弁碁士の呟き

囲碁雑録(14)-1993年「幻の棋譜」

| 2017年8月4日

 囲碁の魅力に取りつかれてからもう30有余年を数えるが、自分の打碁の棋譜をとるようになったのは、確か三段の免状を頂いた昭和40年頃であった。
その後27年をかけて、今では手元に200枚を超える貴重な対局の軌跡が残されている。
その大半はプロ棋士との指導碁(五子から二子)だが、碁敵との対戦譜やアマ棋戦での惜敗譜も含まれている。

 これらの棋譜は、折角の勉強の成果を無駄にせぬよう、手順を忘れないうちに手直しの批評とともに書き留めておいたものである。

 さて、これらの棋譜の中に私にとって特別の感慨を呼び起こす一枚がある。
といってもその棋譜は、20年程前の引越しのどさくさに紛れたまま自宅の書棚のどこかに隠れているはずで、未だ発見できないでいるものだ。

 昭和40年9月に私は、法律家の友好使節団の一員として中国各地を訪問したことがあるが、その棋譜は、かつて私が太平洋戦争中の昭和16年から19年までの間、国民学校一年から三年までの少年時代を過ごした上海での対局譜である。

 ある日自由時間がとれることになり、案内の中国青年に「親善対局の機会があればなあ」と話したのがきっかけで、彼はしばしどこかに連絡をとっていたが、やがて「明朝九時にホテルで」との返事。

 翌朝、私たちの宿舎である黄浦江に面した『和平飯店』の部屋に現れたのは、板盤と碁石を提げた3人連れの15、6歳の丸刈り頭の少年たちであった。
挨拶の中で私は「弱い三段」と告げ、その中の利発そうな礼儀正しい一人の少年と対局することとなった。
通訳を介して聞くと、彼はその年の上海市の高校チャンピオンとのこと、「これは相手が悪い」と思ったがあとには引けない。

 一応握って私に白が当たり、対局開始。
傍らのもう一人の少年が棋譜をとってくれる。
わが同僚数人の応援の中、戦況は激しいねじり合いとなりやがて勝敗を決するコウ争い。
結果は「言わぬが花」の黒の勝ちに終わったが、なんともすがすがしい思いの2時間であった。
やがて時間が来て、局後の歓談を打ち切り「日中友好」の握手を交わしたあと、別れ際にその日の対戦譜を贈呈された。これが例の”幻の棋譜”なのである。

 なぜ私がこの棋譜にこだわるかというと、それが単に記念の棋譜であるというだけでなく、もしかするとその少年が、後年中国碁界を代表する「専業棋士」として名を馳せることになる棋士の一人ではなかったかという思いを捨て切れないからである。
丁度その時期、中国は「文化大革命」の前夜で、翌年秋から10年にわたり、囲碁は「反革命の文化」として禁圧の歴史を辿ったことから見て、あるいはまた彼も碁の道を断念させられる運命を余儀なくされたのかもしれないのだが。

 あの棋譜には、両対局者の名前が記されていた。
もし、これが見つかればその謎は一気に解ける。
また、中国棋士の名簿を調べれば、おそらく事実は判明するだろう。
しかし私にとって、”幻の棋譜”はそのままわが家の片隅にソッと埋もれさせておく方が、過ぎし日のロマンを追い続けるよすがとしてなんとなく落ち着きがよいと思われるのである。

※「囲碁関西 平成5年3月号」に寄稿

赤沢敬之

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