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囲碁雑録(12)-1988年『兄弟子への「恩返し」』⑤

| 2017年7月14日

(④から続く)

喰うか喰われるか (第三譜)

 私が迷いの揚句選んだのは、黒―であった。
上から利かし相手の受け方を見て、また下からも侵入しようという虫のよいことを考えたのである。
これに対し、白が冷静に上辺を守っていれば、まだまだ息の長い碁になる。
ところが、正森さん、白12以下グイグイと押しつけて黒を取りにきた。
一見して白が無理と判断されるが、勝負に出てきたのだ。
一気に白黒の石が絡み合い、中盤の勝負所に入った。

 白22が敗着であった。
ここでは、19の左に切り黒25からコウになる複雑な変化がある。
石井九段によると、正確に応酬すれば、コウ材は黒が多いので黒が勝つだろうとのことだったが、複雑なヨミが要求されるところなので、私も多分間違いを犯し、勝敗はどちらに転んでいたか分からない。
黒49まで活きて白―の中央の大石は二眼を作れそうににない。
ここで私は、ようやく勝ちを意識することとなった。
しかし、黒45が無意味な悪手で白48・50の二段バネを許し、左辺の黒への白の必死の抵抗を招いてしまった。
しかし中央の白を活かした代わりに、左辺の白七子を取って、先手を利して右辺黒81のツケに廻ることとなり、勝ちを見ることができたのだった。
あとは白の投げ場の形作りとなり、約三時間半に及ぶ熱戦も幕を閉じたのである。

 ところで、第三譜の黒1は、じつは方向違いであり、厚みを地にしようという浅はかな考えであった。
黒がここで38と右上隅を押さえ、21かその一路下に断固打ち込んでいたなら、白は左上隅が薄いため、黒の中央の厚みが働いて一挙に黒が勝ちを制する展開になっただろうと、石井九段の判定である。
私も対局中それを考えないではなかったのだが、キメどころになるとつい悪い方に手が動いてしまうのは、情け無いがこれがアマの習性であり、反省しなければならないところなのである。
もっとも、そんなにウマク打てるのなら、私もとっくに弁護士稼業をやめてプロ入りしていたかもしれないのだが?・・・・・。

(⑤へつづく)

赤沢敬之

囲碁雑録(11)-1988年『兄弟子への「恩返し」』④

| 2017年7月7日

(③から続く)

白の打ち過ぎ (第二譜)

 第二譜に移り、黒1から11まで左辺に根を下ろしたが、この間に白が8でなく9の左にケイマしておれば、黒は相当窮屈な姿で戦わなければならず困っただろうとのことだった。
だから、黒5で7と引き11と二間に構えるのが普通だった。危うく難を免れたのである。

 さて、白は右上隅に12とツケて利かしにきた。
これに反発して黒15にノビたのはよいが、17はあまりに緩い。
18と押さえれば、白が隅で小さく活きても上辺が薄くなり、大勢が黒に傾く筈だった。
白12では、19の左に開くのが普通。
また、黒21では、19の上に押さえるのが先手で保留の必要はない。

 黒21までで先手を握った白は、待望の左下隅の28にシマリ。
黒29から41までの攻防では、白29は33にツケる方がよく、また白38・40は単に61にトブベきだった。
この辺りはプロの眼から見るとお互いに失着の連発だが、指摘するとキリがないので省略。
白の打ち過ぎの大なるものは、42のスベリであった。
このため黒は、チャンス到来とばかり43から55まで白をシメつけて自軍を強化し先手を握ることとなった。
42で白が43の上にひかえて開き左下の地を確保しておれば、黒は骨ばかりで肉がなく容易な形勢ではなかったのだ(対局中私もそう考えていたのでホットした)。
また白50も悪く、51と一歩退いて堅実に守っていればシメつけはなかった。
白62までで黒が先手を握り、黒やや優勢といえる。

 さて、次の一手である。
当然に白の薄い上辺に眼を向け、しばしの考慮。
白2とイの間に打ち込み勝負に出るか、あるいはイの上からのぞみ中央に地をつけるか。
ここが思案のしどころと長考に入る。

