アーカイブ:2015年
私と囲碁 | 2015年8月2日
半世紀を超える囲碁遍歴の中で、私は多くのプロ棋士から教えを受けてきた。最初の師匠は橋本誼9段で、まだ3段程度の昭和41年から約10年の間に「新鋭法曹囲碁同好会」で5子から3子局の指導を受け、私の碁の基礎体力の形成に大きな手助けをして頂き、日本棋院5段の免状をいただくことができた。そして、第2の師匠は石井邦生9段である。先生からは、指導碁だけでなく、私の囲碁ライフのさまざまな分野でご指導・ご協力をお願いしてきた。先生の推薦により6段の免状をいただいてから既に29年が経過している。
石井先生とのお付き合いは、高校の同窓である南諭さんの縁で、池田市医師会の囲碁仲間の碁会に顔を出した昭和50年頃にお会いしたのが始まりであった。その後「爛柯」などで時折指導碁をお願いすることがあったが、先生の追突事故被害の件で相談を受けてから、先生の温厚且つ清廉なお人柄に魅せられ、今日まで交流を深めてきた。井山四冠の名伯楽としての指導力はつとに名高いが、日本棋院関西総本部の長老として、ご自身も今尚現役で間もなく超一流の1千勝棋士の列に加わろうとされている。
先生には、時折の2子局の指導碁でやんわりと私の打ち過ぎを矯正していただくほか、私が「会長(世話役)」を勤める大阪弁護士囲碁同好会や高津囲碁会の例会での年1回の指導碁、そして棋譜の講評と関西での名人戦・本因坊戦挑戦手合いの観戦の際のプロ棋士の検討室の見学など多くの無理をお願いしている。
なによりも有難いのは、打ち碁の講評である。何時の頃からか私は大阪弁護士会囲碁大会決勝戦の「観戦記者」になってしまい、弁護士会の「会報」に掲載するのが常となった。執筆にあたり、先生に棋譜をお送りすると、碁罫紙に変化図を7,8枚は作成し、懇切丁寧な解説や批評・感想を書き添えて返送して下さるのである。私はこれを引用し、対局風景の描写や個人的な感想を書き加えれば「観戦記」はたちどころに完成する仕掛けである。なるほどこれぞ井山四冠を鍛えた打ち碁講評の極意であったかと妙に納得し、勝手に井山さんの「兄弟子」を任じている次第である。元最高裁判事の河合紳一さんとの1局4年掛かりの郵便碁の講評も何局もお願いし、「棋力増進につながる」と喜んでもらっている。(続)
私と囲碁 | 2015年7月21日
7月初め、自宅に、ある女性からの思いがけない電話があった。妻から受話器を受け取ると「ニュー・リーリーです」との懐かしい声。年賀状のやりとりは欠かさなかったが、19年前の1996年(平成8年)4月、呉清源師との「三峡下り」で同行したとき以来の会話である。「今度7月6日から9日まで大阪に参ります。娘の栄子(日本棋院初段)の大阪での初対局の付き添いです」。先日このコラムの(38)で、あの日の懐かしい思い出を書いたばかりのこの時に、なんというグッドタイミングか。早速、来阪後の対局の合間の7月8日に栄子さんと共に私の事務所にお越しいただき、昼食と喫茶店であれ以来の積もる話に時を忘れたのであった。
牛力力さんは、1961年ハルピン市で出生、若い頃から中国棋院で研鑽、師匠は聶衛平9段で馬暁春、苪廼偉9段らとは同門の5段で、1989年に来日。爾来長年にわたり呉清源先生の秘書役として、囲碁雑誌や新聞の解説記事を先生に取材執筆し、更には先生の囲碁観を集大成した「21世紀の碁」全10巻や「思い出の18局 今ならこう打つ」の編集執筆という大作をものされている。もちろん19年前にはそのような履歴やその後の囲碁界に対する多大な貢献は知る由もなく、旅行の当時は、明朗闊達で知性豊かな美女との印象をもった程度であった。その後月刊「囲碁」の呉先生の解説記事は毎月欠かさず勉強させてもらっていたのだが。
事務所で顔合わせしたとき、互いに「あの頃とお変わりありませんね」との第一声。私は今や老骨に鞭打つ身だが、彼女は昔と変わらぬ姿に母親らしい落ち着きを加え、この間の成長を示していた。高校1年の栄子さんは前日の初対局に無事勝ち、事務所までの中之島界隈の散策を楽しんだ様子であった。力力さんは、手土産に呉先生の「百寿記念」のお祝いの会に向けて揮毫され今や絶筆となった貴重な「河山一局之棋」と題する扇子を持参され有難く拝受した。
