弁碁士の呟き

カテゴリ:私と囲碁

私と囲碁(6) 実務修習仲間との対局

| 2014年7月15日

私の場合、大阪での実務修習期間中、囲碁の勉強を始めたものの、碁会所に行ったりすることもなく、専ら同期の友人との対局と父親との実戦だけだったが、「ヘボ碁」の典型であった父親とは始めて程なく強弱逆転し、何目かを置かせることになった。そして、修習終了時にはなんとか2級程度に上達していた。

同期の友人の中では、特に親しかった上原洋允君(元関西大学理事長)と逢坂貞夫君(元大阪高検検事長)は5級程度であったから、専ら「ハメ手」の実験台のようにして、ハマッた相手が悔しがるのを見て喜んでいたことを思い出す。そのタネ本は、当時最強と評されていた坂田栄男9段の「おそるべきハメ手」という新書版で、久しぶりに本棚から探し出し50数年振りに目を通したところ、今尚有効に活用できる解説書であることを発見し、碁の奥深さを思い知らされた次第である。

なお、上記の2人も今や「免状5段」の腕前で、今でもその頃の話が酒の肴となっている。現在、逢坂君とは同君の主宰する定例の碁会で、吉田美香8段指導のもと、時折向こう2子の手合いでの対局を楽しんでいる(続)

赤沢敬之

私と囲碁(5) 司法修習の頃

| 2014年7月7日

司法研修所の2年間、当初はまだ将棋に未練があり、寮大会では優勝したこともあったが、大阪での現地修習に入ってからは、専ら囲碁の道を歩むこととなる。

当時、司法修習は、東京の司法研修所での前期4ヶ月、全国各地に分散しての民事裁判・刑事裁判・検察・弁護各4ヶ月の実務修習を経て、最後の4ヶ月を研修所での統一修習のあと、二回試験で法曹資格が得られる仕組みとなっていた。

この2年間がそれぞれの進路の基礎を固める貴重な訓練の機会で、勉強する課題も多かったが、当時は研修所や裁判所にも自由闊達な雰囲気があったこともあり、それぞれが理想を語り青春を謳歌することができた。生涯を通じての友人・知己を得る機会でもあり、教養や趣味を深め楽しむ余裕もあった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(4) 大学時代―実戦入門

| 2014年7月1日

大学に入ってからは、人並みの勉強や読書、研究会や自治会活動などに追われ、たまに寮や下宿で将棋を楽しむ程度であったが、卒業時分にはなんとか初段程度の力はつけていた。

大学4年の夏には、司法試験があり、その年は年初から下宿と大学図書館の往復生活が続いた。その頃、何気なく読んだ朝日新聞の囲碁観戦記が面白く、毎日楽しみにしていたことを思い出す。

昭和33年の頃だったから、呉清源、木谷実、橋本宇太郎、藤沢朋斎、高川格、坂田栄男など往年の強豪などの棋譜であったと思われるが、記憶には定かでない。しかし、そのお蔭でなんとはなく囲碁に親しみを持つようになったことは確かである。だが、実際に碁盤を前に碁石を握る暇もなく、ひたすら試験勉強に没頭するほかはなかった。

やがて10月、幸い合格の列に滑り込むことができ、卒業まで開放気分の数ヶ月に恵まれた。共に図書館通いを続け合格した友人N君が囲碁を知っていると聞き、学生会館で教えを請うこととなった。当時の棋力はまだ入門の域を出なかったが、大学卒業当時はなんとか15級程度にはなっていた。(続) ※写真は大学1年駒場寮(前列右が筆者)

赤沢敬之

私と囲碁(3) 高校の頃

| 2014年6月23日

高校1年の頃、田舎の3年上の先輩が東大に合格し、帰路我が家に泊まった際、同氏から瀬越憲作先生の「囲碁入門」の基本書をもらい、ようやく囲碁のルールを学ぶことができたのだが、実戦にまで至らぬまま大学に入った。将棋にはずっと高校の好敵手がいたため、大分熱中していたし研究も怠らなかった。
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高校(旧制中学)の大先輩高川格さんが本因坊位を奪取したのが2年生の頃で、先生からその話を聞いたがそれほど関心もなく、また何人か碁を打つ同級生もいたようだったが、彼らとの交遊がなかったのは残念なことであった。後日、何十年を経て、現在は囲碁仲間として定例の碁会を楽しんでいるが。(続)
※写真は高校3年生当時(前列左2番目が筆者)

赤沢敬之

私と囲碁(2) 囲碁との出会い

| 2014年6月12日

徳島では、田舎町の街角の餅屋のおやじさんの店の一角で、夕刻になると近所の人たちが縁台将棋を楽しむのをよく見学したことから、将棋には親しむことができたが、囲碁とは縁がなかった。

大阪に移り、父の建てた工場の母屋で暮らしていると、家に碁盤が置いてあるのを見つけた。そして、住み込みの工員さん2、3人が夜になると烏鷺(黒白)を戦わせていた。これが碁とのかかわりの第一歩であった。どうやら父が戦後上海で2年ほど行動制限をされていた間の暇時に、知人から碁の手ほどきを受けたらしい。父もたまに工員さんの相手をしていた。

当時、ルールもろくに知らない私が少しは碁を知っていると称していた近所の同級生と見よう見真似で一局打ってみたが、盤上石なしの散々な目に会い、何回打っても同様だったので、なにやら悔しく、もうやめたということになり、高校1年まで石を握ることがなかった。今になって悔やまれるところだ。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(1) 時代と境遇

| 2014年6月2日

私が碁盤なるものを初めて目にしたのは、昭和24年春、中学2年生の頃であった。徳島の田舎町から大阪の学校に転校して、天王寺区の焼け跡に父が戦後建てたバラック家屋に移ってきたときであった。

明治生まれの父は農家の三男で、外地で一旗揚げるべく昭和13年頃から単身上海に渡って自動車修理工場を始めていたが、仕事も順調にいっていたようで、昭和16年10月「大東亜戦争」開始直前に、家族一同を現地に呼び寄せていた。当時私は、「国民学校」入学前。やがて真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争に突入したのだが、そのあたりの話についてはまた折に触れて書き留めていきたい。

ともあれ、それから3年後、祖国が敗色濃厚との情報が現地に届き外地での敗戦を避けさせたいとの父の判断で、敗戦の前年秋に家族は父を残して海路門司港に帰国し、徳島の父の実家に身を寄せることとなった。

父が帰国したのは戦後2年を経てからだったが、大阪で再出発した自動車修理業がなんとか軌道に乗り始めたこともあって、私も中学2年で大阪に移ってきたのであった。こんな時代と境遇であった。(続)

赤沢敬之

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