私と囲碁 | 2015年1月25日
「坂田栄男全集」は昭和59年に日本棋院から発行された全12巻1464局収録の大作である。高川秀格全集の棋譜並べが、開始後2年ほどして軌道に乗りかけた頃これが発刊されたので、早速入手して昭和59年11月から高川全集と並行して並べ始めた。
坂田9段は、私がまだ囲碁に入門したばかりの司法修習生の頃、初めて買った「おそるべきハメ手」という解説書で「定石」ハズシを勉強した縁があり、また9連覇中の高川本因坊から昭和36年に本因坊を奪取して以来7連覇したほか、昭和30年代から40年代にかけて向かう敵なしという実績を残し、呉清源と並んで「昭和最強の棋士」のひとりと称されていた。弁護士になった当初、昭和38年に発行された「坂田の碁」6巻を読み、「カミソリ坂田」の異名の片鱗を垣間見させてもらってはいたが、棋譜を並べたことはなかったので、改めて妙手・鬼手の切れ味の鋭さ、シノギの鮮やかさを鑑賞したいと思ったのである。
こうして昭和59年11月から平成4年11月まで約8年をかけて「坂田栄男全集」を並べ終えることができたのだった。この間昭和62年12月から平成3年にかけて「呉清源全集」や「本因坊道策全集」が発刊されたが、これは今にして思えば日本囲碁界の隆盛期を象徴するものであったろう。
坂田全集を並べ始めてある程度の期間が経過すると、やはりその影響か、私の棋風も地合い先行・シノギ型を目指すように変わって行ったように思われる。とは言っても、実戦では所詮素人の物真似の域を出るものではないので、棋風と称するものとは縁遠いものだったが、意識的に手筋を手探りする習慣が多少はついてきたようだった。しかし、このような猿真似ではどうしても碁が薄くなり、上手にはなかなか通用しない。そこで、次に挑戦したのが折りよく出版された「呉清源全集」であった。(続)
私と囲碁 | 2015年1月11日
囲碁の上達には、一に詰め碁、二に棋譜並べそれに実戦の経験が欠かせないと言われる。この三つの実践によりヨミの力や大局観が養われるのだが、詰め碁の勉強はあまり難しくない問題に取り組むのがよいとされるようだ。私の場合もやはり難解な詰め碁に本格的に取り組むのが苦手で、囲碁雑誌の付録の問題集などを通勤の車中でヨムのが通常であった。20年程前頃には時折出勤電車でお逢いする石井新蔵9段から「よく勉強されていますね」と声をかけられたものだったが、何時の日か専ら文庫本の小説に変わってしまった。
もうひとつの勉強方法である棋譜並べの方は、昭和57年以来、高川秀格全集を手始めに多くの全集に取り組んできた。同全集は日本棋院から昭和54年に発刊されたとき橋本誼9段の推薦で入手したのだったが、当時仕事が忙しく書庫で眠っていた。その後「囲碁大辞典」の日課が軌道に乗り出した時分の昭和57年になり、ひとつ本格的に棋譜並べに取り組んでみようかと思い立ち、ベッドの脇に碁盤と全集を置いて、目覚めのときと就寝前のいずれかに1日1局を並べることにした。いわゆる「枕上の教え」である。本因坊9連覇の偉業を成し遂げられた高川先生は、私の高校(旧制高津中学)の大先輩で親近感があるだけでなく、その棋風が穏やかな中に確かな大局観を秘めているとの評価なので、下手なアマチュアにも入りやすく参考になると思ったからである。
全集は8巻、大正13年から昭和44年までの1118局が収録されている。これを毎日盤上に駆け足で1回並べるだけで、深く検討することもないのだから、どの程度身に付くかはお構いなしの「作業」であったが、昭和57年9月から63年2月までで無事完了した。そして、この間昭和59年11月から、並行して「坂田栄男全集」への挑戦に移ったのだが、棋譜並べがある程度積み重なると、不思議なことに自分が手本としている棋士の碁風にいつしかなじみ、その影響を受けていると感じることがある。要するに、単なる猿真似ではあるものの、いずれの日にかそれが量的変化から質的変化に転ずる日もあろうかと期待してきたものであった。(続)
