私と囲碁 | 2014年10月12日
昭和50年代は、私の弁護士としての本業や弁護士会の活動が最も多忙な時期で、特に昭和53年4月からの1年は弁護士会の副会長・日弁連理事の会務で東京行きが多くなった。当時、「荒れる法廷」の対策として、法務省が「弁護人抜きの裁判」を可能とする法案を国会に提出していた。日弁連は、これを被告人の不当な権利の侵害につながる危険な法案であるとして総力を挙げて反対運動を展開していた。この問題の対策委員会担当であったため、時には午前中に日弁連の会議に出たあと、トンボ返りで大阪に引き返し、夕刻の大阪での委員会で対策を協議することもあった。幸い、反対運動が功を奏し、同法案は廃案となり、善処策を協議する場として裁判所・検察庁・日弁連の法曹三者協議の場が設けられた。
幸いだったのは、当年度の大阪会の理事者は、会長の故足立昌彦4段はじめ副会長3名(由良数馬2段、故南逸郎3段、私)が共に囲碁愛好者であり、もう一人の中筋一朗さんも自らは打たないが囲碁の理解者であったことである。それに加え、厚生委員会の委員長が娯楽室常連の津留崎利治2段であった。この委員会の提案に理事者一同が賛同し、会員の福利厚生と相互交流の場として、会の公式戦として年1回の「囲碁・将棋大会」の開催が決まったのである。
こうして昭和53年度を第1回として、囲碁はA、B、Cクラスに分かれてのトーナメント戦が始まり、その後本年度の第37回に至る伝統的行事として定着している。(続)