弁碁士の呟き

アーカイブ:2014年

私と囲碁(17) 弁護士会囲碁大会初期時代

| 2014年10月19日

大阪弁護士会第1回囲碁・将棋大会は、昭和53年8月5日から始められ、囲碁A級(18名)、B級(43名)、将棋(23名)、計84名の参加のもと、各部門の予選を経て10月から決勝リーグが行われた。囲碁について言えば、AB合わせて61名もの参加があり、大いに盛り上がった。最近10年間の参加者を見ると、A級は15,6名とほぼ変わらないものの、B級は当初の頃から半減どころか12,3名に激減している。当時の会員数は約1400名、現在は約4000名と3倍近く増加していることに鑑みると、弁護士碁打ちのあまりの減少に愕然とさせられる。

それはさておき、第1回大会の結果は、A級で決勝リーグに進出したのが、三宅一夫6段、和島岩吉6段、上田耕三5段、赤澤博之4段と私6段の5名であった。和島先生はリーグ戦を欠場されたため、4人で対局し、3勝同士の三宅先生と私が優勝決定戦で対戦することとなったのである。三宅先生は日本棋院の細川千仭9段と旧制五高時代の級友で、本格的な棋風の当時74歳の大先輩。この大会でも優勝の本命と目されていた方である。私とは初対局だった。

決勝戦の模様は、佐野喜洋厚生委員会副委員長が「弁護士会報」の観戦記で紹介されたが、私の白番を巧みにいなされた三宅先生の貫禄勝ちで終局した。当時の私としても「三宅先生の堅塁を抜くにはまだまだ未熟だと痛感させられた」という感想を寄せている。ともあれ、この大会を盛況裡に終えられたことに理事者の一員として大満足の思いであった。

この大会のその後であるが、第2回は畑良武6段と私の決勝戦となった。同氏は修習生時代に同級の木谷9段の次男明氏の縁で当時四谷にあった木谷道場で、まだ小学校1年生頃の趙治勲25世本因坊に白を持って打ったことが自慢の打ち手で、私とはかねてからの好敵手であった。しかし、私の気合いが空回りし過ぎ、再び一敗地にまみれてしまった(三宅先生は3位)。

そしてようやく昭和55年度の第3回大会で、急速に腕を磨き決勝に進出した新鋭の中森宏5段との激戦を制し、念願の初優勝を獲得することができたのであった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(16) 大阪弁護士会囲碁大会の始まり

| 2014年10月12日

昭和50年代は、私の弁護士としての本業や弁護士会の活動が最も多忙な時期で、特に昭和53年4月からの1年は弁護士会の副会長・日弁連理事の会務で東京行きが多くなった。当時、「荒れる法廷」の対策として、法務省が「弁護人抜きの裁判」を可能とする法案を国会に提出していた。日弁連は、これを被告人の不当な権利の侵害につながる危険な法案であるとして総力を挙げて反対運動を展開していた。この問題の対策委員会担当であったため、時には午前中に日弁連の会議に出たあと、トンボ返りで大阪に引き返し、夕刻の大阪での委員会で対策を協議することもあった。幸い、反対運動が功を奏し、同法案は廃案となり、善処策を協議する場として裁判所・検察庁・日弁連の法曹三者協議の場が設けられた。

幸いだったのは、当年度の大阪会の理事者は、会長の故足立昌彦4段はじめ副会長3名(由良数馬2段、故南逸郎3段、私)が共に囲碁愛好者であり、もう一人の中筋一朗さんも自らは打たないが囲碁の理解者であったことである。それに加え、厚生委員会の委員長が娯楽室常連の津留崎利治2段であった。この委員会の提案に理事者一同が賛同し、会員の福利厚生と相互交流の場として、会の公式戦として年1回の「囲碁・将棋大会」の開催が決まったのである。

こうして昭和53年度を第1回として、囲碁はA、B、Cクラスに分かれてのトーナメント戦が始まり、その後本年度の第37回に至る伝統的行事として定着している。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(15) 下定先生と昭和会

| 2014年10月5日

 昭和40年代から50年代初期にかけては、私の青年期から中年期に至る時期で、結婚や新居への2度の移転、子らの誕生など私生活面での忙しさと修習同期の宮本裁判官の再任拒否をはじめとする司法の官僚統制の強化に反対する弁護士会や日弁連の活動への取り組みなどが重なった時期であった。仕事の面でも多忙であり、あまり弁護士会館娯楽室に出入りする余裕もなく、月1回の橋本誼9段の指導例会で腕を磨くのが主たる修行であった。

