事務所便り

投稿者:赤沢敬之

出口美保さんお別れ会

| 2025年9月10日新着

 猛暑の夏、親しい友人、知人の訃報を聞くことが多くなった。4月11日に亡くなったシャンソン歌手出口美保さんもそのひとりである。娘さんの早川香さんからの逝去の報と「お別れ会」のお知らせに接し驚きと無念さを禁じられなかった。

 故出口美保さん(本名早川三保子)は、私と2つ違いの大阪市生まれ。日本のシャンソン界の草分けのひとり故菅美砂緒さんに師事し、1968年にレコードデビュー、79年に北区梅新東でシャンソンのライブハウス「シャンソニエ・ベコー」を開業し、いくつかの「シャンソン教室」で多くの弟子を育てながら、「パリ祭」や毎年11月の恒例のフェスティバルホールでのリサイタルで豊かな声量と哀愁の美声を披露してこられた方であった。

 出口さんとの出会い

 さて、美保さんとの出会いはまさに不思議なご縁であった。
 10年程前だったか、事務所での仕事が遅くなり午後10時頃になったときは、個人タクシーの西原さんに事務所まで迎えにきてもらうのを常としていた。ある夜、西原タクシーで新御堂筋に向かう途中、「同じ方向に行かれる方を同乗させて貰っていいですか」との問いに同意、そして梅新東の角で乗ってこられたのが美保さんであった。車は桃山台を西に曲がり近くのマンションで出口さんを降し(応分の代金を頂く)、南千里の我が家に帰宅。これが嚆矢となり、その後も時々梅田の「教室」などでご一緒し、車内で会話を楽しんだ。
 これがきっかけで、私も事務所の帰途「シャンソニエ・ベコー」に寄り、お弟子さんやお客のシャンソンの演奏に疲れを癒した。
 そして出口さんからは、毎年のようにフェスティバルホールでのリサイタルに招待を受け、妻とともに喜んで出向き、美保さんの独演に身も心も魅了されたものである。
やがて2022年から24年、世界中に蔓延したコロナ禍により「ベコー」も閉店、リサイタルも開かれず、ただその終息を待つのみであった。この直前2019年の年末リサイタルのお招きの便りに書かれた「戦中戦後の四天王寺界隈の思い出」に接し、返信の礼状に「私も昭和24年の中学2年から高校時代に寺田町で暮らし、四天王寺界隈で通学し遊んだ昔をなつかしく思い起こし、またお目にかかった際にはそんな昔話に花を咲かせたいものです」と記した。しかし、その思いも露と消え残念の思いひとしおであった。

 お別れの会

スクリーン上の出口さんと

 7月26日午後3時ごろ、天神祭りの行列が老松通りを通る中、「お別れの会第1日」の「シャンソニエ・ベコー」に向かい、主催者の早川香さんや多くの関係者が列席する会場に到着し、入り口に設置された故人の在りし日の遺影と焼香台で焼香を済ませ、空いた席に坐したのが4時過ぎであった。
 会場前面の大きなスクリーンに往年のリサイタルで熱唱する美保さんの姿が流れている。机上には 回にわたるリサイタルのプログラムが並べられている。ドリンクのアイスコーヒーを戴きながら、冊子に目を通しつつコンサートの音声を聴く。まさに本式の会場にいるかのような夢幻の雰囲気に浸りたっぷり1時間美保さんとの心の対話をすることができた。
 会場の各スペースにはいくつかのグループや単独の列席者が並ぶ。その中で近くにおられた喪主のご主人早川廣さんとお話しできたのは幸いであった。また早川香さんとは主催者の仕事の忙しさの中なのでゆっくりとお話しできず、持参した美保さんへの礼状コピーをお渡しし、スマホに残るフェスティバルホールでのリサイタル終了後に挨拶に見えた時の写真をお見せしただけに終わった。
 幸い「ベコー」の店は香さんが跡を継ぎ再開する予定とのことなので、その節にはまた訪問してゆっくりとお話ししたいと念じている。 (弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター令和7年残暑号より)

赤沢敬之

孫たちとの白浜旅行 戦争体験を語る

| 2025年9月8日新着

 今年の夏も恒例の白浜旅行に出かけた。8月14日に亡き父母たちのお盆法要を終え、15日午後1時13分発の特急「くろしお」に乗車し、新大阪を出発し4時10分無事白浜駅に到着。例年予約している白良浜を眼下に眺望する会員制マンションの3部屋に落ち着く。

