私と囲碁 | 2015年4月5日
平成2年(1990)から同4年(1992)にかけて、私は日弁連司法問題対策委員長や司法シンポジウム運営委員長の仕事で多忙を極め、大阪・東京の往来が重なり、囲碁に集中する時間が制約されていた。「爛柯」の月例会での対局や新幹線車中での囲碁雑誌の閲読がせいぜいであった。4月には司法シンポの準備のためドイツの民事裁判の実情調査団の団長として現地訪問の予定が組まれていた。
このような時期に思わぬ話が舞い込んできた。当時囲碁ファンに好評を博していた「週刊ポスト」の「囲碁天狗サロン」への出場の話である。各界の腕自慢が小川誠子6段や小林千寿6段らの女流棋士に置碁の挑戦をする企画で、江崎誠致さんや白川正芳さんらの作家や確か東京の弁護士も登場していたように思う。どういう成り行きで私が出ることになったのか記憶にないが、あるいは「爛柯」のどなたかの推薦だったのかも知れない。自信はないものの折角のよい機会に「好機逸すべからず」の思いで、応じさせていただくこととなった。
平成4年(1992)3月11日午後、会場の「爛柯」に赴き、観戦記者の川熊博行氏から私の囲碁歴などの取材を受けたあと、和室に移り、関西棋院のマドンナ滝口磯子6段との3子局が始まった。滝口さんとは初対面であったが、お父上の芦田礼三先生(医師)とは「爛柯」の例会で何回かお手合わせの機会があり、偶然にもその3日前に対局したばかりであった。
さて、対局は、白1の小目に黒2の一間高ガカリ、白3ケイマ受け、黒4・6のツケヒキから始まった。次は白コスミの守りなら普通の定石だが、予期に反し白7ハサミの変化球が投じられたことから、私の目論見が外され少々戸惑ってしまった。以後辛うじて置石のリードを保って中盤に至ったが、右辺の折衝で仕損じがあり、白の中央が大きな地模様になり少々慌ててしまった。(続)*写真は「週刊ポスト」1992年4月1日号
私と囲碁 | 2015年3月29日
さて対局は、オール互先で持ち時間は1手30秒の時間切れ負け、というアマにとってはトンでもなく厳しいルールであった。もちろんそんな対局を経験したこともない私にとっては、せめて100手までツブされずに打てれば上々と覚悟していた。
やがて抽選の結果、対戦相手が決まったが、なんとそれが早見え早打ちの天才少年15歳の結城聡4段であった。しかも悪いことに私の白番である。
エライことになったと思ったが、とにもかくにも慎重にと心構え対局を開始した。しかし、最初からの秒読みが打つ手を急がせ考える暇もない。しかも相手は直ちに応手を返す。
なんとか序盤を大怪我もなく乗り切ったものの、50手から80手位の中盤戦の大石の攻防戦になると、局面の不利に加え、秒読みに追われる焦りが嵩じ、やがて100手に達する頃には、玉砕への道をまっしぐらに歩むこととなったのも当然の結果であり、むしろ清々しい気分でさえあったことを思い出す。
この対局のあと、トーナメント戦がどのように展開されたのか、優勝者は誰だったのか今は全く記憶の底から消え去っている。ただ当日の棋譜は、帰宅後思い出して確か87手まで記録したのだが、一昨年の事務所の移転に紛れ見当たらなくなっている。その代わりに移転の整理の際、「天満倶楽部」の同年5月の会報を発見し、この記事の参考とすることができたのは幸いであった。また、この会報の出場選手名簿に、私は「6段大阪弁護士会チャンンピオン」と紹介されていたことを知った。
なお、NHK杯囲碁トーナメントで6年間に5回優勝の「早碁の神様」結城9段との再会は、その後22年を経た平成23年のことであった。(続)
私と囲碁 | 2015年3月19日