 ただ、この時期に、実家の天王寺区の父の碁仇であった近所の薬局の主人が小学生の子供のPTAの役員で、この人から同校の先生に碁の強い人がいると紹介されたのが、下定弘先生であった。同氏は大阪府代表としてアマ全国大会に出場するなど府下有数の打ち手であった。昭和42年頃、父の家で2子か3子で教えてもらったのが始まりであった。そのうち同氏の勧めで、翌年5段に昇進した機会に、元アマ本因坊田口哲郎氏を始め府のトップクラスを含む数十名規模の研究会「昭和会」に入会し、月1回日曜日の例会に出ることとなった。

 同会はA,Bの2クラスに分かれていたので、私は当然にBクラスに属し、順位戦の対局を行った。これが6、7年は続いたろうか、なんとか順位戦でBの上位半分位まで達したかというところで、多忙のため退会せざるをえなくなった。このとき知り合った会の中心メンバー松尾鐘一さんとのご縁が、後日のアマ東西対抗戦参加につながる。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(14) 5段免状争奪戦の結末と正森さん追憶

| 2014年9月28日

 さて「血戦」の火蓋が切られたあとどうなったか。再び引用を続けたい。
「中盤中ごろまで黒必勝といえる形勢だったが、赤沢4段の考えること考えること、実に第1局が2時間40分もかかり、畑ー島田戦は白黒2局が済んでもまだ当方は第1局がヨセにも入らないという調子。遂に黒に甘い手が出て逆転負けと相成った。やはり安易を求めた心のスキが災いしたのである。この第1局が赤沢4段には運のつきはじめ正森4段にはケチのつきはじめで、結局赤沢6戦全勝、畑3勝3敗、正森2勝4敗、島田1勝5敗となり、赤沢5段が誕生したのである。赤沢『4段』は他の5局を約5時間足らずで‌打ったから実に私との第1局に異常な執念をもやしたと言わねばならない。

 そしてこれからがいけない。畑4段のように心臓が強いと、赤沢『5段』何するものぞというわけで、このあとも打ち分けないし勝越しで意気揚々としているが、・・私はつい礼儀正しく『5段』に敬意を表してしまって、その後の成績はすこぶる芳しくなく、遂に5連敗か6連敗を喫し今やかつての『弟子』に教を乞う有様である。相撲界では師匠に土をつけるのを『恩返し』というらしいが私もとんでもない恩返しをされたものである。」

 こうして私は、大方の予想に反して思いがけない成績で「5段」の免状を頂くことになった。因みに、血戦当日朝、正森さんは私の到着が遅いので、もしや時間を間違えてはいないかと私の自宅に電話をかけ、妻に家を出たことの確認をとるほどの「礼をつくし」てくれたようだった。私も意図的に「宮本武蔵」を演じたわけではなかったはずなのだが、今改めて正森さんの名随想を読み、同氏の端正な人間性の裏にひそむユーモラスな側面に触れて、感慨深く往時を偲ぶのである。なお、この血戦のあとしばらくして正森さんら3人もめでたく5段に昇段されたことを付言しておきたい。

 この随想を記された頃、正森さんは弁護士から政治家への転身の準備に専念されており、とても碁を打つことなどできない状況であったが、見事3年後の昭和47年に衆議院議員(共産党)に当選され、以後平成9年に健康上の理由で引退するまで、9期連続国会で舌鋒鋭い質問で華々しい活躍をされたことは多くの国民の知るところである。碁の面でも、国会有数の打ち手として度々碁会での優勝を重ねられていたと聞く。

 この間、正森さんと私は毎年2回、同氏が盆暮れの休みに帰阪されたとき「爛柯」囲碁倶楽部で久々の対局を楽しむのを常とした。ただこの間に一度だけ昭和62年に、大阪弁護士会囲碁大会の決勝戦で相いまみえたことがあり、私が幸いして、その対局の自戦記を弁護士会報に掲載したが、そのタイトルは「兄弟子への恩返し」とした。

 同氏の引退後はゆっくりと盤を囲もうと話していたのに、病気治療に専念されたまま平成18年に79歳の生涯を終えられ、遂に1局も「手談」の機会がないまま約束を果たすことができなかったのは正に痛恨の思いであった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(13) 5段免状争奪戦

| 2014年9月21日

 昭和43年3月当時、「新鋭法曹囲碁同好会」には4人の4段がいた。年齢順に云うと、切れ味鋭い力戦派の雄・島田信治さん、石の形を重んずる正統派の正森さん、じっくり型の地合派・畑良武さん、それに粘り強さを唯一の頼りとする私であった。

 ある日の研究会のこと、橋本9段から、この4人でリーグ戦を行い、優勝者に5段の免状を推薦するとの有り難い提案があった。いずれ劣らず腕に自信のあるメンバーのこと、早速4月の日曜日にOS囲碁センターで「血戦」を行うこととなった。この日のことを正森さんが昭和44年4月発行の「青法協」の機関誌に「私のこの頃」という題でユーモアたっぷりに紹介しているので、少々長くなるが引用させて頂きたい。