私と囲碁 | 2014年12月31日
しかし、なんと言っても20回大会以降現在(37回)に至るこの大会の主役は、岡本岳君(47期)である。同君は弁護士登録当時この大会のBクラスから出発し、平成12、13年に連覇してA級に移った。当初私に2子を置いていたのに、その後の進歩著しく、破竹の勢いで翌年から一気に2連覇、さらに5年後の31回から33回までの間に3連覇。そして平成25年に続き本年の第37回にも連覇して、7回目の優勝を記録した。私もこの間、同君と優勝戦で対局し同君の「手助け」をしたこともあり、私の8回の記録はまさに今破られる寸前にある。新鋭の台頭は喜ばしいかぎりであり、記録は破られるために存在するものだから、その日の到来も「以って瞑すべしと」いうことなのだろう。
ただ、岡本君も今や中堅の部類に入るし、切磋琢磨する若手の好敵手の存在が大会の興趣を高めるうえで不可欠なのに、これに続く新鋭の参入がないのは残念である。しかし、ここに田中清和さん(20期)というベテランがこの数年来突然復活し、近年の大会を盛り上げてくれた。平成23、4年の34、35回大会に連覇し、今年の37回大会で岡本君と初の対局で優勝を争ったのである。だが田中さん、この好機に気合が入りすぎたか、本来の攻めの鋭さが 見られず、残念ながら敗北を喫してしまったが、ベテラン健在の意気を見せてくれたのは心強いことであった。私もこのところ「観戦記者」を続けているが、これに安んぜず再度の復活を目指したいものである。※写真は「月刊大阪弁護士会」誌上の岡本君優勝の弁(続)
私と囲碁 | 2014年12月25日
昭和57年の第5回大会からから平成9年の第20回大会にかけての16年間は、修習13期の私と同22期の上田耕三、中森宏さんとがほぼ毎回のように優勝を分け合い、畑良武(15期)、西垣剛(21期)さんらもこの中に参入していたことは前回述べた。しかし、平成10年代に入り、21回大会の頃から、新たな勢力が台頭し時代の移り変わりを示すようになった。ただこの間、惜しまれるのは、棋力充実の最中に平成12年に60歳の若さで故人となった中森さんの死去であり、その無二の碁敵であった上田さんの大会不参加であった。伸び盛りの西垣昭利さん(28期)が裁判官に任官したのも弁護士碁界にとって痛かったことである。
新勢力台頭の第1号は21回大会の優勝者原田次郎さん(37期)であり、24回大会の竹内隆夫さん(29期)、それに弁護士碁界最若手の岡本岳さん(47期)である。
京大囲碁部で腕を磨いたという原田君は、それまでも準優勝や3位に入賞したことがあったが、平成10年21回大会での初優勝のあと、同16年(27回)から大会初の3連覇を果たした。竹内さんもその後準優勝3回の実績を残している 。原田君の3連覇途上の28回大会の優勝戦は、私の終盤でのまさかのポカによる大逆転が貢献したのだが、翌々年の4連覇を目指した30回大会の優勝戦では、原田君が私に8度目の優勝を進呈してくれたのだった。なおこの間、73歳の高齢で優勝された元裁判官の今富滋さんの活躍(第22回優勝、第23回 準優勝)も忘れがたい。※写真は「月刊大阪弁護士会」誌上での原田君3連覇の弁である。(続)
私と囲碁 | 2014年12月14日
さて、第5回大会から第20回大会までの16年間、優勝・準優勝の椅子は、私も含め殆どが前述のメンバーで占められていた。西垣剛、上田耕三、中森宏の「三羽烏」はこの間16回のうち、それぞれ1回、5回、3回、畑良武さんも2回の優勝を重ねている。
