弁碁士の呟き

私と囲碁(24) 弁護士会囲碁大会その後②-打ち盛りの時期

| 2014年12月14日

さて、第5回大会から第20回大会までの16年間、優勝・準優勝の椅子は、私も含め殆どが前述のメンバーで占められていた。西垣剛、上田耕三、中森宏の「三羽烏」はこの間16回のうち、それぞれ1回、5回、3回、畑良武さんも2回の優勝を重ねている。

new_20141209_171848そして、私はといえば、第3回大会から5年の雌伏の時を経て、ようやく昭和61年の第9回大会で2回目、以後平成8年の第19回までの10年間に5回(計7回目)の優勝を果たすことができたのである。決勝で敗れての準優勝も20回大会までに5回を数えた。この間の相手となったのは、先の「三羽烏」のほか正森成二、田中清和、原田次郎さんらであった。丁度その頃、私は50歳代の打ち盛りの時期であった。何事もそうであるが、囲碁の勝敗を決するのは、体力・気力・知力の総合力であるが、それだけでなく運という要素も欠かせないものである。幸いこの時期私には運もついていたのであったろう。※写真は優勝盾

第16回大会からは、優勝者に「大阪弁護士会本因坊」の称号が与えられることになったが、運よく初代・2代・4代目の本因坊となることができた。しかし、その後がいけない。ようやく8回目の優勝を飾ることができたのは、その後11年を経た平成19年度の第30回大会のことであった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(23) 弁護士会囲碁大会その後①ー群雄割拠の時代

| 2014年12月7日

先に紹介した第4回大会のあと、昭和57年から平成9年の第20回大会のまでの16年間は、私の40歳代後期から60歳代初期に至る時期であった。本業の仕事は忙しく、また弁護士会での仕事も責任の重さを背負わされる年代であった。いわば働き盛りの時節であったが、不思議なことに、囲碁の方も多忙さが却って後押しするように好調を持続し、棋力も充実した時期であったように思う。この時期、「囲碁大辞典」への挑戦に加え、のちに紹介する予定の「高川秀格全集5巻」などの棋譜並べを始めていたのも好調の大きな原因であったのかもしれない。

さて、大阪弁護士会囲碁大会のその後の模様であるが、第4回大会以後私より何年か後輩の西垣剛、上田耕三、中森宏さんらの台頭著しく、先輩の正森成二、島田信治さん、同輩の畑良武さんらに対抗して覇を競ういわゆる戦国の群雄割拠の様相を呈することとなった。また、優勝には至らないが決勝戦に進出する新顔も現れ、次の時代を予感させる動きが始まったのである。原田次郎、西垣昭利、田中清和さんらである。

旧大阪弁護士会館の娯楽室には、囲碁ABC級・将棋ABの歴代優勝者の名を刻んだネームプレート額が飾られ、多くの愛好者が集まり烏鷺を戦わせていた。写真は、平成18年7月の旧会館閉館・改築前の娯楽室の風景を記録に留めたものである。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(22) 「爛柯」囲碁倶楽部②ー倶楽部選手権戦

| 2014年11月30日

「爛柯」では、年1回の倶楽部選手権と月例碁会が行われていた。月例の碁会にはよく参加していたが、オール互先の倶楽部選手権戦にはとても私など出る幕はないと思っていた。しかし負けて元々の思いでエントリーしたところ、昭和58年の第1回は準決勝戦まで残り、府代表クラスの松尾鐘一さんに敗れた。また第2回は前年の覇者和田安禮さんと田口哲郎さんという全国クラスの強者同士の決勝戦で田口さんが優勝した。そして私は2回戦でこの田口さんに当たり、なすところなく敗れたと記憶している。