 「正11時開始、30分以上遅刻は負けとするという男の約束である。これは何をかくそう正森4段が言い出したもので、かねがね赤沢4段が宮本武蔵の故知にならって人をじらすのを封じようとする深謀遠慮であった。当日いそいそと正11時前に来ると・・・案の定赤沢4段は遅刻である。やむなく3人で抽選となり、第1局に私と赤沢4段が当たることとなった。正直言って私はその時赤沢の『野郎』とは当たりたくなかった。というのは、赤沢4段がいつも碁会は第1局が肝心だと称して第1局に全力を投入し例のパイプをくゆらせて延々と考え込むことを熟知していたからで、気の短い小生のこと、願わくば第2局以降に雌雄を決したいと心ひそかに考えていたのである。

 いやなことになったと思ったが仕方がない。例の早碁でパチパチやっている島田さんを冷やかしながら敵の現れるのを今やおそしと待ち受けた。ところが5分、10分、20分たってもやって来ない。はじめは闘志満々、またもや宮本武蔵をはじめたな、今に見ていろと待っていたが、そこは易きにつきたい人間のあさましさ、時計が11時29分を指した時、なんとなくホッとして第1局は不戦勝で『頂き』かやれ有難いとこちらも念願の『5段』がかかっているだけに、つい普段の正森4段らしくもない気のゆるみが生じてしまった。

 その瞬間、正にその瞬間、戸があいて汗をふきふき『やあ遅くなって』とのたまいながら赤沢4段が現れたのである。時計は11時29分30秒を指していた。規定までにはまだ30秒あるから仕方がない。それではと石を握って打ち始めた。」 (続)

赤沢敬之

私と囲碁(12) 「新鋭法曹囲碁同好会」発足と橋本誼9段の指導

| 2014年9月14日

 やがて、昭和41年に正森さんから、自宅の近所におられる日本棋院関西総本部の橋本誼8段の指導を受ける若手弁護士の会を作ろうとの提案があり、異議なく賛成して仲間集めに奔走した。当時私はほやほやの3段、正森さんは4段であった。仲間の10数人もほぼ有段者かその手前であったが、「新鋭法曹囲碁同好会」と称した会は、毎月1回夜、OS囲碁センターや日本棋院関西総本部に集まり、橋本8段とその父上5段の義平師の指導を受けることとなった。

 橋本8段(その後まもなく9段に昇段)の指導は丁寧で分かりやすい解説で、プロとはかくなるものかと目を開かされる思いがした。その甲斐あってか、1年後の昭和42年に同9段の推薦を得て日本棋院から4段を許された。

 指導の夜の対局(5子から4子、3子へ)はしっかり頭に刻み込み、帰宅後ビールを飲みながらの夕食時に棋譜と講評を記録するのが習慣となった。この会は昭和52年末まで続いたが、この間に指導を願った103局の棋譜は私の宝物として残されている。それにしても、当時は対局後1週間位は手順など最後まで記憶していたのに、今や、自分の打ち碁でも終わった途端すぐ忘れてしまい、棋譜再現など不可能であるのは情けないかぎりである。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(11)  正森成二弁護士との初対局 

| 2014年9月7日

私が弁護士を始めてから2年ほどした昭和38年5月、事務所のボス山本治雄先生が吹田市長選挙に立候補した。このときは現職市長と争い破れたものの、次の昭和42年には無事当選。昭和45年3月からの千里丘陵における日本初の万国博覧会の地元市長として多くの功績を残された。この間、昭和41年2月に事務所は裁判所の斜め筋向いのホワイトビル2階に移り、以来昨年夏まで47年有余の長きにわたりここで執務することとなる。

この時期は、一人残された私にとって、仕事や事務所経営の上で一本立ちをするための試練の時節であった。昭和41年頃からの2年間ほどは仕事に熱中し、なんとか事務所維持の目途がついたので、昭和43年に辻公雄君を私の弟子第1号として迎えた。

そんなふうに仕事に没頭する時期ではあったが、一方で、私の囲碁人生に大きな影響を与えてくれる人物との出会いもあった。昭和37年頃、弁護士会館娯楽室で3子を置いて手合わせをしていただいた先輩の故正森成二先生である。同氏は私の3期上、学生時代の病気療養の関係で9歳の年長であったが、この対局がきっかけで親しくなり、以後仕事の合間を縫っては対局を重ねることになった。正森さんを目標に「追いつき追い越せ」の努力を重ねることが当時の私の課題であった。初めてプロ引退棋士(お名前は失念したが)の自宅の教室に同行し、指導碁なるものを初めて体験させてもらい、「野性の碁だが見込みはある」との嬉しい講評をいただいたことも忘れられない思い出である。(続)

赤沢敬之

pagtTop