弁碁士の呟き

アーカイブ:2024年

私と囲碁(69)石竹会と石松竹雄さん

| 2024年6月21日

石松さん(左手前)

 石松竹雄さんは修習2期の刑事裁判官で、裁判官の独立、裁判官の職権の独立を重んじ、昭和46年(1971)3月の宮本康昭裁判官の再任拒否に始まる「司法の危機」の時代に設立された司法の官僚制を批判する「全国裁判官懇話会」の世話人を務められた方で、「気骨―ある刑事裁判官の足跡」という回顧録を残されている。刑事裁判の審理における被告人の権利を大事にする進め方を実践され、多くの若手裁判官から慕われた。

 同氏の名を冠した「石竹会」(毎年1月第1土曜日開催)の発足がいつだったのかは不明だが、私が初めて参加したのは平成16年(2004)1月だった。世話人の森野俊彦弁護士(元裁判官)かあるいは弁護士任官した西垣昭利さんだったかの誘いで喜んで会場の大阪市中央区の以和貴荘に向かった。参加者は12、3名の現元裁判官や弁護士など石松先生を慕う門下生や司法修習の教え子などで、棋力も3段から6段の打ち手揃いで、四国など遠くからの参加者もあった。

 この日、私は7段格で4勝1敗で終え、続く翌17年(2005)にかけて7連勝したが、その後平成16年(2006)から同18年(2008)の3年簡に9連敗、以後同19年(2009)から同(2017)までの間には13連勝という極端な記録が残っている。通算22勝10敗であった。

 石松さんとの対局は5回で向こう3子4勝、4子1敗だった。このうち平成25年1月の3子局で白中押し勝ちの棋譜が残されているが、石松さんの棋風は穏やかなものだった。

 石松さんは、平成30年(2018)9月に93歳の長寿を全うし逝去され、毎年正月の石竹会も幕を閉じた。そして翌31年(2019)1月の「偲ぶ会」には、裁判所関係、弁護士その他大勢の人が集まり、同氏の多大な業績を称えそのお人柄を偲んだ。 (2023.11.29)

赤沢敬之

私と囲碁(68)大阪弁護士囲碁同好会

| 2024年6月7日

 平成18年(2006)1月、井土福男(2期)、島田信治(6期)弁護士を代表として、私も含め9名の囲碁愛好者が呼びかけ人となり、「大阪弁護士囲碁同好会」の設立と入会の呼びかけをした。
 当時、会館の娯楽室への出入りや弁護士会大会、法曹囲碁大会などへの参加人数の減少が顕著となったため、その打開を図る目的であった。
 入会金や会費なしで毎月「5の日」の3時から6時に弁護士会館で自由対局を行い、当日の当番幹事が対戦記録を付けることとした。対局は持ち点表(レーティング)によった。

 こうして発足した会には、100名を超える入会登録者を迎え、名誉会長上記2氏、会長鬼追昭夫(12期)、副会長私(13期)と畑良武(15期)氏、常任幹事に竹内隆夫(29期)、原田次郎(38期)、岡本岳(47期)が世話役を務めた。
 当番幹事は10数名が交代で当たった。「5の日」には毎回有段者から級位者が7、8名程度参加し懇親を深めた。

青葉かおり4段(当時)の4面打ち

 同好会の目玉は、石井邦生、石井新蔵9段の指導碁と懇親会で、平成23年(2010)から同26年にかけて両9段各3回行い、10名ないし6名が指導を受けた。また、東京での法曹大会でお世話になった青葉かおり4段(現5段)の来阪の機会に、平成20年(2008)、25年(2013)、30年(2018)の3回の指導碁会を開催した。

 私が会長の役を仰せつかったのは、先輩たちの逝去や引退による平成23年(2011)の頃だったろうか。その後10余年を経て、コロナ禍による会館使用停止や衣替えにより「5の日」は休止したまま今に至っている。 (2023.11.26)

赤沢敬之

私と囲碁(67)関西東大会囲碁同好会

| 2024年5月24日

 関西東大会に囲碁会があるのを知ったのは確か昭和60年代(1980年代)のことで、北浜の大林ビルで毎月1回開催されており、5段当時に時々参加したことがあるが、当時の記録が残っていないためどのような対局をしたのか記憶にない。

古家正大4段の3面打ち

 その後、備後町の綿業会館ビルに会場が移ってから、平成22年(2010)4月に久しぶりに参加し、古家正大4段に2子局での指導を受けた。以来令和2年(2020)1月にコロナ禍のため休会となるまで、年4回の例会にほぼ毎回参加した。

 この会の世話役は大阪大学教授の井元秀剛氏で、手合いは点数表により決定される。メンバーは30名程で、関西棋院元理事長小松健男氏や大阪ガスの松本正博氏、「囲碁ワールド」の段位認定コーナー段位コースで常に満点やこれに近い高得点を記録している入子輝夫氏や芦田雄太郎氏などの強豪ぞろいを相手に、私は23勝20敗で持ち点180の前後をうろうろしていた。