1987(昭和62)年春のことだった。たしか弁護士会の役員からだったかと思うが、藤沢秀行名誉棋聖がアマチュア向けに門戸を開き「秀行塾」と銘打って囲碁指導を始めるに当たり、大阪で開講記念のイベントとして「プロアマオープン早碁トーナメント」を開催するので、私に出場して欲しいとの話があった。
青天の霹靂のようなものだったが、恐らく主催者からの推薦依頼によるものだったのであろう。丁度この前年度の大阪弁護士会第9回囲碁大会で私が2回目の優勝をしたところだったので白羽の矢が立ったものと思われる。
また、その前年の満50歳の誕生日に石井邦生先生の推薦で日本棋院から6段の免状を頂いたばかりだったので、貴重な経験になると思い、おこがましくもこの話に乗ることとしたのであった。資料はもらっていなかったので、果たしてどのような顔ぶれが集まるのか見当もつかず、成り行きまかせの無謀なチャレンジだった。
同年5月10日(日)午後、森野節男9段主宰の「天満倶楽部」に赴き、内容記載の会報をもらったところ、双方8名づつでプロ側は14歳から20歳までの若手棋士、アマ側は田口哲朗元アマ本因坊はじめ各界の強手揃いであった。
会場設営の碁盤並べなどは若手棋士が担当していたが、中に甲斐甲斐しく立ち働いていた美少女の姿が印象的であった。この乙女がその後女流本因坊4連覇を果たし、今私が逢坂貞夫元大阪高検検事長主宰の「行友会」で時々教えを請う吉田美香8段の16歳初段の頃の姿であった。(続)
私と囲碁 | 2015年3月8日
さて、私の「全集並べ」もようやく「本因坊秀策全集」に辿り着くこととなった。平成9年12月頃、たまたま元関西大学囲碁部に所属していたという私の依頼者から平成7年発行の「完本 本因坊秀策全集5巻」を頂いたので、翌10年12月から事務所に置いて折りを見て並べることにした。忙しい仕事の合間なので毎日1局とは無理で、ボチボチ碁盤に並べるうちに、アッという間に15年の月日が経ってしまい、ようやく平成25年3月に437局が完了した。この棋譜は碁盤に並べたあとその都度パソコンに入力していたので、今も必要に応じ再現して見ることができるのは便利である。
それまでにも秀策の碁は、井上幻庵因碩との「耳赤の一局」など有名棋譜は解説書で接してはいたが、全局を並べてみて、元禄の道策と並び称されている幕末の棋聖秀策の碁風の特徴がなんとなく理解できたような気がする。絢爛華麗な道策とは対照的に、秀策の碁は堅実にして明快、平明さの中に強さが隠されている。現代においても参考になると評されているが、確かにアマチュアの勉強にはもってこいの棋譜揃いである。お城碁19連勝無敗の実績を残しながら同門のコレラ患者の看病の中で自らも罹患し34歳の若さで亡くなった惜しまれる人格の人であった。
「全集」並べはこれをもって終わり、以後は専ら新聞や囲碁雑誌の最新棋譜に移ることとなるのだが、棋譜の数たるやあまりにも多く、とても追いきれるものでないので、棋聖戦、名人戦、本因坊戦とNHK杯に絞って並べることにしているが、新聞切抜きが増える一方である。(続)
私と囲碁 | 2015年2月25日
その後平成6年秋以降、「藤沢秀行全集」12巻が順次日本棋院から発行された。この頃は「呉清源全集」もほぼ終わりに近づいたので、今度はこの全集に挑戦することとした。厚み重視の「豪放華麗な棋風」、「異常感覚」、「最後の無頼派の勝負師」とうたわれた半面、早くから度々訪中して中国の若手を鍛え、また「秀行塾」で多くの有望棋士を育成した棋聖6連覇の藤沢名誉棋聖の棋譜により、私に欠けていた「厚み」の感覚を少しでも吸収できればと願ったのだった。
秀行先生の碁は、高川本因坊や坂田本因坊との挑戦手合いなど多くの棋譜をそれぞれの「全集」で並べたが、今度は逆の立場から並べるのも面白いと考え、平成6年12月から19年5月まで13年をかけてこの「マラソン」を終えた。多くの棋譜の中で印象深く勉強になったのは、棋聖6連覇中の棋譜であり、中でも加藤正夫9段との激闘譜はまさに死闘ともいうべき名局であった。私の棋風もこの間、厚み重視の「中央の碁」に変化しつつあったように思われる。