話題はやはり呉清源先生のことが中心だったが、特に印象深かったのは、波瀾に富んだ棋士人生を送られた先生が、生涯を閉じられる寸前まで囲碁の道を探求され、最期まで頭脳の衰えを見せられなかったこと、そして70歳の頃からご自分の寿命を100歳と想定され、それ以上は生きている意味はないとよく話されていたとの話であった。そして、百寿のお祝いの際にも同様のことを述べられたが、その言葉のとおりその後間もなく昨年11月30日に天寿を全うされたということであった。長年にわたり先生の身近で取材執筆を勤められたリーリーさんならではの話であった。話は尽きなかったが、帰りがけに私の妻と電話で改めて久闊を叙したあと、ほのぼのとした気分で御堂筋の梅田新道付近でまたの再会を期してお別れした。(続)
私と囲碁 | 2015年5月17日
上海滞在の4日間のうち3日目には、蘇州観光があり、寒山寺や虎丘斜塔、拙政園などの歴史的にも有名な観光地を訪問。この日は呉先生、和子夫人や秘書役の牛力力さん(中国棋士)も参加され、終日楽しい日を過ごす。そして4月26日午後、航空機にて重慶に向かう。重慶で1泊し、いよいよ今回のツァーの本命「長江三峡下り」である。
重慶では、朝から市内観光。長江大橋、人民大礼堂などを廻ったあと、夜「三国東呉号」に乗船。翌朝、船中2泊のクルーズに出発。長江北岸にある鬼城(鬼の町)豊都、三国志に名高い白帝城や張飛廟などの見学を経て、瞿塘峡、巫峡、西陵峡の三峡を下る。狭い川幅を囲む両岸の断崖絶壁が急流の中に朝靄に浮かび上がる雄大な光景には息を呑む思いがした。同行者一同、甲板の船室や室外に出て、岸壁の垂直に切り立った岩肌に取り付く「蜀の桟道」など古代の面影を偲ぶ。西陵峡下流の宜昌付近では既に1993年からダム工事が着工され、流域の市街地の整理も進んでいたが、ダムと水力発電所の完成の日(注:2009年)には名勝旧跡などどうなるのか、思いはさまざまに巡る。
さて、ゆったりとした船中の2日間、碁キチ揃いの参加者は甲板船室に碁盤を並べ対局を始める。互いに初の手合わせだったが、「手談」を通じ一気に親近感を増すのはいつものとおりである。呉先生と牛力力さんが傍らで対局を見守る。私は2日間で5局対局したが、そのうち2局は、文壇本因坊の直木賞作家江崎誠致さんとの手合いであった。第1局は私の黒番で、当時愛用していた3連星から大模様の碁だった。呉先生が「宇宙流ですね」と声をかけられたことを今も覚えている。しかし結果は細かいヨセ合いの末、1目半負けとなった。翌日午後の2局目は、白番中押し勝ちに終わった。
長江の流れを眺めながらの「長考」はなんとも贅沢なもので、この世の幸せを一身に背負った気にさせられる。そして対局中、江崎先生の口から思わず漏れる「朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る 両岸の猿声啼いて尽きざるに 軽舟已に過ぐ万重の山 」との李白の七言絶句の朗唱が唐時代の古を偲ばせる気分に浸らせてくれたものであった。対局のあとには、家から持参した「呉清源全集」第11巻の見開きに呉先生のサインを戴くことができ、今も時々開いてこの至福の時を思い出している。
「三峡下り」は宜昌で終わり、武漢を経て上海に戻り、空路帰国したのは5月1日であった。この旅の途中、呉先生ご夫妻と夕食会、観光地巡りなどでご一緒し、その円熟したお人柄に妻ともども尊敬の念を深めたが、とりわけ妻は和子夫人のやさしい挙措の中で先生に「パパ」と呼びかける言葉に親しみを感じた様子で、以来私に対しても「パパ」と呼ぶようになっている。ともあれ、この旅行は生涯忘れがたいものであった。終わりに、今は亡き呉先生ご夫妻のご冥福を改めてお祈り申し上げたい。(続)
*写真上の手前右が呉師、左が江崎先生、向かい左が牛力力さん。写真下の向かい側は呉師と和子夫人
私と囲碁 | 2015年4月29日