 そして、この会で特に勉強になったのは古家正大4段(現5段)の2面打ちの指導碁で、2子15局と先番3局で5勝5敗8打ち掛けだった。

 碁会の後の大阪ガス会館食堂での懇親会がまた楽しく、それぞれに母校の思い出などを語り合うひとときとなった。そろそろコロナ禍による休会明けも近いのではと期待するこの頃である。 (2023.11.23)

赤沢敬之

私と囲碁(66)王座研究会

| 2024年5月10日

王座研究会の仲間たち

 平成12年(2000)2月、日経新聞社主催でアマ各界対抗囲碁大会がホテルニュー大谷で開催され、大阪弁護士会から当時最強のメンバー6名を集めて参加した。しかし結果は思うようには行かず、これが2年続いた。これではならじと参加者協議し、定期的に対局し棋力を高める研究会を作ることに決め、毎月第1土曜日に爛柯囲碁俱楽部で例会を開くこととなった。世話役の幹事は原田次郎君が現在まで務めてくれ、私が対局結果と毎回の対局表と統計を作っている。

 第1回は平成12年(2000)3月、故今富滋、故中森宏、上田耕三、竹内隆夫、故西垣剛、佐野喜洋、原田次郎、私の8名でオール互先の対局が始まった。その後、平成14年(2002)に岡本岳、田中清和、辺見陽一、故金子光一、榊原正峰君らが参加。そして平成20年(2008)頃には山本忠雄、故片岡勝、谷池洋、佐井利信、大塚清明、西垣昭利、小野健二、山本彼一郎君らが加わり、最近参加の牟田口卓也、尾近正幸、山本渉君も含め、現勢16名となっている。平成20年(2008)頃からは、段に応じて2・3子局も採用している。

 毎月1回の例会は、その後一時爛柯囲碁俱楽部からライフ囲碁倶楽部に会場を移したが、平成22年(2010)以来は元に戻り、コロナ禍の3年も休会することなく続き、現在283回となった。この間の対局数の最高は原田次郎君で1066局、次は私で850局、勝数も原田君673、私581。勝率は岡本岳君が群を抜き7割4分、私が6割8分4厘、原田君6割3分1厘となっている。

 コロナ禍の影響で最近は出席者が少なくなっているが、この研究会と高津囲碁会は、現在私が参加している貴重な碁会であり、これからも長く続いてほしいと願っている。

 なお、この機会に大阪弁護士会囲碁大会の近況を報告しておきたい。

 先に「私と囲碁(26)弁護士会大会その後④―新鋭の時代へ」で岡本岳君(47期)の登場と破竹の進撃を紹介したが、あれから9年を経て更に新たな世代の新鋭棋士の登場となったのは自然の成り行きであろう。平成30年(2018)度の第41回大会に初参加したのは70期の大和義章君、東大囲碁部の出身でヨミの深さと正確性に優れ勝負強い。初参加以来現在まで大会5連覇の騎虎の勢いが止まらない。AIを駆使しての研究も怠らず、前世代代表の岡本君、原田次郎君もなんとか一矢を報いたいと頑張っている。

 若手参加者の減少がわが弁護士会囲碁界の課題であり、この面でも大和君の活躍が望まれるところである。 (2023.12.27)

赤沢敬之

私と囲碁(65)行友会と結城聡9段

| 2024年4月26日

 早碁の神様、NHK杯5回優勝の結城聡9段との最初の出会いは、先述の天満倶楽部での「秀行塾開講記念プロアマ戦」の昭和62年(1987)5月であった。当時15歳で4段の結城さんとの白番での対局し手もなく粉砕されたことは以前述べたとおりである。

 平成22年(2010)5月、美香さんの代役で行友会例会の「清友」に見えた結城さんは、NHK杯を2連覇(武宮正樹、井山裕太9段を破る)していたが、気さくに2面打ちの指導碁をして頂いた。

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 私も9子局の某氏と並んで2子局で対局。序盤から慎重に石を運び、50手ころには左辺中央に大模様を築く形勢となり、白85に侵入した白石を捕獲できるかどうかの攻防となったが、白何かの見落としだったのか110手で白投了。まさに望外の勝利である。

 数日後美香さんに報告すると、「結城君、普通に打って普通に負けたと言っていた」とのことで、2度の驚きと信じられない思いであった。この棋譜は私の記念譜として聶衛平9段との棋譜とともに棺桶に入れて欲しいと思う。