宿舎の部屋から白良浜を望む

 今回の旅は、例年の妻、子どもその配偶者と孫5人の大所帯と異なり、列車に同乗したのは20代の孫娘「もも」を筆頭に高校3年の「ルイ」、小学年の「トウマ」と「おじいちゃん」の私の4人であった。その訳は、長男一家3人は貸室予約の関係で別行動であり、私たちと同行予定の妻と長女が発熱し、次男が看病のため家に残ることとなった次第であった。

 脊柱管狭窄症による足の痺れや左眼黄斑変性症などの不具合でキャリングカートを頼りに歩行する私を孫たちは支えてくれ、弁当やお茶も用意怠りなく車窓の景観を眺めながらくつろぎのひとときを送った。

 そして白浜駅に到着後しばらくして次女の夫が車で荷物を搭載して到着し無事合流した。その後夕食時には、千葉から社会人2年目の長女の長男「てつ」が空路白浜空港から到着。予約の部屋が人数減少でゆったりと利用でき、私はベッドを2つ並べた部屋を使用。ここで「てつ」と久しぶりに囲碁(7子局)を楽しむことが今回の旅の目的のひとつであった。夕食は海岸付近の食堂に行って食べたが、帰りが遅くなり、そのまま就寝するほかなかった。

 翌16日朝ゆっくり眠ったが、咳や鼻水が出始めたため大事をとり夕刻まで休養。夜7時過ぎに次女の夫と孫4人で白浜商店街の居酒屋風の食堂「まある」に行き、囲碁クエストにちなむ「クエ」の煮物などたっぷりと美食を味わい皆満腹。

食堂「まある」で孫たちと

 ここでで私は、この貴重な機会に孫たちに「昭和100年、戦後80年」の激動期を生きてきた私の戦争体験を聴かせてやりたいと思いに駆られ、昭和16年10月に生まれ故郷の徳島県鳴門市(当時板野郡)を離れ、祖母・母・妹3人で神戸港の豪華客船2万トンの大洋丸に乗り、父のいる上海共同租界に移住、翌年4月に上海第六国民学校に入学し、3年間の海外生活を始めた話を皮切りに、学校での軍事教練の体験や居住地近くの上海北駅でのゲリラ襲撃の目撃、昭和19年10月の帰国時の上海港での父との永久の別れの哀歓(その後2年後に父帰国)などを説き聞かせた。

 孫たちは初めての生々しい話に聞き耳を立て熱心に聞いてくれた。なかでも帰国時に乗った6000トンの軍用貨物船の魚雷・水雷・空上射撃を避けながら2週間にわたる遅々とした航路の話や船上に全員集合の場で船長の「万一襲撃などがあれば子供たちは船から放り投げて下さい。船員がなんとか救助します」との訓話には皆驚いた様子であった。

 その他いろいろ話したいことが山ほどあったが時間の関係で打ち切り、宿舎に戻ったのが午後9時半過ぎであった。お陰で部屋での「てつ」との対局の機会は失われたが、それ以上の満足感に浸る一夜となった。17日旅行はいよいよ最後の日。この日は孫たちの希望で白良浜のエネルギーランドでひと時を過ごし、円月島に近い臨海浦の「珊瑚礁」で伊勢海老料理を賞味したあと15時26分発「くろしお」に乗車し、新大阪に到着。初めての「孫たちとの旅行」はまことに意義深いものとなった。 (弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター令和7年残暑号より)

赤沢敬之

近況報告

| 2025年5月23日

この2月に89歳の誕生日を迎え、体力・知力・気力の衰えを痛感する日々です。

従来からの持病である脊柱管狭窄症による足の痺れや左眼黄斑変性症・高血圧など歳相応の不具合はありますが、幸い曲がりなりにも日常生活を送れますので、ほぼ毎日重い鞄をカートに乗せて事務所に出ています。

最近は腰痛なども重なり歩行に難渋しますので、タクシーの利用が増え毎日の歩行数は減る一方。そして事務所では、本来の弁護士会業務は井奥弁護士に任せ、主としてこれまでの事件記録や様々の活動の関係書類の整理と処理、そして趣味の囲碁のネット観戦や棋譜採りに時間を費やしますが、昼過ぎから午後7時頃までの時間があっという間に過ぎてしまい、作業の量は従来に比して半減以下という始末です。