昨年11月30日に100歳の天寿を全うされた「昭和の棋聖」呉清源師にお目にかかる機会は思いがけないことから始まった。昭和63年(1988)の正月から並べ始めた先生の「全集」の棋譜並べが最後の11巻目の半ばに差し掛かった平成8年(1996)2月中頃、同全集の刊行委員会から、4月に上海で行われる「第3回応氏杯世界選手権戦観戦ツァー」の案内が送られてきた。呉先生が同大会の実行委員長を務められるこの機会に、大会観戦に引き続き長江上流の「三峡下り」を行うとの贅沢な企画である。案内の対象は「全集」の購読者であった。正に絶好のチャンス、早速これに応募することとした。昭和16年(1941)から19年(1944)の戦時中に暮らし、その後昭和40年(1965)に再訪して以来23年ぶりの訪中であり、舞台は最高である。そして結婚以来共に遠路の旅をしてこなかった妻への慰労を兼ねての旅行であった。
やがて平成8年(1996)4月22日、成田空港に集合したメンバーは8名、直木賞作家の江崎誠致さん、呉先生の長男信樹氏のほか各地からの参加者6名で、中に私と同じ吹田市からの乙葉寛さんもおられた。同日午後、上海空港に到着し宿泊ホテルの「花園飯店」に向かう。ここで既に現地に到着していた参加者一同と顔合わせをしたあと、ホテルの一室で呉清源先生ご夫妻にご挨拶する機会に恵まれ、しばしの歓談の時を過ごした。このとき先生が「碁は調和です」と話された言葉が強く印象に残っている。
その夕刻、世界大会開催会場「錦江飯店」での前夜祭パーティで対戦組み合わせの抽選が行われ、翌日から5日間の対戦が始まる。当時大竹英雄、武宮正樹、依田紀基9段などの日本勢、聶衛平、馬暁春、常昊9段らの中国勢に対し、曺薫玄、劉昌赫9段などの韓国勢が勢いを増しており、まさに三国志の時代であった。熱戦の模様は、対局場のすぐ脇に設置されたテレビモニターで全局観戦できたので、主に日本選手の対局を見たが、長時間釘付けになることもできず、会場の雰囲気を垣間見る程度に終わり、勝負の結果など確認できなかった。なお、昼の休憩時にホテルの側で大竹さん、武宮さんに出会い挨拶を交わした際、武宮さんが私の妻に「碁はやらないの?面白いよ」とにこやかに声を掛けられたことが印象的で、妻は今もその言葉を記憶し、テレビに同9段が映ると必ずその口調を真似ている。
上海での4日間のうち自由時間があり、妻を連れて戦時中私が通った国民学校や共同租界の旧居住地を尋ねたが、都市開発の進展で昭和40年の訪中当時とは相当の様変わりをしており、遂に旧居には辿り着くことができなかったのは残念であった。(続)
*写真は上海のホテルでの面談風景
私と囲碁 | 2015年4月17日
対局が中盤に入り、白の厚みが地模様になりかけた。置石のハンディが徐々に消え去ろうとしている。こうなってはいけない。やさしい手つきで厳しい手を打つ滝口さんの追い込みに、再三の反撃のチャンスを逸し、ついに白に最後の大場に廻られてしまい、5目の負けとなってしまった。川熊さんの観戦記で紹介された滝口さんの指摘によれば、黒は3回のチャンスがあったとのこと。最近並べなおしてみると、確かにそのとおりである。なぜあのとき必要以上に守りの姿勢に終始してしまったのか、やはり「プロの指導碁を何十局も経験して慣れている人でも雑誌に載る一戦となると格別に緊張するようだ」との観戦子の批評が当たらずとも遠からずだったのだろうか。いい勉強をさせてもらったものだ。
なお、これには後日談がある。昭和36年(1961)の弁護士登録後、検事に任官した同期の逢坂貞夫君の任地には仕事で出かけた際に表敬訪問をして、時間や都合が許すときは一局手合わせすることもあった。岡山、大津、山口に続き、平成5年(1993)当時、同君は熊本地検の検事正を勤めていた。その年の8月末、山口在住の依頼者の相談を兼ねて、山口から熊本に足を伸ばすこととなった。逢坂君には前年発行された「週刊ポスト」の1992年4月1日号と8日号を送り、「残念だったが、いつもの君らしくない遠慮振りだったな」との慰めの言葉をもらっていたが、来訪の件を伝えると、「地検の囲碁クラブの事務官たちに『ポスト』を見せたところ、みんながコピーして研究している。君が来るのを手ぐすね引いて待っているぞ」とのことで、嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な思いをさせられたのであった。
