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私と囲碁(21) 「爛柯」囲碁倶楽部①ーさまざまな出会い

| 2014年11月19日

昭和56年だったか、高校時代の友人で精神科医師の南諭君の紹介で、前年に開設された大阪駅前第3ビルの「爛柯」囲碁倶楽部に入会した。その創設者は長崎祐二5段(当時3段)の岳父で、豪華な内装のゆったりした対局室にグランドピアノが置かれ、イージーリスニングの音調が勝負に疲れた頭や神経を癒してくれる碁打ちにとって申し分のない環境であった。また、そこに集う人たちも、医師、会社関係者、府代表クラスの打ち手など多彩な顔ぶれで、夕刻以降は相手に不足することはなかった。仲間の弁護士からも、その後好敵手となる原田次郎、竹内隆夫君らがしばらくして入会した。

倶楽部の運営や会報発行を担当するのは長崎5段(当時3段)。きめ細かい企画と指導は会員に好評で、いつも広い会場は満員で熱気をはらんでいた。指導陣には橋本昌二、石井邦生9段という関西のトップ棋士を始め精鋭を揃えていた。ここで私は、週2回は仕事を終えた夕刻にそそくさと駆けつけ、誰彼となく対局するのを楽しみとした。常任のスタッフだった永井光太5段や浜守義久5段(追手門小学校校長)、谷武宗6段(会社経営者)、山下明夫5段(同)、仙石浩之6段(音大ピアノ科教授)などの常連とはよく顔を合わせたものだった。当時私は倶楽部では6段格で打っていた。

たまには橋本昌二、石井邦生先生に指導碁をお願いする機会にも恵まれた。そしてなにより有難かったのは、オーナーに協力して「爛柯」開設に尽力された神田公三7段(医師)の肝煎りで月1回土曜日に関西棋院の石井新蔵、本田邦久9段というトップ棋士の交替での指導碁会であった。神田公三、渡部太郎、片瀬清英、厚谷悌二、羽田囘、野本氏らの医師会の錚々たる打ち手がメンバーで、2子ないし3子での指導碁は、傍で観戦するだけで強くなった思いをしたものである。私も3子で指導を受け、多くの棋譜を残している。これらのメンバーの多くが今や故人となってしまい残念な思いひとしおである。(続)

 

赤沢敬之

私と囲碁(20) 「最新囲碁大辞典」への挑戦 – 三上の教え②

| 2014年11月9日

こうして始めた新たな挑戦だったが、朝の慌ただしい時間のことだからとても頭に刻み込むことなどできないことは承知の上。量を重ねるうちになんらかの棋理が頭の片隅に残れば良いとの漠然たる期待に基づく一種の「道楽」であった。そして、昭和53年8月から59年3月までの約5年半を掛けて、ほぼ予定どおり全3巻を読み終えることができた。碁盤に並べてゆくりと反復練習をすることもないので、殆どは記憶に残ることのない一過性の知識で、どの程度の効果があったかは分からないが、碁の形や筋の理解になにがしかの寄与があったかと思われる。

この習慣が身についたことに味を占め、その後も更に日本棋院発行の「定石大辞典(上下)」計2200頁、「手筋大辞典」1100頁、「布石大辞典」1100頁にも継続して挑戦し、平成22年2月にようやく一段落した。これほど「研鑽」したのに、棋力はさほど上がっていないのではと自問自答するのではあるが、これぞ「碁の楽しみ方」の最たるものであったと自己満足している次第である。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(19) 「最新囲碁大辞典」への挑戦 – 三上の教え①

| 2014年11月2日

弁護士会大会のその後の模様は追々紹介することとし、昭和50年代から60年代にかけての私の囲碁遍歴を辿ってみたい。

20141103_182200-e1415007151460この時期、私は40歳台から50歳台前期に当たるが、今から思えば一番碁の勉強をした時期であった。それまでも、「棋道」「囲碁新潮」などの囲碁雑誌や「坂田の碁」(全5巻)、藤沢秀行囲碁講座(全5巻)などの解説書で勉強をしてきたが、昭和53年8月に一念発起、正森成二さんが手元に置いて勉強していたという鈴木為次郎名誉9段の畢生の大作「囲碁大辞典」に改訂増補を加えた「最新囲碁大辞典」が昭和52年に発刊されたのを機会に、これに挑戦することにした。なにしろ全3巻で2000頁を越え、2万図強の定石や変化図が網羅される辞典である。とても一朝一夕で読みきれるものではない。

