アーカイブ:2014年
私と囲碁 | 2014年9月14日
やがて、昭和41年に正森さんから、自宅の近所におられる日本棋院関西総本部の橋本誼8段の指導を受ける若手弁護士の会を作ろうとの提案があり、異議なく賛成して仲間集めに奔走した。当時私はほやほやの3段、正森さんは4段であった。仲間の10数人もほぼ有段者かその手前であったが、「新鋭法曹囲碁同好会」と称した会は、毎月1回夜、OS囲碁センターや日本棋院関西総本部に集まり、橋本8段とその父上5段の義平師の指導を受けることとなった。
橋本8段(その後まもなく9段に昇段)の指導は丁寧で分かりやすい解説で、プロとはかくなるものかと目を開かされる思いがした。その甲斐あってか、1年後の昭和42年に同9段の推薦を得て日本棋院から4段を許された。
指導の夜の対局(5子から4子、3子へ)はしっかり頭に刻み込み、帰宅後ビールを飲みながらの夕食時に棋譜と講評を記録するのが習慣となった。この会は昭和52年末まで続いたが、この間に指導を願った103局の棋譜は私の宝物として残されている。それにしても、当時は対局後1週間位は手順など最後まで記憶していたのに、今や、自分の打ち碁でも終わった途端すぐ忘れてしまい、棋譜再現など不可能であるのは情けないかぎりである。(続)
私と囲碁 | 2014年9月7日
私が弁護士を始めてから2年ほどした昭和38年5月、事務所のボス山本治雄先生が吹田市長選挙に立候補した。このときは現職市長と争い破れたものの、次の昭和42年には無事当選。昭和45年3月からの千里丘陵における日本初の万国博覧会の地元市長として多くの功績を残された。この間、昭和41年2月に事務所は裁判所の斜め筋向いのホワイトビル2階に移り、以来昨年夏まで47年有余の長きにわたりここで執務することとなる。
この時期は、一人残された私にとって、仕事や事務所経営の上で一本立ちをするための試練の時節であった。昭和41年頃からの2年間ほどは仕事に熱中し、なんとか事務所維持の目途がついたので、昭和43年に辻公雄君を私の弟子第1号として迎えた。
そんなふうに仕事に没頭する時期ではあったが、一方で、私の囲碁人生に大きな影響を与えてくれる人物との出会いもあった。昭和37年頃、弁護士会館娯楽室で3子を置いて手合わせをしていただいた先輩の故正森成二先生である。同氏は私の3期上、学生時代の病気療養の関係で9歳の年長であったが、この対局がきっかけで親しくなり、以後仕事の合間を縫っては対局を重ねることになった。正森さんを目標に「追いつき追い越せ」の努力を重ねることが当時の私の課題であった。初めてプロ引退棋士(お名前は失念したが)の自宅の教室に同行し、指導碁なるものを初めて体験させてもらい、「野性の碁だが見込みはある」との嬉しい講評をいただいたことも忘れられない思い出である。(続)
私と囲碁 | 2014年8月28日
私が弁護士登録をした昭和36年頃、大阪の会員はほぼ800名程であった。現在は約4000名を超える大所帯になり、特に世代間の差が大きいと顔や名前も知らない人が殆どとなる。弁護士の仕事は、あくまで依頼者の立場に立ち、その正当な権利や利益を守ることにあるのだから、相手方弁護士がどのような人であるかは関係がないことではあるが、やはり面識があり人柄や特徴、実績や見識を知っている方が真相解明や早期の妥当な解決を導くことに役立つことが多い。
昔の弁護士会館は石造りの3階建てで、おぼろげな記憶であるが、2階の一隅にあった娯楽室は4坪位であったろうか、そこには常連の先輩たちでほぼ満員。そこに臆面もなく新入りが出入りして教えを仰ぐのも許される自由にしてにぎやかな雰囲気であった。和島岩吉、前田常好、井上吾郎、宮浦要先生など今は亡き長老や井土福男、島田信治、佐々木敬勝先生などの修習初期の4,5段の打ち手はほぼ毎日のように顔を出され、また当時最強を謳われた吉川大二郎、三宅一夫6段も時々は顔を出されていた。
碁打ちのマナーをうるさく教えるのが宮浦師範。碁石を片手に碁盤の横を叩く癖のN3段、そばで口を出す某先生などに厳しく注意をし、周りを笑わせる。そんな楽しい雰囲気だったので、新米の私もこれらの先輩に碁の教えを受けるだけでなく、それぞれの人となりに接し親しく可愛がっていただいた。これが私の弁護士としての生き方に多大の深みや広がりを植え付けててもらったことに感謝している。
こうした老若相集いにぎやかに烏鷺を戦わす風景は、昭和44年1月新築の旧弁護士会館の時代にも受け継がれてきたが、平成20年7月新築の豪華な現会館13階の囲碁コーナーには今やその面影も残っていないのは残念な思いであり、なんとかその再現の日をと儚い夢を見る今日このごろである。(続)
私と囲碁 | 2014年8月18日
私の囲碁も昭和38年年4月に関西棋院からようやく初段の免状を授与され、翌39年に2段、41年に3段と順調に昇段した。
その間、昭和40年8月に青年法律家協会の友好使節団一員として中国を訪問した。北京、西安、延安などを周ったあと上海に到着。なつかしの我が家のあったアパートを訪れたところ、20年以上前に隣人として接触していた隣家のおばあさんから「おばあちゃん(当時上海で一緒に暮らしていた私の祖母)は元気にしていますか」とあいさつされ、嬉しく感動的なひとときを過ごしたことを思い出す。