(⑤へつづく)

赤沢敬之

囲碁雑録(10)-1988年『兄弟子への「恩返し」』③

| 2017年6月30日

(②から続く)

新手登場 (第一譜)

 さて、初めに書いた予感が見事に当たり、正森さんは準決勝で優勝の最右翼と目されていた中森宏さんに激戦の末勝ちを収め、吉永三治さんのシチョウの見損じに救われ決勝に進むことができた私との対戦が実現することになった。
久しく胸を借りてきた兄弟子への「恩返し」の絶好の機会である。

 正月休みに私は、「棋道」の1月号で、昨年11月の天元戦挑戦手合い第二局において趙治勲九段が小林光一棋聖に試みた、大ナダレ定石の「革命的新手」と評された一手を紹介する棋譜に接した。
解説には、従来の手段との比較検討とこの新手の値打ちが書いてあったが、この新手に対する適切な応手については将来の検討課題であると記されていただけであった。
私は、この一連の手順を記憶し、できればこれを使ってやろうとヒソカに考えていたのであった。

 1月16日の午後、会館4階でいよいよ対局開始。
立会人兼記録係をお願いしたのは、2年前の優勝者で今回は日程の都合で参加されなかった強豪上田耕三さん。
隣りでは中森・吉永さんの三位決定戦とB組決勝の布井要一・福村武雄先生の一戦も開始されている。
観戦には、若手の有望株西垣昭利さんや娯楽室の常連で研究熱心な大野峯弘先生、香川文雄先生などの顔も見える。

 対局前の雑談で、正森さん日く、「上原洋允さんから、赤沢君はもう勝った気分でいるとの話を聞いたよ」と軽く牽制球。
握って私に黒番が当った。
「これは作戦をたてやすいぞ」と思うかたわら、「テキもさるもの、なにか勝負手を放ってくるのではないか」と予想した。

 序盤の布石は、碁の骨格を決める大事な段階である。
黒1・3・5に白は6と高ガカリ、私は黒7と下にツケて簡明な定石の展開を予定した。
ところがである。
白は、一瞬の躊躇もなく8と突き当たってくるではないか。
ナダレである。イヤな予感がした。
やむなく定石の手順に従い白16まで進み、しばし小休止し次の手を考える。
ここは定石選択の岐路である。
21の点に曲がるのが外マガリ、17が内マガリで、その後の展開が大きく異なる。
チラッと先に紹介した新手が浮かぶ。
外マガリを選べばこの手は避けられるのだが、テキの勉強ぶりを試してみるのも一興と、ついいたずら心が出て黒17と内マガリの方向に向かう。

 難解定石ながら双方間違えることなく黒33まで進んだところ、ついに出た。
白34のツケ、これこそ例の新手ではないか。
「やっぱりか!」と思わず叫び声。
ニヤリと笑った正森さん。「してやったり」の会心の笑みである。
仕掛けるつもりが逆になり、私もややうろたえたものの、そこはポーカーフェイスを保ちつつ、小林棋聖にならって黒35と応える。
白38までは、天元戦と殆ど同じの堂々たる運びである。
新手を逆用されやや黒不利とはいっても、それはプロの高度な次元での話。
アマにとっては序盤でのこの程度の有利不利は、実際には大勢に影響はないといってもよいのだが、相手の思うツボにはまったという心理的負担は拭えない。
ただ、黒35はグズミといわれる愚形で普通はこうした形を打つと叱られる手だが、棋聖の打った手であることを研究していたためにこれを借用することができたのは幸運であった。
もし、これを知らなかったとすれば、おそらくは私はこの手には思いも到らず別の手を選び、この段階で大打撃を受けテキをさらに喜ばせていたことだろう。
その意味で、私の正月の勉強も役に立つたということになる。
先日たまたまお会いした機会にこの棋譜を検討してもらった日本棋院の石井邦生九段からも、この段階については、「お二人ともよく研究していますね」とおほめの言葉を頂いたのであった。