しかし、昭和60年の第3回大会には、前の優勝者は不参加で、運よく決勝戦に残ることができ、羽田囘6段との対決となった。初の手合いであったため無心で臨んだところ、結果が幸いし、思いがけない優勝を飾ることができた。当時の月報を探し出し、棋譜と長崎4段の講評を改めて拝見し、小生なかなか落ち着いた対応をしていたなと思わずニヤリとしたものである。なお、その後も何回か参加し準優勝2回となったが、何回目だったかの大会で先に勝利を譲ってもらった羽田さんに当たり、そのときは見事リベンジされ、羽田さんが優勝した。因みに、その羽田さんとは、20数年の時を経て、1昨年、昨年に開催した「医師・弁護士対抗親善碁会」で対局し、打ち分けに終わったのも奇しき縁である。

この優勝がきっかけで、まわりの仲間から声が出て、翌年、石井邦生9段の推薦により、私の50歳の誕生日の日付で日本棋院から6段の免状をいただくこととなった。

その後、私は平成11年8月に胃がん手術による体調不良で夜の対局を控えることにしたため、数年後に「爛柯」を退会したが、現在も月1回の弁護士の研究会でお世話になっている。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(21) 「爛柯」囲碁倶楽部①ーさまざまな出会い

| 2014年11月19日

昭和56年だったか、高校時代の友人で精神科医師の南諭君の紹介で、前年に開設された大阪駅前第3ビルの「爛柯」囲碁倶楽部に入会した。その創設者は長崎祐二5段(当時3段)の岳父で、豪華な内装のゆったりした対局室にグランドピアノが置かれ、イージーリスニングの音調が勝負に疲れた頭や神経を癒してくれる碁打ちにとって申し分のない環境であった。また、そこに集う人たちも、医師、会社関係者、府代表クラスの打ち手など多彩な顔ぶれで、夕刻以降は相手に不足することはなかった。仲間の弁護士からも、その後好敵手となる原田次郎、竹内隆夫君らがしばらくして入会した。

倶楽部の運営や会報発行を担当するのは長崎5段(当時3段)。きめ細かい企画と指導は会員に好評で、いつも広い会場は満員で熱気をはらんでいた。指導陣には橋本昌二、石井邦生9段という関西のトップ棋士を始め精鋭を揃えていた。ここで私は、週2回は仕事を終えた夕刻にそそくさと駆けつけ、誰彼となく対局するのを楽しみとした。常任のスタッフだった永井光太5段や浜守義久5段(追手門小学校校長)、谷武宗6段(会社経営者)、山下明夫5段(同)、仙石浩之6段(音大ピアノ科教授)などの常連とはよく顔を合わせたものだった。当時私は倶楽部では6段格で打っていた。

たまには橋本昌二、石井邦生先生に指導碁をお願いする機会にも恵まれた。そしてなにより有難かったのは、オーナーに協力して「爛柯」開設に尽力された神田公三7段(医師)の肝煎りで月1回土曜日に関西棋院の石井新蔵、本田邦久9段というトップ棋士の交替での指導碁会であった。神田公三、渡部太郎、片瀬清英、厚谷悌二、羽田囘、野本氏らの医師会の錚々たる打ち手がメンバーで、2子ないし3子での指導碁は、傍で観戦するだけで強くなった思いをしたものである。私も3子で指導を受け、多くの棋譜を残している。これらのメンバーの多くが今や故人となってしまい残念な思いひとしおである。(続)

 

赤沢敬之

私と囲碁(20) 「最新囲碁大辞典」への挑戦 – 三上の教え②

| 2014年11月9日

こうして始めた新たな挑戦だったが、朝の慌ただしい時間のことだからとても頭に刻み込むことなどできないことは承知の上。量を重ねるうちになんらかの棋理が頭の片隅に残れば良いとの漠然たる期待に基づく一種の「道楽」であった。そして、昭和53年8月から59年3月までの約5年半を掛けて、ほぼ予定どおり全3巻を読み終えることができた。碁盤に並べてゆくりと反復練習をすることもないので、殆どは記憶に残ることのない一過性の知識で、どの程度の効果があったかは分からないが、碁の形や筋の理解になにがしかの寄与があったかと思われる。

