私と囲碁 | 2014年9月28日
さて「血戦」の火蓋が切られたあとどうなったか。再び引用を続けたい。
「中盤中ごろまで黒必勝といえる形勢だったが、赤沢4段の考えること考えること、実に第1局が2時間40分もかかり、畑ー島田戦は白黒2局が済んでもまだ当方は第1局がヨセにも入らないという調子。遂に黒に甘い手が出て逆転負けと相成った。やはり安易を求めた心のスキが災いしたのである。この第1局が赤沢4段には運のつきはじめ正森4段にはケチのつきはじめで、結局赤沢6戦全勝、畑3勝3敗、正森2勝4敗、島田1勝5敗となり、赤沢5段が誕生したのである。赤沢『4段』は他の5局を約5時間足らずで打ったから実に私との第1局に異常な執念をもやしたと言わねばならない。
そしてこれからがいけない。畑4段のように心臓が強いと、赤沢『5段』何するものぞというわけで、このあとも打ち分けないし勝越しで意気揚々としているが、・・私はつい礼儀正しく『5段』に敬意を表してしまって、その後の成績はすこぶる芳しくなく、遂に5連敗か6連敗を喫し今やかつての『弟子』に教を乞う有様である。相撲界では師匠に土をつけるのを『恩返し』というらしいが私もとんでもない恩返しをされたものである。」
こうして私は、大方の予想に反して思いがけない成績で「5段」の免状を頂くことになった。因みに、血戦当日朝、正森さんは私の到着が遅いので、もしや時間を間違えてはいないかと私の自宅に電話をかけ、妻に家を出たことの確認をとるほどの「礼をつくし」てくれたようだった。私も意図的に「宮本武蔵」を演じたわけではなかったはずなのだが、今改めて正森さんの名随想を読み、同氏の端正な人間性の裏にひそむユーモラスな側面に触れて、感慨深く往時を偲ぶのである。なお、この血戦のあとしばらくして正森さんら3人もめでたく5段に昇段されたことを付言しておきたい。
この随想を記された頃、正森さんは弁護士から政治家への転身の準備に専念されており、とても碁を打つことなどできない状況であったが、見事3年後の昭和47年に衆議院議員(共産党)に当選され、以後平成9年に健康上の理由で引退するまで、9期連続国会で舌鋒鋭い質問で華々しい活躍をされたことは多くの国民の知るところである。碁の面でも、国会有数の打ち手として度々碁会での優勝を重ねられていたと聞く。
この間、正森さんと私は毎年2回、同氏が盆暮れの休みに帰阪されたとき「爛柯」囲碁倶楽部で久々の対局を楽しむのを常とした。ただこの間に一度だけ昭和62年に、大阪弁護士会囲碁大会の決勝戦で相いまみえたことがあり、私が幸いして、その対局の自戦記を弁護士会報に掲載したが、そのタイトルは「兄弟子への恩返し」とした。
同氏の引退後はゆっくりと盤を囲もうと話していたのに、病気治療に専念されたまま平成18年に79歳の生涯を終えられ、遂に1局も「手談」の機会がないまま約束を果たすことができなかったのは正に痛恨の思いであった。(続)