しかし、好奇心だけは衰えがなく、囲碁AIの勉強や新聞数紙掲載の数独やクロスワードを見つけると放置できず、これまでに1000問以上に取り組んでいます。 (弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター令和7年GW号より)

赤沢敬之

新年ご挨拶

| 2025年1月15日

 明けましておめでとうございます。新しい年を迎え、所員一同今年も心を新たに仕事に取り組みたいと念じています。どうかよろしくお願い申し上げます。

 過ぐる年は、新型コロナ禍の世界蔓延が収まりを見せたのと入れ替えに、ロシア・プーチンのウクライナ侵攻の激化、イスラエルのガザ地区やレバノンへの攻撃など平和な世界を脅かす事態が続く一方、わが国も地球温暖化による自然災害の頻発という地球規模の人類の危機的状況への対処を置き去りにしているようです。

 このような世相のもと昨年10月下旬のことですが、心暖まる出来事が2つ続きました。ひとつは梅田新道の大阪梅田第三ビルから事務所に向かう途中の国道1号線の陸橋の50段程の階段をキャリングカートを持ち上げながら登るのに難渋しているときでした。9年ほど前からの脊柱管狭窄症で足のしびれがひどくなっていた時でなかなか上に進みません。その時通りかかった30代と思しき女性が「持ちましょうか」と声を掛けてくれ、登り切ってからもさらに下りの階段まで手助けを頂いたのです。恐縮してお礼の言葉を掛けましたが、同女は微笑みながらまた階段を上り姿を消してしまいました。

 その翌日午後1時半、大阪家庭裁判所の仕事で地下鉄谷町4丁目駅で下車し、地上に向かうためエスカレーターやエレベーターを探したのですが見当たらず地下街を右往左往して20分を労費し、やむなく従来から登っていた階段に戻りました。改めて階段を見上げると100段位はありそうですが覚悟を決めて10段ほど苦労して登り始めたときです。上方から7、8人の欧州人と思われる集団が通り過ぎたのですが、その直後一人の40歳台の男性が私の前に上ってきて、カートを指さしこれを引き上げてくれたのです。そして遥か上方の地上まで私を誘導してくれました。感謝感激で何度も頭を下げ、互いに微笑みを交わし、咄嗟に同氏の近影と下段に降り行く姿をスマホに残しました。こうして午後2時に指定された調停期日の数分前に間に合うことができました。

 新年にあたり、このような助け合いの心と困っている人への援助の手こそが、分断、放置、自己責任を旨とする格差社会の打破につながる貴重な行為であると改めて感じ、及ばずながら私もこの一年、老骨を鞭打ちたいと決意した次第です。

二〇二五年 元旦  赤 沢 敬 之

(ニュースレター令和7年新年号より)

赤沢敬之

南海トラフ地震と白浜行き

| 2024年9月20日

 今年もまた、恒例の家族一同9名(私夫婦、子2人と配偶者1人,孫4人)が8月8日から13日にかけて、白浜の会員制マンションに出かけた。

 昨年は紀伊半島を目指し北上中の大型台風とのせめぎあいで運よく白浜に到着できたが、今年はさらに思いがけない事態に遭遇した。出発当日、宮崎県でマグニチュード7.1の地震が発生、気象庁が「南海トラフ緊急注意情報」を発信したことにより、翌9日から1週間、白浜行き特急くろしおの運転中止、海水浴場の閉鎖、花火大会中止を決定されたのである。

 現地で情報を聞いたところ、多くの観光客向けの食堂や店舗は閉店とのこと。折角来たのに老齢の私には温泉でゆっくりできればほぼ満足だが若者は海にも行けない。食事はどうするかなど思い迷わされた。
 

もっとも、白浜の2泊3日、マンションの来客は少なくのんびりとでき、若者たちもプールや浜辺近くに遊びに出かけそれなりに楽しんでいたようだ。高台の建物のベランダから一望できる白良浜の展望は快晴のもと実にゆったりとした優雅な風景である。海辺に人はなく街中もひっそりと静まっている。

部屋のベランダから無人の白良浜を望む

 さて問題はどのような方法で新大阪まで帰るのか。しかし、幸いなことに次女の夫が深夜自動車で駆けつけてくれた。これで高齢者は車で帰り、若者たちは鈍行で和歌山まで乗り継げばほぼ2倍の6時間程度で夜には到着できる。

