私と囲碁 | 2014年8月2日
昭和36年4月、弁護士の仕事を始めてから、いよいよ囲碁耽溺の道に入ることとなる。
当時の事務所は、国道1号線の近くの「敷島ビル」とは名ばかりの古い木造家屋2階にあった。そろそろ建て替えの話があったのか、入居者は2事務所を残すのみで、1年後にはわが事務所のみとなり、空き部屋に60歳位の管理人が寝泊りするようになった。この人が囲碁初段位であった。新米弁護士には事務所の事件が何件か割り当てられていたが、時間の余裕はあったので、仕事のない日は夕刻から囲碁三昧の特訓。お蔭で2年後には私が黒から白に変わってしまった。
吹田事件のほうは、その頃から2年ほどの間、検察側の証拠書類に対する採否決定の意見書作りの作業や最終弁論のための膨大な量の記録整理と起案の作業にかかっており、われわれ若手の常任弁護人数名も、信貴山、生駒、天王山、高野山等の僧坊に立て籠もっての数日がかりの合宿をよく行った。合宿には被告団からもU団長やS事務局長が参加しており、昼休みや作業終了後の夜は、このUさんと向こう2子の対局で疲れを癒すのが常であった。
昭和38年6月、吹田事件は大阪地裁で「無罪」の判決を受けたが、検事控訴により二審に移り、それから5年後の昭和43年、ようやく無罪が確定した。(続)
私と囲碁 | 2014年7月26日
大阪での実務修習では、検察、刑事裁判の修習が、たまたまアイウエオ順で、ともに当時の大事件いわゆる「吹田騒擾事件(※)」の担当部に配属されたのが、その後の弁護士生活出発の原点となったのは運命の不思議さを物語るものであろうか。
やがて後期修習で上京する日も近づき、就職先を考えていた頃、ある先輩から「吹田事件を手伝ってくれる若手を探している」という話を聞き、初めて山本治雄先生を紹介された。
先生は、地元吹田で起ったこの事件の主任弁護人として、長期裁判の大弁護団を率いて獅子奮迅の活動を続けていたが、事務所は一人だったため、膨大な証拠書類の整理を担当していた他事務所の若手数名の常任弁護団の補充が必要だったのである。
しばしの面談のあと、話はスムーズに進み、私は「山本治雄法律事務所イソ弁第1号」となることになった。時に昭和36年4月、山本先生は50歳の働き盛り、私は25歳であった。先生は、明治人間の豪放磊落の野武士の面影を残す一面の裏に人情味溢れる「自由人」であった。法曹界の謡曲同好会の世話人であり、囲碁も当時3段位であった。
事務所に入る前の冬休みの帰阪時だったか、一度北新地の料亭に招かれたことがあり、そこで私が4子(だったか)を置いて対局第1戦。内容は覚えていないが、私の敗戦であったことは間違いないはずである。その後、事務所に入り何年かのうちに、私が黒番で勝つようになってからは、先生は手合わせをしなくなったから、私は終生先生に白を持ったことがないのである。(続)
※吹田騒擾事件…1952年に大阪府吹田市で発生した騒乱事件。Wikipedia(別ウィンドウで開きます)
私と囲碁 | 2014年7月15日
私の場合、大阪での実務修習期間中、囲碁の勉強を始めたものの、碁会所に行ったりすることもなく、専ら同期の友人との対局と父親との実戦だけだったが、「ヘボ碁」の典型であった父親とは始めて程なく強弱逆転し、何目かを置かせることになった。そして、修習終了時にはなんとか2級程度に上達していた。
同期の友人の中では、特に親しかった上原洋允君(元関西大学理事長)と逢坂貞夫君(元大阪高検検事長)は5級程度であったから、専ら「ハメ手」の実験台のようにして、ハマッた相手が悔しがるのを見て喜んでいたことを思い出す。そのタネ本は、当時最強と評されていた坂田栄男9段の「おそるべきハメ手」という新書版で、久しぶりに本棚から探し出し50数年振りに目を通したところ、今尚有効に活用できる解説書であることを発見し、碁の奥深さを思い知らされた次第である。