 なお、結城さんとは、その後も行友会で令和元年(2019)12月に打ってもらったが、その時は地合い大差で投了した。

行友会・結城聡9段を囲んで

 結城さんは大のオリックスファンである。開幕試合の始球式に登場されたのも記憶に新しい。平成29年6月に大阪ドームでのセパ交流戦でのオリックス対中日戦を逢坂さんや2児を連れた結城さんらと観戦したことがあるが、その試合残念ながら中日が4-0で勝利し、結城さんらさぞガッカリされたことだろう。

 今もなおトップ棋士として活躍中の結城9段の益々の健闘を祈りたい。 (2023.11.15) 

赤沢敬之

私と囲碁(64)行友会と吉田美香8段

| 2024年4月19日

吉田美香8段の指導碁

 行友会で吉田美香8段とお会いしたのが平成20年(2008)5月であり、天満倶楽部での「秀行塾開講記念プロアマ戦」の際お姿を拝見した昭和62年(1987)5月以来実に21年ぶりのことであった。

 当時は16歳で初段であった美香8段(以下、親愛の情を込めて「美香さん」と呼ばせてもらう)は、この間に平成5年(1993)から同8年(1996)にかけて女流本因坊戦で4連覇を果たしたトップ女流棋士に飛躍していた。2児のママであり、神戸新聞にエッセイを寄稿する文筆家でもある。

 行友会では、平成20年から令和2年(2020)までの間に42局もの2子局を打って頂いた。優しい笑顔で厳しい打ち手に私も精一杯反発し激しい攻防戦となることが多かったため、殆どが中押し負け。結果は5勝29敗8打ち掛けで1割5分程度の勝率である。

 美香さんの都合が悪い時には、必ず代わりの棋士を差し向けてくれる。清成哲也、結城聡、倉橋正行、横田茂昭各9段、村川大介7段(当時)や女流の小野綾子、出口万里子初段など多くの方との触れ合いが実に有意義であった。とりわけ結城聡9段との再会は私の囲碁歴に花を添えてもらったもので、次回に記したい。

 美香さんには、囲碁だけでなく私事にわたるお世話を頂き感謝している。実は私は7年ほど前から脊柱管狭窄症で足の痺れによる歩行困難が続いているが、ある時美香さんが時々治療をしている鍼灸師の先生が優秀な方で私の治療を予約してくれ、大いに助かったことがある。

 現在、行友会は休止中であるが、美香さんは本年7月から新たに囲碁の会を立ち上げ、爛柯囲碁俱楽部で毎月第3日曜日の午後に定例会を開いている。行友会メンバーが多いが誰でも自由に参加できる開かれた会である。私も一度参加し、懐かしい碁友や美香さんとの指導碁に日曜の午後を楽しんだ。 (2023.11.13)

赤沢敬之

私と囲碁(63)行友会での対局

| 2024年4月12日

畏友逢坂貞夫君が大阪高検検事長を退官した平成11年(1999)6月以降4年間は、年数回は検察囲碁会に参加して対局を続けていたが、やがて世話役の検察事務官の退官のためかこの会も終焉を迎え、平成16年(2004)3月が最後の参加となった。

 こうした経過を経て逢坂君は、検察囲碁会に代わる碁会を作ろうと考え、当時関西棋院の理事長小松健男氏に指導プロ棋士の紹介を頼んだ。同氏は即座に吉田美香8段を推挙し声を掛けてみるとの回答のあと、時を置かず吉田プロからの応諾の電話があり、会の名称も「友情をのばす」という意味の行友会とし、会が発足したとのことである。

 行友会のスタートは平成14年(2002)1月、毎月1回土曜日午後に北新地の料亭「清友」での例会には、検察関係者だけでなく、弁護士や元裁判所事務官・報道関係者など多様な職業の囲碁愛好者たちであった。

行友会での対局風景

 私が初めて参加したのは、平成20年(2008)5月の行友会と清成哲也9段の指導する「清成会」との交流戦で、2勝1敗の成績だった。それからあと2回に1回は例会に参加することとなり、平成22年(2010)10月に会場が逢坂事務所のある電子会館ビルに移ってからは、ほぼ毎回参加した。

 吉田師範の認定により私は7段格で対局したが、同じく7段格の朝日放送報道局の藤田貴久さん、小松健男理事長や島田重康・姉歯義信各6段、逢坂貞夫・南部晴・坂本武人・三浦正信各5段、阿辻豊・松原修三・望田耕作各4段、宇田川力雄・室田源太郎各3段との対局は、いずれも熱の籠った激戦を堪能した。そして吉田美香さんの指導に皆さん厳しく鍛えられた。

 2014年から2019年まで毎年8月には琵琶湖河畔や奈良の平群に合宿し思う存分楽しむこともできた。幸い令和2年(2020)までの戦績は対局数約260局で勝率8割5分を超えていたことに我ながら驚かされている。

 なお、この会もコロナ禍のため令和2年(2020)2月の例会をもって休止せざるを得なくなったのは残念の極みである。 (2023.11.8)

赤沢敬之

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