 ところで、黒39からは私本来の手となり、やっとプロ対局の次元からアマの碁に戻る。
下手に棋聖のサル真似を続けると、相手の研究にハマつてしまうと警戒したのである。
黒39から47まで、少考しながら中央にトビ、白は48と上辺に開く。
私としては、この新手のためにやや遅れをとったかと考えていたが、石井九段に訊くと、白が42が重く(一路左にトブベき)黒がややリードの形勢とのことである。
プロの感覚は分からないものである(以下の評は同九段による)。

(④につづく)

赤沢敬之

囲碁雑録(9)-1988年『兄弟子への「恩返し」』②

| 2017年6月23日

(①から続く)

 やがて国会に出られ、とても時間の余裕など見つけることのできない環境に身を置かれた正森さんとの対戦は、7、8年間は途絶えることとなった。
仄聞するところでは、こうした時期でも、正森さんは議員宿舎での僅かな夜の余暇には独習怠りなく、議員の大会で度々優勝を勝ち取られていたそうである。

 その後、今を去る7、8年ほど前からは、議員の仕事に実績を重ねられ多少のゆとりもできたのであろうか、必ず盆暮の休み前になると、東京から「今日国会が終わり明日帰阪する」という夜の電話が私の自宅に掛かるのが習わしとなった。
私の子供など、「衆議院議員の正森です」という電話に、「なんでお父さんにそんな人から電話がかかるの」と怪訝な表情で取り次ぐ始末である。
私もそうした時節になると、そわそわして、そろそろ電話がある頃だと思っていると、だいたいはそれが的中するのだった。
そうして毎年2回は、約束の碁会所に赴き、半日をかけて恒例の対局を続けてきたものである。

 最近では、私が白を持つことがやや多くなったが、決して正森さんの棋力は衰えるどころか、多忙な激務の中にありながら、なお上達の一途を辿っているのには感心させられる。
ともかく、私と同様無類の碁キチである。
棋風は、昔から本格派であったが、この頃はとみに力強さを増し、立派な六段の実力を備えている(関西棋院六段の免状はすでに取られ、さらに東京での日本棋院の認定大会や通信講座でもその資格が認定されている。かつて故押谷富三先生宅での黒田了一先生の大阪府知事時代の碁会で正森さんの対局を見たという関西棋院の石井新蔵九段も実力六段の太鼓判を押されている)。

赤沢敬之

囲碁雑録(8)-1988年『兄弟子への「恩返し」』①

| 2017年6月16日

頭の上がらぬ兄弟子

 昨年11月、弁護士会から送られてきた第10回囲碁大会A組トーナメント組合せ表を見て、もしかすると今回は正森成二先生(以下正森さんと呼ばせて頂く)との公式対局が実現するかもしれないという淡い予感のようなものが、フッと私の脳裏をよぎったことを思い出す。
といっても、その組み合わせが実現するためには、両者が強豪ぞろいの互いの山をうまくくぐり抜けて無事決勝戦に進出するのでなければならず、その確率は極めて低いものだから、この予感にはなんの根拠もあったわけではない。
多分に私の希望的観測以外のなにものでもないが、そのようななんとも不遜というはかない予感を抱いたのも、正森さんと私との26年以上にわたる「憎さも憎しなつかしき」碁仇の連綿たる因縁が背景にあったからだとおもわれる。

 正森さんは、私が弁護士を始めた頃からのこの道の兄弟子である。
昭和36、7年当時、まだ2、3級程度の実力であった私は、旧弁護士会館で時折大先輩の和島岩吉先生に五子、島田信治先生に三子置かせてもらうなどして勉強していたが、正森さんとの手合わせもおそらくはそうした機会が初めてではなかったかと今は定かではない。
たしか正森さんは、初段になりたてぐらいの頃で、私がニ・三子を置く手合いであった。
どの道でもそうだと思うが、囲碁の場合でも、あまりに実力差があり過ぎる相手には、教えを乞うという意識が走り過ぎて敵気心も沸かず、相手を上達へのスプリングボードとすることがなかなかできないものである。
「追いつき追い越せ」と自らの励みとする目標には、射程距離が二子ぐらいの上手がちょうどよいし、喜びと悔しさ、それに勝負の機微も味わえる。正森さんが、私にとって恰好の目標となったのも、そうした事情に因るところが大きい。