そして、私はといえば、第3回大会から5年の雌伏の時を経て、ようやく昭和61年の第9回大会で2回目、以後平成8年の第19回までの10年間に5回(計7回目)の優勝を果たすことができたのである。決勝で敗れての準優勝も20回大会までに5回を数えた。この間の相手となったのは、先の「三羽烏」のほか正森成二、田中清和、原田次郎さんらであった。丁度その頃、私は50歳代の打ち盛りの時期であった。何事もそうであるが、囲碁の勝敗を決するのは、体力・気力・知力の総合力であるが、それだけでなく運という要素も欠かせないものである。幸いこの時期私には運もついていたのであったろう。※写真は優勝盾
第16回大会からは、優勝者に「大阪弁護士会本因坊」の称号が与えられることになったが、運よく初代・2代・4代目の本因坊となることができた。しかし、その後がいけない。ようやく8回目の優勝を飾ることができたのは、その後11年を経た平成19年度の第30回大会のことであった。(続)
私と囲碁 | 2014年12月7日
先に紹介した第4回大会のあと、昭和57年から平成9年の第20回大会のまでの16年間は、私の40歳代後期から60歳代初期に至る時期であった。本業の仕事は忙しく、また弁護士会での仕事も責任の重さを背負わされる年代であった。いわば働き盛りの時節であったが、不思議なことに、囲碁の方も多忙さが却って後押しするように好調を持続し、棋力も充実した時期であったように思う。この時期、「囲碁大辞典」への挑戦に加え、のちに紹介する予定の「高川秀格全集5巻」などの棋譜並べを始めていたのも好調の大きな原因であったのかもしれない。
さて、大阪弁護士会囲碁大会のその後の模様であるが、第4回大会以後私より何年か後輩の西垣剛、上田耕三、中森宏さんらの台頭著しく、先輩の正森成二、島田信治さん、同輩の畑良武さんらに対抗して覇を競ういわゆる戦国の群雄割拠の様相を呈することとなった。また、優勝には至らないが決勝戦に進出する新顔も現れ、次の時代を予感させる動きが始まったのである。原田次郎、西垣昭利、田中清和さんらである。
旧大阪弁護士会館の娯楽室には、囲碁ABC級・将棋ABの歴代優勝者の名を刻んだネームプレート額が飾られ、多くの愛好者が集まり烏鷺を戦わせていた。写真は、平成18年7月の旧会館閉館・改築前の娯楽室の風景を記録に留めたものである。(続)
私と囲碁 | 2014年11月30日
「爛柯」では、年1回の倶楽部選手権と月例碁会が行われていた。月例の碁会にはよく参加していたが、オール互先の倶楽部選手権戦にはとても私など出る幕はないと思っていた。しかし負けて元々の思いでエントリーしたところ、昭和58年の第1回は準決勝戦まで残り、府代表クラスの松尾鐘一さんに敗れた。また第2回は前年の覇者和田安禮さんと田口哲郎さんという全国クラスの強者同士の決勝戦で田口さんが優勝した。そして私は2回戦でこの田口さんに当たり、なすところなく敗れたと記憶している。
しかし、昭和60年の第3回大会には、前の優勝者は不参加で、運よく決勝戦に残ることができ、羽田囘6段との対決となった。初の手合いであったため無心で臨んだところ、結果が幸いし、思いがけない優勝を飾ることができた。当時の月報を探し出し、棋譜と長崎4段の講評を改めて拝見し、小生なかなか落ち着いた対応をしていたなと思わずニヤリとしたものである。なお、その後も何回か参加し準優勝2回となったが、何回目だったかの大会で先に勝利を譲ってもらった羽田さんに当たり、そのときは見事リベンジされ、羽田さんが優勝した。因みに、その羽田さんとは、20数年の時を経て、1昨年、昨年に開催した「医師・弁護士対抗親善碁会」で対局し、打ち分けに終わったのも奇しき縁である。
この優勝がきっかけで、まわりの仲間から声が出て、翌年、石井邦生9段の推薦により、私の50歳の誕生日の日付で日本棋院から6段の免状をいただくこととなった。
その後、私は平成11年8月に胃がん手術による体調不良で夜の対局を控えることにしたため、数年後に「爛柯」を退会したが、現在も月1回の弁護士の研究会でお世話になっている。(続)