そこで一計を案じ、1日1頁を日課とする長期戦の構えで臨むこととした。北宋の学者・欧陽脩の「三上の教え」である「馬上、枕上、厠上(しじょう)」のひそみに習い、トイレにこの大冊を置いて、赤青鉛筆で印をつけながら読むのである。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(18) 2日がかりの長考対局 – 第4回弁護士会大会

| 2014年10月26日

昭和56年の大阪弁護士会第4回大会は、決勝リーグで三宅一夫6段、元裁判官の坂速雄6段という超ベテランと新進の西垣剛5段が好成績を収め、優勝戦は三宅、西垣の新旧対決となった。私は三宅先生に返り討ちに会い、また所用で決勝戦を観戦できなかったが、立会人兼記録係りを務めた事務所の山本治雄先生の話と三瀬顕4段の「観戦記」で当日の模様を知ることができた。これがまたアマの碁として未曾有の対局であったので、紹介しておきたい。

対局は3月24日午後2時過ぎに西垣さんの黒番で始まったが、両者序盤から長考を重ねる。そのせいか「数人の観戦者の雑談の花が賑々しい。山本先生が突然に威厳ある一喝パンチ、『対局者が喋るのはかまわんが、周囲がうるさすぎる!』確かにこれぞ碁の作法、誰が一番こたえたか」と観戦記。碁は双方の苦心の攻防が続き、開始後4時間を経てなお100手位の進行で「持久戦、体力戦に入った。両雄とも気合いが入り、沈黙が続く」150手目にコウ争いが始まった頃には、会館の閉館時間が迫り、夜9時過ぎに白160手を封じ手として打ち掛けとなったという。

翌日正午前に事務所で山本先生から、「二人とも長考を重ねるので、ワシは明日は立会を畑君に譲ることにした」と前日の模様を聞かされ、何よりも喜寿を超えた三宅先生の体力、持久力に敬服したことを思い出す。そして、1日おいた3月26日正午より打ち継がれた対局は、午後5時にようやく終局に至り、黒番の西垣5段が初優勝を飾った。2日がかりで延べ12時間になんなんとするプロ顔負けのこの長時間対局について、三瀬観戦子は「味わい深い闘いであった。大阪弁護士会の碁界はいよいよ意気軒昂、桜満開の様相で頼もしい」と観戦記を締めくくっている。西垣さん若さの勝利であった。

なお、後日談だが、しばらくして西垣さんに会ったとき、優勝を祝するとともに、「弁護士碁界のために手合時計を寄付したら」と冗談交じりに話したところ、やがて2台の手合時計が弁護士会に届けられ、今も時折活用させてもらっている。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(17) 弁護士会囲碁大会初期時代

| 2014年10月19日

大阪弁護士会第1回囲碁・将棋大会は、昭和53年8月5日から始められ、囲碁A級(18名)、B級(43名)、将棋(23名)、計84名の参加のもと、各部門の予選を経て10月から決勝リーグが行われた。囲碁について言えば、AB合わせて61名もの参加があり、大いに盛り上がった。最近10年間の参加者を見ると、A級は15,6名とほぼ変わらないものの、B級は当初の頃から半減どころか12,3名に激減している。当時の会員数は約1400名、現在は約4000名と3倍近く増加していることに鑑みると、弁護士碁打ちのあまりの減少に愕然とさせられる。

それはさておき、第1回大会の結果は、A級で決勝リーグに進出したのが、三宅一夫6段、和島岩吉6段、上田耕三5段、赤澤博之4段と私6段の5名であった。和島先生はリーグ戦を欠場されたため、4人で対局し、3勝同士の三宅先生と私が優勝決定戦で対戦することとなったのである。三宅先生は日本棋院の細川千仭9段と旧制五高時代の級友で、本格的な棋風の当時74歳の大先輩。この大会でも優勝の本命と目されていた方である。私とは初対局だった。