上海では、ガーデンブリッジ付近の宿泊ホテルで、たまたま通訳の青年に囲碁の話をしたところ、翌日の休養日に早速碁盤を抱えた少年数名が来訪した。そのうちのひとり15,6歳位の少年が上海の高校生大会での優勝者と紹介され、早速盤を囲むこととなった。当時の中国の囲碁界は日本棋士の訪中団の指導のもとに研鑽を積んでいた時期で、プロ組織はまだなかったが、若手アマへの普及が進展していたものと思われた。同行の弁護士たちが見守る中、私の白番で始まった碁は、中終盤でのコウ争いに失敗し、見事敗局となる。この碁は中国少年が棋譜を採ってくれたのだが、後の我が家の引越しにまぎれて見当たらなくなってしまったのは残念の極みである。
なぜ私がこの棋譜にこだわるかというと、それが単に記念の棋譜というだけでなく、もしかするとその少年が、後年中国碁界を代表する「専業棋士」として名を馳せることになる棋士のひとりではなかったかとの思いを捨てきれないからであった。それから28年を経た平成5年3月に、関西棋院石井新蔵9段の依頼で、「囲碁関西」随筆欄に「幻の棋譜」と題して寄稿し、当時の思い出を再現した。(続)
私と囲碁 | 2014年8月2日
昭和36年4月、弁護士の仕事を始めてから、いよいよ囲碁耽溺の道に入ることとなる。
当時の事務所は、国道1号線の近くの「敷島ビル」とは名ばかりの古い木造家屋2階にあった。そろそろ建て替えの話があったのか、入居者は2事務所を残すのみで、1年後にはわが事務所のみとなり、空き部屋に60歳位の管理人が寝泊りするようになった。この人が囲碁初段位であった。新米弁護士には事務所の事件が何件か割り当てられていたが、時間の余裕はあったので、仕事のない日は夕刻から囲碁三昧の特訓。お蔭で2年後には私が黒から白に変わってしまった。
吹田事件のほうは、その頃から2年ほどの間、検察側の証拠書類に対する採否決定の意見書作りの作業や最終弁論のための膨大な量の記録整理と起案の作業にかかっており、われわれ若手の常任弁護人数名も、信貴山、生駒、天王山、高野山等の僧坊に立て籠もっての数日がかりの合宿をよく行った。合宿には被告団からもU団長やS事務局長が参加しており、昼休みや作業終了後の夜は、このUさんと向こう2子の対局で疲れを癒すのが常であった。
昭和38年6月、吹田事件は大阪地裁で「無罪」の判決を受けたが、検事控訴により二審に移り、それから5年後の昭和43年、ようやく無罪が確定した。(続)
私と囲碁 | 2014年7月26日
大阪での実務修習では、検察、刑事裁判の修習が、たまたまアイウエオ順で、ともに当時の大事件いわゆる「吹田騒擾事件(※)」の担当部に配属されたのが、その後の弁護士生活出発の原点となったのは運命の不思議さを物語るものであろうか。
やがて後期修習で上京する日も近づき、就職先を考えていた頃、ある先輩から「吹田事件を手伝ってくれる若手を探している」という話を聞き、初めて山本治雄先生を紹介された。
先生は、地元吹田で起ったこの事件の主任弁護人として、長期裁判の大弁護団を率いて獅子奮迅の活動を続けていたが、事務所は一人だったため、膨大な証拠書類の整理を担当していた他事務所の若手数名の常任弁護団の補充が必要だったのである。
しばしの面談のあと、話はスムーズに進み、私は「山本治雄法律事務所イソ弁第1号」となることになった。時に昭和36年4月、山本先生は50歳の働き盛り、私は25歳であった。先生は、明治人間の豪放磊落の野武士の面影を残す一面の裏に人情味溢れる「自由人」であった。法曹界の謡曲同好会の世話人であり、囲碁も当時3段位であった。
事務所に入る前の冬休みの帰阪時だったか、一度北新地の料亭に招かれたことがあり、そこで私が4子(だったか)を置いて対局第1戦。内容は覚えていないが、私の敗戦であったことは間違いないはずである。その後、事務所に入り何年かのうちに、私が黒番で勝つようになってからは、先生は手合わせをしなくなったから、私は終生先生に白を持ったことがないのである。(続)
※吹田騒擾事件…1952年に大阪府吹田市で発生した騒乱事件。Wikipedia(別ウィンドウで開きます)
私と囲碁 | 2014年7月15日
私の場合、大阪での実務修習期間中、囲碁の勉強を始めたものの、碁会所に行ったりすることもなく、専ら同期の友人との対局と父親との実戦だけだったが、「ヘボ碁」の典型であった父親とは始めて程なく強弱逆転し、何目かを置かせることになった。そして、修習終了時にはなんとか2級程度に上達していた。
同期の友人の中では、特に親しかった上原洋允君(元関西大学理事長)と逢坂貞夫君(元大阪高検検事長)は5級程度であったから、専ら「ハメ手」の実験台のようにして、ハマッた相手が悔しがるのを見て喜んでいたことを思い出す。そのタネ本は、当時最強と評されていた坂田栄男9段の「おそるべきハメ手」という新書版で、久しぶりに本棚から探し出し50数年振りに目を通したところ、今尚有効に活用できる解説書であることを発見し、碁の奥深さを思い知らされた次第である。
なお、上記の2人も今や「免状5段」の腕前で、今でもその頃の話が酒の肴となっている。現在、逢坂君とは同君の主宰する定例の碁会で、吉田美香8段指導のもと、時折向こう2子の手合いでの対局を楽しんでいる(続)