受けた。ところが5分、10分、20分たってもやって来ない。はじめは闘志満々、またもや宮本武蔵をはじめたな、今に見ていろと待っていたが、そこは易きにつきたい人間のあさましさ、時計が11時29分を指した時、なんとなくホッとして第1局は不戦勝で『頂き』かやれ有難いとこちらも念願の『5段』がかかっているだけに、つい普段の正森4段らしくもない気のゆるみが生じてしまった。

 その瞬間、正にその瞬間、戸があいて汗をふきふき『やあ遅くなって』とのたまいながら赤沢4段が現れたのである。時計は11時29分30秒を指していた。規定までにはまだ30秒あるから仕方がない。それではと石を握って打ち始めた。」 (続)

赤沢敬之

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