事務所便り

孫たちとの白浜旅行 戦争体験を語る

| 2025年9月8日新着

 今年の夏も恒例の白浜旅行に出かけた。8月14日に亡き父母たちのお盆法要を終え、15日午後1時13分発の特急「くろしお」に乗車し、新大阪を出発し4時10分無事白浜駅に到着。例年予約している白良浜を眼下に眺望する会員制マンションの3部屋に落ち着く。

宿舎の部屋から白良浜を望む

 今回の旅は、例年の妻、子どもその配偶者と孫5人の大所帯と異なり、列車に同乗したのは20代の孫娘「もも」を筆頭に高校3年の「ルイ」、小学年の「トウマ」と「おじいちゃん」の私の4人であった。その訳は、長男一家3人は貸室予約の関係で別行動であり、私たちと同行予定の妻と長女が発熱し、次男が看病のため家に残ることとなった次第であった。

 脊柱管狭窄症による足の痺れや左眼黄斑変性症などの不具合でキャリングカートを頼りに歩行する私を孫たちは支えてくれ、弁当やお茶も用意怠りなく車窓の景観を眺めながらくつろぎのひとときを送った。

 そして白浜駅に到着後しばらくして次女の夫が車で荷物を搭載して到着し無事合流した。その後夕食時には、千葉から社会人2年目の長女の長男「てつ」が空路白浜空港から到着。予約の部屋が人数減少でゆったりと利用でき、私はベッドを2つ並べた部屋を使用。ここで「てつ」と久しぶりに囲碁(7子局)を楽しむことが今回の旅の目的のひとつであった。夕食は海岸付近の食堂に行って食べたが、帰りが遅くなり、そのまま就寝するほかなかった。

 翌16日朝ゆっくり眠ったが、咳や鼻水が出始めたため大事をとり夕刻まで休養。夜7時過ぎに次女の夫と孫4人で白浜商店街の居酒屋風の食堂「まある」に行き、囲碁クエストにちなむ「クエ」の煮物などたっぷりと美食を味わい皆満腹。

食堂「まある」で孫たちと

 ここでで私は、この貴重な機会に孫たちに「昭和100年、戦後80年」の激動期を生きてきた私の戦争体験を聴かせてやりたいと思いに駆られ、昭和16年10月に生まれ故郷の徳島県鳴門市(当時板野郡)を離れ、祖母・母・妹3人で神戸港の豪華客船2万トンの大洋丸に乗り、父のいる上海共同租界に移住、翌年4月に上海第六国民学校に入学し、3年間の海外生活を始めた話を皮切りに、学校での軍事教練の体験や居住地近くの上海北駅でのゲリラ襲撃の目撃、昭和19年10月の帰国時の上海港での父との永久の別れの哀歓(その後2年後に父帰国)などを説き聞かせた。

 孫たちは初めての生々しい話に聞き耳を立て熱心に聞いてくれた。なかでも帰国時に乗った6000トンの軍用貨物船の魚雷・水雷・空上射撃を避けながら2週間にわたる遅々とした航路の話や船上に全員集合の場で船長の「万一襲撃などがあれば子供たちは船から放り投げて下さい。船員がなんとか救助します」との訓話には皆驚いた様子であった。

 その他いろいろ話したいことが山ほどあったが時間の関係で打ち切り、宿舎に戻ったのが午後9時半過ぎであった。お陰で部屋での「てつ」との対局の機会は失われたが、それ以上の満足感に浸る一夜となった。17日旅行はいよいよ最後の日。この日は孫たちの希望で白良浜のエネルギーランドでひと時を過ごし、円月島に近い臨海浦の「珊瑚礁」で伊勢海老料理を賞味したあと15時26分発「くろしお」に乗車し、新大阪に到着。初めての「孫たちとの旅行」はまことに意義深いものとなった。 (弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター令和7年残暑号より)

赤沢敬之

pagtTop