やがて8月末、熊本を訪れ、初日は阿蘇山麓の雄大な山並みに囲まれたゴルフ場でプレーを始めたところ、折り悪しく豪雨と雷に襲われ、午前でプレーは断念。急遽会場を変えて、事務官たちを交え碁盤を囲むことと相成った。このとき何局の手合わせをしたのか記憶にはないが、生憎く当日、例の棋譜を熱心に研究していたという方が不在で、翌日宿で打つこととなった。そして翌日、その事務官の方と対戦。向う二子だったと思うが、熱心な「研究」に圧倒され、僅差で負けてしまった。思わぬ副産物が今なおなつかしく思い起こされるのである。(続)
*写真は「週刊ポスト」1992年4月8日号
私と囲碁 | 2015年4月5日
平成2年(1990)から同4年(1992)にかけて、私は日弁連司法問題対策委員長や司法シンポジウム運営委員長の仕事で多忙を極め、大阪・東京の往来が重なり、囲碁に集中する時間が制約されていた。「爛柯」の月例会での対局や新幹線車中での囲碁雑誌の閲読がせいぜいであった。4月には司法シンポの準備のためドイツの民事裁判の実情調査団の団長として現地訪問の予定が組まれていた。
このような時期に思わぬ話が舞い込んできた。当時囲碁ファンに好評を博していた「週刊ポスト」の「囲碁天狗サロン」への出場の話である。各界の腕自慢が小川誠子6段や小林千寿6段らの女流棋士に置碁の挑戦をする企画で、江崎誠致さんや白川正芳さんらの作家や確か東京の弁護士も登場していたように思う。どういう成り行きで私が出ることになったのか記憶にないが、あるいは「爛柯」のどなたかの推薦だったのかも知れない。自信はないものの折角のよい機会に「好機逸すべからず」の思いで、応じさせていただくこととなった。
平成4年(1992)3月11日午後、会場の「爛柯」に赴き、観戦記者の川熊博行氏から私の囲碁歴などの取材を受けたあと、和室に移り、関西棋院のマドンナ滝口磯子6段との3子局が始まった。滝口さんとは初対面であったが、お父上の芦田礼三先生(医師)とは「爛柯」の例会で何回かお手合わせの機会があり、偶然にもその3日前に対局したばかりであった。
さて、対局は、白1の小目に黒2の一間高ガカリ、白3ケイマ受け、黒4・6のツケヒキから始まった。次は白コスミの守りなら普通の定石だが、予期に反し白7ハサミの変化球が投じられたことから、私の目論見が外され少々戸惑ってしまった。以後辛うじて置石のリードを保って中盤に至ったが、右辺の折衝で仕損じがあり、白の中央が大きな地模様になり少々慌ててしまった。(続)*写真は「週刊ポスト」1992年4月1日号
私と囲碁 | 2015年3月29日
さて対局は、オール互先で持ち時間は1手30秒の時間切れ負け、というアマにとってはトンでもなく厳しいルールであった。もちろんそんな対局を経験したこともない私にとっては、せめて100手までツブされずに打てれば上々と覚悟していた。
やがて抽選の結果、対戦相手が決まったが、なんとそれが早見え早打ちの天才少年15歳の結城聡4段であった。しかも悪いことに私の白番である。
エライことになったと思ったが、とにもかくにも慎重にと心構え対局を開始した。しかし、最初からの秒読みが打つ手を急がせ考える暇もない。しかも相手は直ちに応手を返す。
なんとか序盤を大怪我もなく乗り切ったものの、50手から80手位の中盤戦の大石の攻防戦になると、局面の不利に加え、秒読みに追われる焦りが嵩じ、やがて100手に達する頃には、玉砕への道をまっしぐらに歩むこととなったのも当然の結果であり、むしろ清々しい気分でさえあったことを思い出す。
この対局のあと、トーナメント戦がどのように展開されたのか、優勝者は誰だったのか今は全く記憶の底から消え去っている。ただ当日の棋譜は、帰宅後思い出して確か87手まで記録したのだが、一昨年の事務所の移転に紛れ見当たらなくなっている。その代わりに移転の整理の際、「天満倶楽部」の同年5月の会報を発見し、この記事の参考とすることができたのは幸いであった。また、この会報の出場選手名簿に、私は「6段大阪弁護士会チャンンピオン」と紹介されていたことを知った。
なお、NHK杯囲碁トーナメントで6年間に5回優勝の「早碁の神様」結城9段との再会は、その後22年を経た平成23年のことであった。(続)