この習慣が身についたことに味を占め、その後も更に日本棋院発行の「定石大辞典(上下)」計2200頁、「手筋大辞典」1100頁、「布石大辞典」1100頁にも継続して挑戦し、平成22年2月にようやく一段落した。これほど「研鑽」したのに、棋力はさほど上がっていないのではと自問自答するのではあるが、これぞ「碁の楽しみ方」の最たるものであったと自己満足している次第である。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(19) 「最新囲碁大辞典」への挑戦 – 三上の教え①

| 2014年11月2日

弁護士会大会のその後の模様は追々紹介することとし、昭和50年代から60年代にかけての私の囲碁遍歴を辿ってみたい。

20141103_182200-e1415007151460この時期、私は40歳台から50歳台前期に当たるが、今から思えば一番碁の勉強をした時期であった。それまでも、「棋道」「囲碁新潮」などの囲碁雑誌や「坂田の碁」(全5巻)、藤沢秀行囲碁講座(全5巻)などの解説書で勉強をしてきたが、昭和53年8月に一念発起、正森成二さんが手元に置いて勉強していたという鈴木為次郎名誉9段の畢生の大作「囲碁大辞典」に改訂増補を加えた「最新囲碁大辞典」が昭和52年に発刊されたのを機会に、これに挑戦することにした。なにしろ全3巻で2000頁を越え、2万図強の定石や変化図が網羅される辞典である。とても一朝一夕で読みきれるものではない。

そこで一計を案じ、1日1頁を日課とする長期戦の構えで臨むこととした。北宋の学者・欧陽脩の「三上の教え」である「馬上、枕上、厠上(しじょう)」のひそみに習い、トイレにこの大冊を置いて、赤青鉛筆で印をつけながら読むのである。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(18) 2日がかりの長考対局 – 第4回弁護士会大会

| 2014年10月26日

昭和56年の大阪弁護士会第4回大会は、決勝リーグで三宅一夫6段、元裁判官の坂速雄6段という超ベテランと新進の西垣剛5段が好成績を収め、優勝戦は三宅、西垣の新旧対決となった。私は三宅先生に返り討ちに会い、また所用で決勝戦を観戦できなかったが、立会人兼記録係りを務めた事務所の山本治雄先生の話と三瀬顕4段の「観戦記」で当日の模様を知ることができた。これがまたアマの碁として未曾有の対局であったので、紹介しておきたい。

対局は3月24日午後2時過ぎに西垣さんの黒番で始まったが、両者序盤から長考を重ねる。そのせいか「数人の観戦者の雑談の花が賑々しい。山本先生が突然に威厳ある一喝パンチ、『対局者が喋るのはかまわんが、周囲がうるさすぎる!』確かにこれぞ碁の作法、誰が一番こたえたか」と観戦記。碁は双方の苦心の攻防が続き、開始後4時間を経てなお100手位の進行で「持久戦、体力戦に入った。両雄とも気合いが入り、沈黙が続く」150手目にコウ争いが始まった頃には、会館の閉館時間が迫り、夜9時過ぎに白160手を封じ手として打ち掛けとなったという。

翌日正午前に事務所で山本先生から、「二人とも長考を重ねるので、ワシは明日は立会を畑君に譲ることにした」と前日の模様を聞かされ、何よりも喜寿を超えた三宅先生の体力、持久力に敬服したことを思い出す。そして、1日おいた3月26日正午より打ち継がれた対局は、午後5時にようやく終局に至り、黒番の西垣5段が初優勝を飾った。2日がかりで延べ12時間になんなんとするプロ顔負けのこの長時間対局について、三瀬観戦子は「味わい深い闘いであった。大阪弁護士会の碁界はいよいよ意気軒昂、桜満開の様相で頼もしい」と観戦記を締めくくっている。西垣さん若さの勝利であった。

なお、後日談だが、しばらくして西垣さんに会ったとき、優勝を祝するとともに、「弁護士碁界のために手合時計を寄付したら」と冗談交じりに話したところ、やがて2台の手合時計が弁護士会に届けられ、今も時折活用させてもらっている。(続)

赤沢敬之

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