私と囲碁 | 2014年10月5日
昭和40年代から50年代初期にかけては、私の青年期から中年期に至る時期で、結婚や新居への2度の移転、子らの誕生など私生活面での忙しさと修習同期の宮本裁判官の再任拒否をはじめとする司法の官僚統制の強化に反対する弁護士会や日弁連の活動への取り組みなどが重なった時期であった。仕事の面でも多忙であり、あまり弁護士会館娯楽室に出入りする余裕もなく、月1回の橋本誼9段の指導例会で腕を磨くのが主たる修行であった。
ただ、この時期に、実家の天王寺区の父の碁仇であった近所の薬局の主人が小学生の子供のPTAの役員で、この人から同校の先生に碁の強い人がいると紹介されたのが、下定弘先生であった。同氏は大阪府代表としてアマ全国大会に出場するなど府下有数の打ち手であった。昭和42年頃、父の家で2子か3子で教えてもらったのが始まりであった。そのうち同氏の勧めで、翌年5段に昇進した機会に、元アマ本因坊田口哲郎氏を始め府のトップクラスを含む数十名規模の研究会「昭和会」に入会し、月1回日曜日の例会に出ることとなった。
同会はA,Bの2クラスに分かれていたので、私は当然にBクラスに属し、順位戦の対局を行った。これが6、7年は続いたろうか、なんとか順位戦でBの上位半分位まで達したかというところで、多忙のため退会せざるをえなくなった。このとき知り合った会の中心メンバー松尾鐘一さんとのご縁が、後日のアマ東西対抗戦参加につながる。(続)