 昭和38年に、自宅で道場を開いていた関西棋院の退役棋士のところに連れて行かれ、試験碁を打ってもらい、「野性の碁ですが、見込みはあります」という講評と初段の免状を頂戴したのも、正森さんの推薦によるものだったし、41年頃から10年以上にわたり、正森、島田、服部明義、鬼追明夫、畑良武、大錦義昭、木村五郎さんなど若手(当時は)のそうそうたるメンバーで構成された「新鋭法曹囲碁同好会」で毎月1回は指導を受けることとなった日本棋院の橋本誼九段を師匠として迎えたのも正森さんのおかげであった。
また、昭和54年から6年余をかけて、延べ2万図を超える「囲碁大辞典」を読破することができたのも、正森さんがこれを座右に備えているという話に触発されたからでもあった。
私にとっては、かように頭の上がらぬ兄弟子が正森さんなのである。
もし正森さんに会っていなかったら、私もこれほどこの道に深入りしてしまうこともなく、もっとほかの道でよい仕事ができていたかもしれないが、おそらくはまたこれはどの玄妙な味合いや醍醐味を経験することがなかったこともたしかであろう。

 正森さんが昭和47年12月の衆議院選挙で当選されるまでの間は、会館や双方の事務所、碁会所などで絶えず打ち込み制の勝負を争い、はては、たまたま出会った茨木簡裁で顔なじみの書記官に頼み込み、古い宿直室で盤を囲んだこともあったほどである。
このときは、私が三子まで打ち込まれ、挽回に必死の状況だったと記憶する。
44、5年頃には、両者とも「貴殿棋道執心所作宜敷手段益巧」ということで五段を免許されていた。

(②につづく)

赤沢敬之

囲碁雑録(7)-1986年『ハンさんの「宇宙流」』④

| 2017年6月9日

(③より続く)

バリトン歌手ハンさん

 やがて対局は終わり、200人を上まわる参会者による親善パーティの場に移った。
吹田市長の歓迎の言葉や日本棋院代表など関係者のあいさつのあと、それぞれの懇親の輪があちこちに花開いた。
私もハンさんをつかまえ、オーストラリアの囲碁事情を聞く。
ハンさんは、メルボルンに住んでいるが、同国の囲碁人口は200人位で、ハンさんが抜群の力をもつ第一人者であるため常に代表になってしまうので、世界大会の選抜予選には3年に1回だけ出場することにしているとのことである。
因みに、メルボルンでは2か月に1回位しか対局しないが、ナンバー・ツーはハンさんに七子を置く初段だそうである。
シドニーにはもう少し強い人もいるようだが。
したがって、ハンさんの勉強は専ら日本のプロ棋士の打ち碁に拠っているのだろうと、さっきの「武宮宇宙流」を思い浮かべながら考えたものだった。

 さて、宴たけなわを迎えそれぞれのお国自慢の美声が披露されることとなった。
世界大会優勝の陳さん夫妻のデュエット、西独選手のドイツ民謡、ソ連・チェコーポーランド選手、役員のカチューシャの合唱、地元勢の黒田節など賑やかなうたごえのあと、ハンさんが指名された。
さてなにが飛び出るかと期待していると、音吐朗々たるバリトンの響き。
会場はとたんに静まりかえった。
曲目は忘れたが、確かオペラのアリアである。
声量豊かな見事な歌いぷりは並の素人ではない。
ああそうだ、と確か三年前に聞いた話が甦ってきた。
彼はメルボルン大学の声楽科で本格的に修業したプロ歌手で、時々今でも舞台に立つということだったのだ。
満場の拍手を受けて舞台を下りるハンさんの雰囲気は、碁打ちというよりもまさに声楽家のそれであった。

 時は移りパーティもやがてお開きとなり、それぞれが一日の充実した戦いや親善交流の貴重な思い々胸に深く刻み込みながら、またの再会を期して会場を後にしたのであった。
果たして3年後、三たびハンさんに相まみえる幸運に巡り合えるかどうか、いや是非その機会を作りたいものだと考えながら、その日のために私も一層の精進をせねばとひそかに心に期するのであった。(終)