 こうして10日午後、一同は二手に分かれ、私たち夫婦は車で一路大阪を目指した。高速道路に入ると前方には車の影もない。おそらく情報を早く知った多くの外人客などが急遽前夜に白浜を去ったためではないか。車は順調に進み約3時間で自宅に帰ることができた。そして、電車組はその後3時間の後ようやく到着したのであった。

 2年連続でのハプニングに地球環境の恐るべき悪化を思い知らされ、人類の未来のため如何になすべきかを考えさせられた猛暑の夏である。 (弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター令和6年残暑号より)

 

赤沢敬之

新年ご挨拶

| 2024年1月23日

神奈川県・湘南江の島稚児ヶ淵から富士を望む(撮影:赤澤秀行)

明けましておめでとうございます。
新しい年を迎え、所員一同今年も心を新たに仕事に取り組みたいと念じています。どうかよろしくお願い申し上げます。

 この新年は、昨年から引き続くロシアのウクライナへの侵略戦争に加え、イスラエルのパキスタン自治区のガザへの大量虐殺戦争が世界の平和を乱し、また国内でも、物価高騰による生活水準の低下とこれに対する大企業の511兆円を超える内部留保の問題や、格差拡大の中での岸田政権の無策ぶり、さらには自民党各派閥のパーティー券販売による政治資金規正法違反の裏金作りなど、とても「明るい希望に満ちた新年」とは言えない状況です。
 このような年の初めに、私たち市民はどうすればいいのか。ひとりひとりが新しい時代を作っていく責任を負わされた年だと気を引き締めています。

 一方で私の近況はと言うと、昨年11月下旬、4年ぶりに開催された法曹囲碁大会に参加するため単身上京しました。大会前日に新幹線で東京へ。東京駅では昨年東京地裁に事務官として就職した孫の出迎えを受け、そのまま松戸市の長女宅に宿泊し、翌日の午前11時半から市ヶ谷の日本棋院で対局しました。
 私は団体戦A大阪チーム3名のトップとして、東京弁護士会、東京第二弁護士会、岡山弁護士会のチームと3局対戦。辛うじて3戦目に勝ちを収めましたが、対局中と帰りの新幹線で座りっぱなしだったためか、翌日以来腰痛を発症し、しばらくは歩行に苦労しました。やっと12月中旬にはほぼ回復しました。
 4年ぶりの東京は駅の地下や交通路線が相変わらず複雑でしたが、幸い長女と孫が観戦のため同行してくれて助かった次第です。

 本年2月には私も満88歳、米寿を迎えます。脊柱管狭窄症による足の痺れや左眼黄斑変性症など歳相応の不具合はありますが、なんとか毎日事務所に出て仕事ができることを感謝しています。しかし、残り僅かな人生を楽しむため、今年は事務所の運営を次世代の所員にバトンタッチしたいと考えています。
 どうか今後とも皆様方のご支援を賜りますようお願い申し上げます。

二〇二四年 元旦  赤 沢 敬 之

(ニュースレター令和6年新年号より)

赤沢敬之

灼熱の夏 白浜行き

| 2023年9月11日

今年もまた、恒例の家族一同12名 (私夫婦、子3人と配偶者2人、孫5人) が8月10日から13日にかけて白浜の会員制マンションに出かけてきました。

毎年お盆前の白浜海岸の花火大会見物がメインイベントの一つなのですが、 今年は太平洋沖で発生し紀伊半島を目指して北上中の大型台風7号の進路と速度によっては、中止の可能性大で、 そもそも旅行自体ができるのかともどかしい日々でした。

しかし、幸いにも台風の進行速度が遅くなり、10日午後新大阪から特急「くろしお号」で無事白浜に到着、同夜、4年ぶりに開催された海上花火3000発の連射を楽しむことができました。

そして孫たちの海水浴やアドベンチャーワールドのイルカショー見物、 なによりも温泉でのくつろぎなど無事3日間を過ごし、13日に帰阪したのですが、この間台風はなおゆっくりと紀伊半島に向かい、ようやく8月15日未明に潮岬に上陸しました。

まさにスリルに満ちた自然との共生でした。(弁護士 赤沢敬之)

白浜宿泊先の玄関前にて

(ニュースレター令和5年残暑号より)

赤沢敬之

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