なお、上記の2人も今や「免状5段」の腕前で、今でもその頃の話が酒の肴となっている。現在、逢坂君とは同君の主宰する定例の碁会で、吉田美香8段指導のもと、時折向こう2子の手合いでの対局を楽しんでいる(続)
私と囲碁 | 2014年7月7日
司法研修所の2年間、当初はまだ将棋に未練があり、寮大会では優勝したこともあったが、大阪での現地修習に入ってからは、専ら囲碁の道を歩むこととなる。
当時、司法修習は、東京の司法研修所での前期4ヶ月、全国各地に分散しての民事裁判・刑事裁判・検察・弁護各4ヶ月の実務修習を経て、最後の4ヶ月を研修所での統一修習のあと、二回試験で法曹資格が得られる仕組みとなっていた。
この2年間がそれぞれの進路の基礎を固める貴重な訓練の機会で、勉強する課題も多かったが、当時は研修所や裁判所にも自由闊達な雰囲気があったこともあり、それぞれが理想を語り青春を謳歌することができた。生涯を通じての友人・知己を得る機会でもあり、教養や趣味を深め楽しむ余裕もあった。(続)
私と囲碁 | 2014年7月1日
大学に入ってからは、人並みの勉強や読書、研究会や自治会活動などに追われ、たまに寮や下宿で将棋を楽しむ程度であったが、卒業時分にはなんとか初段程度の力はつけていた。
大学4年の夏には、司法試験があり、その年は年初から下宿と大学図書館の往復生活が続いた。その頃、何気なく読んだ朝日新聞の囲碁観戦記が面白く、毎日楽しみにしていたことを思い出す。
昭和33年の頃だったから、呉清源、木谷実、橋本宇太郎、藤沢朋斎、高川格、坂田栄男など往年の強豪などの棋譜であったと思われるが、記憶には定かでない。しかし、そのお蔭でなんとはなく囲碁に親しみを持つようになったことは確かである。だが、実際に碁盤を前に碁石を握る暇もなく、ひたすら試験勉強に没頭するほかはなかった。
やがて10月、幸い合格の列に滑り込むことができ、卒業まで開放気分の数ヶ月に恵まれた。共に図書館通いを続け合格した友人N君が囲碁を知っていると聞き、学生会館で教えを請うこととなった。当時の棋力はまだ入門の域を出なかったが、大学卒業当時はなんとか15級程度にはなっていた。(続) ※写真は大学1年駒場寮(前列右が筆者)
私と囲碁 | 2014年6月23日
高校1年の頃、田舎の3年上の先輩が東大に合格し、帰路我が家に泊まった際、同氏から瀬越憲作先生の「囲碁入門」の基本書をもらい、ようやく囲碁のルールを学ぶことができたのだが、実戦にまで至らぬまま大学に入った。将棋にはずっと高校の好敵手がいたため、大分熱中していたし研究も怠らなかった。
高校(旧制中学)の大先輩高川格さんが本因坊位を奪取したのが2年生の頃で、先生からその話を聞いたがそれほど関心もなく、また何人か碁を打つ同級生もいたようだったが、彼らとの交遊がなかったのは残念なことであった。後日、何十年を経て、現在は囲碁仲間として定例の碁会を楽しんでいるが。(続)
※写真は高校3年生当時(前列左2番目が筆者)
私と囲碁 | 2014年6月12日
徳島では、田舎町の街角の餅屋のおやじさんの店の一角で、夕刻になると近所の人たちが縁台将棋を楽しむのをよく見学したことから、将棋には親しむことができたが、囲碁とは縁がなかった。
大阪に移り、父の建てた工場の母屋で暮らしていると、家に碁盤が置いてあるのを見つけた。そして、住み込みの工員さん2、3人が夜になると烏鷺(黒白)を戦わせていた。これが碁とのかかわりの第一歩であった。どうやら父が戦後上海で2年ほど行動制限をされていた間の暇時に、知人から碁の手ほどきを受けたらしい。父もたまに工員さんの相手をしていた。
当時、ルールもろくに知らない私が少しは碁を知っていると称していた近所の同級生と見よう見真似で一局打ってみたが、盤上石なしの散々な目に会い、何回打っても同様だったので、なにやら悔しく、もうやめたということになり、高校1年まで石を握ることがなかった。今になって悔やまれるところだ。(続)