赤沢敬之

囲碁雑録(6)-1986年『ハンさんの「宇宙流」』③

| 2017年6月2日

(②より続く)

ハンさんの返り討ち

 握って先番のハンさん、1、3、5と早速三連星の布陣を敷き、6手目に小目にかかったこちらの白石を一間にハサむ。
白8で3三に入ると黒スミを押さえ、以下型どおりの定石で白を左下に閉じ込めて、足早に15と上辺星に打ち大模様を指向する。
白続いて右上星から訪と大ゲイマにシマルと黒天元に打ち、四角の大風呂敷を広げサアお入りと誘う。
これぞ今をはやりの「武宮宇宙流」である。
テキも流石に日本碁界の潮流の研究におさおさ怠りない様子だ。

 布石は黒一歩のリードか。
ここで白18とハネ出したのがやや性急で、黒の中央を強化するお手伝いのキライがあった。
あとで考えると、18では黒の誘いに乗ってAに敵中深く単騎カカり、黒模様を早めに荒らすべきであった。
黒29とカンヌキを下ろされると黒陣は厚く、容易には入れそうにない。
やむなく白36あたりから手をつけて40から52まで黒の包囲網に風穴を開けた。
これは白成功だったが、原因は黒39にあった。
黒がこの手で23の一路上に引いていれば、こうはならなかったのである。

 しかし、チャンス到来と喜んでしまったのが小生の悪い癖である。
黒55に守ったとき、ここでBあたりに一手模様見の斥候を黒陣に放ちこれを囮にしておけば、間違いなくナダレこみが成功したはずであった。
しかし、やんぬるかな。
小生慌てて56と中途半端な手で侵入を図ろうとして、64までやや腰が伸び形がウスくなってしまったのである。
これを見逃すハンさんではない。
69から逆襲のキリ一発で自陣への侵入を最小限に止め、白の大模様が出来上がろうとする寸前を捉えて、スミの3三に入り、返す刀で白の中央の地を喰い破ってきた(残念ながら87手以下記憶が薄れ正確な棋譜を再現できない)。

 ここから接近戦の激闘が始まったが、ついに黒の有利なコウ争いに入り、最後の勝負どころを迎えてしまったのである。
悲しいことにこちらはコウ材が少ない。
熱戦数合コウ争いは黒の勝ち。と同時に碁は終わってしまったようである。
黒の確定地は60目を下らない。
コミを加えても白には50数目位しか見込めない。
終盤には黒の厚みがなお働きを増すことになると予想され、その差は益々開くだろう。
やむなく小生玉砕戦術に出るほかなく、起死回生の勝負手を放つが、冷静に受けられて遂に投了。
残念ながら三年前の敵討ちはならず。
しかし、熱戦のあとの高揚した気分は爽快であった。
局後の検討には、オランダのシュレンパー六段に惜敗した畑さんも加わり、なごやかにお互いの好手や悪手を指摘し合い、握手を交わして次の対局に移ったのであった。
やはりアジアの強豪ぞろいの国の代表には劣るとはいえ、ハンさんの力は立派なもので、「士は三日会わずんば、即ち刮目して待つべし」と「三国志」で呉の旧阿蒙が語ったとおり、三年間の進歩は流石のものであった。
返り討ちには会ったものの不思議に充足感が私の身内にたちこめていた。

 第一回戦は、世界アマ側の22勝10敗、第二回戦は日本側の選手交代で行われたが、これも先方の23勝11敗という圧倒的勝利で親善対局の幕が降りたのであった。
服部さんも確かイギリス選手に歓迎の白星を進呈したようだった。
会場では、大竹英雄碁聖や石井邦生九段などが中国・香港選手や青い目の棋士たちに打ち碁の検討と遠慮ない厳しい批評や手直しをし、外国選手はまたとない機会と懸命に指導を受けていた。
言葉は違っても互いに有無相通ずるところは、碁を共通の友とする者たちの親善溢れる風景である。

(④につづく)

赤沢敬之

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