弁碁士の呟き

私と囲碁(51)鳴門紀行と囲碁入門

| 2019年2月6日

 私の故郷は、徳島県鳴門市の田舎町である。昭和11年から16年10月まで居住し、その後父が自動車修理工場を経営していた上海に渡り、国民学校3年の2学期まで上海の共同租界で暮らした。当時日本国内では、太平洋戦争での戦局を国民に偽り、国家総動員体制で鬼畜米英に対する戦意を鼓舞していたようだが、外地では日本はもう負けるとの情報が伝えられたため、父を残して軍用貨物船で7日をかけて命からがら門司港に帰国した。

 帰国後、故郷の鳴門市で国民学校3年から敗戦後の新制中学1年まで暮らした。居住地は淡路島に面する海岸に近く、昭和19年12月の南海大地震の津波騒動などがあったが、戦中戦後の大変動期をここで経験した。

 今回、長男秀行の提案で、10月7、8日の連休に、私が戦争末期から敗戦後の少年時代に暮らした鳴門を訪問し、昔の住まいの付近や岡崎海岸を散策する旅の企画をした。

岡崎海岸から大鳴門橋を望む

孫たちは残し、7日に、妻と子ども4人が神戸から高速バス明石大橋を渡り、淡路島を縦断して、鳴門大橋から土佐泊りの鳴門ルネッサンスホテルに着いたあと、昔私を導いてくれた3年先輩の内田英明さんのお宅を訪問した。その後、母校林崎小学校までの通学路を経て岡崎の旧家や家の前の西宮神社に参詣し、海水浴を楽しんだ岡崎海岸に出て夫婦岩や淡路島を遠望した。夕刻ホテルに帰り、夜の阿波踊りショーを楽しみ、翌8日には大塚国際美術館を見学する慌ただしい旅程で神戸まで帰って来た次第であった。

 この旅の眼目は、子どもたちに父の幼少時のルーツを教えることであったが、同時に内田先輩に50年ぶりに会い久闊を叙し、私の小学6年から中学1年当時の思い出話を子どもたちに聞かせることだった。

 内田さんは、私の旧宅の近くに住む3年先輩で当時鳴門高校1年の故佐藤喜久男さん(元小学校長)の同級生で秀才の誉れの高かった方だったが、なにかの縁で高校生のグループに中学生ただ一人入れてもらったのがきっかけで多くの教えを受けたものだった。確か、当時岡崎で英語を教えていた倫敦帰りの的場先生の塾に入れてもらい、タイプライターを初めて見て驚いたことが記憶に残っている。

 同氏は、その後東大に進学し、卒業後は故郷の大塚製薬株式会社に69年間勤務し、現在は「大動脈解離」の後遺症など多くの病気を抱えながら、クラシック音楽、歴史書やチェス(3段)の研鑽を続ける前向きの生活を送っている。若い時には、囲碁5段、将棋4段の免状を得られたが、今は「初段程度の実力」とのことである。

 さて、内田さんのお宅を訪れたのが午後 時頃、奥様とともに玄関先まで出迎えを受け、開口一番「首を長くして待っていました」との挨拶に一同感激。応接間での対話は70年も前の昔話に及び、昭和26年同氏の大学入学後の帰省の際、大阪の拙宅に寄られ、当時高校1年だった私に囲碁のルールの指導をしたことにも触れられた。この時頂戴した瀬越憲作9段の「囲碁読本」が私の囲碁入門の原点であった。しかし、私がその後囲碁の実践に取り組むようになったのは昭和33年秋、大学4年の司法試験合格後で、この間は好敵手のいた将棋に情熱を燃やしていたのだった。司法修習生の時期から今日まで60年にわたり囲碁に熱中し、その尽きせぬ魅力に今なお飽きもせず取りつかれている現在、「あの時から始めていたなら今頃は」との感懐を催させられた今回の内田さんとの再会であった。

 尽きせぬ話が始まって間がないうちに予定の時間が越え、次の旅程の私の旧宅跡に向かうため、名残り惜しくも次回の再会を期してお別れしたのだった。

(ニュースレター新年号より)

赤沢敬之

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