決勝戦の模様は、佐野喜洋厚生委員会副委員長が「弁護士会報」の観戦記で紹介されたが、私の白番を巧みにいなされた三宅先生の貫禄勝ちで終局した。当時の私としても「三宅先生の堅塁を抜くにはまだまだ未熟だと痛感させられた」という感想を寄せている。ともあれ、この大会を盛況裡に終えられたことに理事者の一員として大満足の思いであった。

この大会のその後であるが、第2回は畑良武6段と私の決勝戦となった。同氏は修習生時代に同級の木谷9段の次男明氏の縁で当時四谷にあった木谷道場で、まだ小学校1年生頃の趙治勲25世本因坊に白を持って打ったことが自慢の打ち手で、私とはかねてからの好敵手であった。しかし、私の気合いが空回りし過ぎ、再び一敗地にまみれてしまった(三宅先生は3位)。

そしてようやく昭和55年度の第3回大会で、急速に腕を磨き決勝に進出した新鋭の中森宏5段との激戦を制し、念願の初優勝を獲得することができたのであった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(16) 大阪弁護士会囲碁大会の始まり

| 2014年10月12日

昭和50年代は、私の弁護士としての本業や弁護士会の活動が最も多忙な時期で、特に昭和53年4月からの1年は弁護士会の副会長・日弁連理事の会務で東京行きが多くなった。当時、「荒れる法廷」の対策として、法務省が「弁護人抜きの裁判」を可能とする法案を国会に提出していた。日弁連は、これを被告人の不当な権利の侵害につながる危険な法案であるとして総力を挙げて反対運動を展開していた。この問題の対策委員会担当であったため、時には午前中に日弁連の会議に出たあと、トンボ返りで大阪に引き返し、夕刻の大阪での委員会で対策を協議することもあった。幸い、反対運動が功を奏し、同法案は廃案となり、善処策を協議する場として裁判所・検察庁・日弁連の法曹三者協議の場が設けられた。

幸いだったのは、当年度の大阪会の理事者は、会長の故足立昌彦4段はじめ副会長3名(由良数馬2段、故南逸郎3段、私)が共に囲碁愛好者であり、もう一人の中筋一朗さんも自らは打たないが囲碁の理解者であったことである。それに加え、厚生委員会の委員長が娯楽室常連の津留崎利治2段であった。この委員会の提案に理事者一同が賛同し、会員の福利厚生と相互交流の場として、会の公式戦として年1回の「囲碁・将棋大会」の開催が決まったのである。

こうして昭和53年度を第1回として、囲碁はA、B、Cクラスに分かれてのトーナメント戦が始まり、その後本年度の第37回に至る伝統的行事として定着している。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(15) 下定先生と昭和会

| 2014年10月5日

 昭和40年代から50年代初期にかけては、私の青年期から中年期に至る時期で、結婚や新居への2度の移転、子らの誕生など私生活面での忙しさと修習同期の宮本裁判官の再任拒否をはじめとする司法の官僚統制の強化に反対する弁護士会や日弁連の活動への取り組みなどが重なった時期であった。仕事の面でも多忙であり、あまり弁護士会館娯楽室に出入りする余裕もなく、月1回の橋本誼9段の指導例会で腕を磨くのが主たる修行であった。

 ただ、この時期に、実家の天王寺区の父の碁仇であった近所の薬局の主人が小学生の子供のPTAの役員で、この人から同校の先生に碁の強い人がいると紹介されたのが、下定弘先生であった。同氏は大阪府代表としてアマ全国大会に出場するなど府下有数の打ち手であった。昭和42年頃、父の家で2子か3子で教えてもらったのが始まりであった。そのうち同氏の勧めで、翌年5段に昇進した機会に、元アマ本因坊田口哲郎氏を始め府のトップクラスを含む数十名規模の研究会「昭和会」に入会し、月1回日曜日の例会に出ることとなった。

 同会はA,Bの2クラスに分かれていたので、私は当然にBクラスに属し、順位戦の対局を行った。これが6、7年は続いたろうか、なんとか順位戦でBの上位半分位まで達したかというところで、多忙のため退会せざるをえなくなった。このとき知り合った会の中心メンバー松尾鐘一さんとのご縁が、後日のアマ東西対抗戦参加につながる。(続)

赤沢敬之

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