なお、余談であるが、昭和42年出生の私の長男の命名のとき、「秀之」と「秀行」のどちらにするか迷ったが、結局後者を選んだのは「秀行先生」の影響が多分にあったのかと今にして回想する。しかし、長男はいまだ囲碁は初級者の域を出ず、親父を嘆かせている昨今である。(続)
私と囲碁 | 2015年2月18日
この間、平成3年に「本因坊道策全集」4巻(153局)が日本棋院から発行されたので、欲張りにもこれに挑戦することになった。平成3年12月から約半年間は、他の2つの全集はお休みにして、古今最強と言われる本因坊道策の実戦譜に触れてみた。安井算哲の天元の1局や「生涯の一局」と自ら語ったという安井算知との1683(元和3)年の2子局(2目負け)など興味津々であった。
道策は江戸時代前期の寛文・元禄の頃、向かうところ敵なしの天才ぶりを発揮した四世本因坊で名人碁所である。お城碁は14勝2敗だったが、この2敗はいずれも二子局1目負けであった。その棋風は全局の調和を重視した「近代囲碁の祖」と評価されている。その真髄の一端は呉清源の「調和の精神」に引き継がれているし、現代でも有力布石として定着している「ミニ中国流」の開祖として今なお命脈を保っている。繰り返し並べたものでなく、上面を撫でただけだったから、思いもよらぬ発想やシノギのサバキ筋などに感嘆するばかりであった。しかし、高手の芸に触れただけでもなにがしかの成果は得ることがあったかと思う。
因みに、道策は、直木賞作家江崎誠致氏の小説「名人碁所」に準主役として登場し、師匠の本因坊道悦と安井算知との碁所争いに重要な役割を果たし、また冲方汀氏の「天地明察」では安井算哲(渋川春海)を暦学・天文学の道に専心させる一因を担ったことなどが興味深く描かれている。後者の映画化の際は久しぶりに劇場に飛んで行ったものである。(続)
私と囲碁 | 2015年2月8日
本因坊道策、秀策と並んで古今の3棋聖と称される呉清源先生が平成26年11月30日に100歳の天寿を全うされた。生涯にわたり囲碁の真理を追求され、昭和3年に14歳で来日されて以来、度重なる苦難を克服して囲碁史に残る貴重な貢献をされた偉大な求道者のご冥福を蔭ながらお祈りしている。
先生の令名や輝かしい足跡のおおよそは囲碁の道に入ってから承知はしていても、実際に棋譜に接したことはなかった私にとって、昭和62年12月に誠文堂新光社から「全集」が発刊されたのはまさに好機ともいうべきことだった。当時私は、「坂田栄男全集」の棋譜並べのほぼ半ばに至っていたが、時機逸すべからずとの思いで早速「呉全集」を注文し、無謀にもこの2つを並行して並べることとしたのである。
「呉清源全集」は15巻のうち11巻に昭和3年から同48年までの788局が収録されている。昭和63年1月1日から、先生来日のきっかけとなった橋本宇太郎4段との試験碁をはじめ、木谷實師と信州地獄谷で考案した「新布石」の実戦や戦前の打ち込み十番碁の数々など、その華麗な変幻自在の打ちまわしをただ感嘆しながら、平成8年11月まで約8年間をかけて鑑賞することができた。この「全集」並べが呉先生の謦咳に接するという思わぬ幸運を呼んでくれたのだが、それは後に触れることとしたい。
「全集」並べを終えたあと、平成9年に「21世紀の碁」10巻が発行された。「碁は調和である」と喝破された先生の布石を中心とした最新の到達点を網羅された大作である。事務所に置いて、暇を見ながら今度はパソコンに棋譜を入力し、解説の主要点を書き込んだ。平成15年に一通り終えることができ、大いに勉強になった。これは今も随時活用させてもらっている。(続)