囲碁あれこれ | 2020年1月27日
私の本業である弁護士業務の中で主たる仕事は民事裁判事件であり、主たる趣味は囲碁である。共に相手方との熾烈な戦いを繰り広げ、終局的にはいずれかの側が勝ちを収めるのが通例である。
ただ民事裁判では、当事者双方の言い分の相当性に応じて「和解」という解決が用意されている。
同じ勝負事であっても、将棋の場合はいずれか一方が完勝という結果で終わるのに対し、囲碁の場合はジゴという引き分け(「和局」という)や1目勝ちという僅差など勝敗の目数が表示されるので、対局者にとっては心理的な受け止め方が緩やかな面がある。
裁判に例えると、大まかに言えば囲碁は民事事件で将棋は刑事事件と対比できるのではないか。
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さて、ここでは囲碁と民事裁判の流れと勝敗を決するために必要な力量は何かを考えてみたい。
裁判においては、まず依頼者からの事情聴取の段階で、その言い分の正当性や用意できる証拠の有無を大局的に判断し、裁判所にその主張を提出する。
囲碁における布石の段階である。
ここでは、いずれも大局的な判断力、直観力が要求される。
双方の主張が出揃った段階で、証拠書類提出や証人尋問等の証拠調べに入る。
囲碁における中盤戦の攻防である。
ここでは、双方の用意した主張や証拠を綿密に調べ、法令や判例の知見に基づき、当方の主張の正当性と相手方の主張の矛盾や不当性を追求する。
囲碁においても同様で、定石や手筋、古今東西の棋譜の知識に基づき、相手方の弱点を衝いたり、予想外の新手を繰り出すことが求められる。
言わば知識力、分析力、思考力が要求される。
やがて証拠調べが終わり、裁判所の判決を待つか、或いは双方の合意に基づく和解の手続きに入るかという終局段階を迎える。
対して、囲碁における終盤では、詰碁やヨセの正確な判断力が不可欠である。
ここでは、最終解決をどうするかという決断力も試されることになる。
このように考えると、裁判においてもまた囲碁においても、大局観、判断力、直観力、思考力、分析力、知識力、決断力、持続力の養成が不可欠であり、その総合としての人間力の絶えざる練磨・精進が欠かせない。
及ばずながら私もそのための努力を重ねたいと念願する新年である。
(ニュースレター2020年新年号より)
私と囲碁 | 2019年9月19日
「縁は異なもの味なもの」とは、古来予測できない人生の面白みを表す諺だが、私にとっては、これに「碁」という一文字を足すだけで語りつくせぬ囲碁と人生の深み面白みを表す言葉となる。比叡山律院の叡南俊照阿闍梨師との出会いはまさにその典型的な一例である。
阿闍梨さんは昭和18年生まれ、昭和54年に戦後8人目(現在まで約40人)の千日回峰行(約30キロの比叡山の山道を1000日歩く荒行と堂入り後の9日間の断食、断水、不眠、不臥)を達成された高僧で、無類の囲碁好きの自称5段(一般の碁会では6、7段か)の打ち手である。
私とは思わぬご縁でお知り合いになり、平成26年7月と翌年3月に律院を訪れ、護摩焚き祈願に参列したあと、烏鷺(注:囲碁の別名)を楽しんだ。
2回目の訪問には高津高校同窓の向山さんと同行し、私は2局(向先)、向山さんは3子で1局打った。
さて、その碁縁とは、平成26年に同窓の前田さんから、従姉妹のMさんのご主人の法律問題の紹介を受け、無事案件が解決したあと、前田さんとMさんが事務所に来られた際、たまたま私の「医師弁護士対抗碁会」での対局が紹介された囲碁雑誌「梁山泊」を一冊欲しいとのことでお渡ししたところ、律院に奉仕をされているMさんが阿闍梨さんに見せられたようで、是非一度来院をとのお話があり、Mさんたちとともに平成26年の夏に訪問したことに始まるものだった。
高僧でありながら(だからこそ)、腰の低いやさしいお人柄の方で、修行中も囲碁を楽しみ、毎週火曜日には宿舎で碁会を催される(現在は中止)ほか、これまでに全国の105の碁会所を回られたという驚異的な記録をもっておられる。
この訪問がきっかけとなり、その後平成27年4月から、私たちの高津囲碁会に毎年1,2回は秘書役の囲碁愛好者の方と共に参加され、7段格で無類の早打ちを披歴されている。
碁会のこととて、ゆっくりとお話をお聞きする時間がないのが残念だが、そのうち千日回峰行の話や法話などをお伺いすることができればと期待する昨今である。
(ニュースレター令和元年夏号より)
囲碁あれこれ | 2019年4月17日
高川さんの棋風は、「流水先を争わず」をモットーとする合理的で大局観に明るいものであった。温厚な学者肌の人柄で、ユーモアに溢れ多くの囲碁ファンに親しまれた。
さて、このような大先輩に私か初めてお目にかかったのは1968年(昭和43年)の夏、先生が高野山での坂田本因坊と林海峰九段との本因坊戦の立会人を務められた後、浜寺での高津囲碁会に参加されたときであった。
私か高津に在校中、「本因坊を獲得した高川さんは君たちの先輩だ」と囲碁好きの先生から教えられた記憶はあったが、当時私は将棋に凝っていて囲碁にはあまり関心がなく聞き流していただけだった。その後私は、大学後期から司法修習生の時代に囲碁に熱中し、弁護士になってからは各種囲碁の会に出て、1968年にはアマ四段になっていた。
当時、高津の先輩達は定例の囲碁会を催しており、私も新参者として入会していたためこの碁会に列席し、高川さんが三面打ちの指導をするのを観戦したが、順番が回らず、折角の機会を逸し残念な思いをしたものだった。碁が終わり宴会の場で、それぞれが名誉本因坊に色紙の揮毫をお願いした。花押を所持されていなかったため墨書のみだが、貴重な銘品として今も私の書斎に飾られている。
高川さんにお会いしたのはこの1回限りであったが、その後先生との「碁縁」は長く深く続くことになった。 1982年10月から1987年2月までの5年有余、『高川秀格全集』全8巻の対局譜を毎朝1局ずつ並べるのを日課とし、1118局を並べ終えたときは、すっかり高川流の棋風に感染した気分になっていた。因みにその頃には六段の免状を頂く棋力にはなっていたようだ。
こうした偉大な先輩の驥尾に付して、今私は「弁碁土」と称し、弁護士会や同期生を中心に結成した高津囲碁会で研讃と普及に努めるのを残された人生の生き甲斐としている。どうか同窓の囲碁愛好者の皆さん、一度年4回の高津囲碁会を覗かれては如何でしょうか。
赤沢敬之(高校6期)
(「大阪府高津高等高校創立100周年記念誌」寄稿)
【高川秀格 プロフィール】
1915年9月21日生、本名高川格。和歌山県田辺市出身で、1928年に旧制高津中学入学の11期生である。同年に日本棋院初段としてプロ生活を始める。 1933年17歳で上京。 1952年の第7期本因坊戦で挑戦者に躍り出る。橋本宇太郎本因坊に4連勝して本因坊に。以後1960年まで本因坊9連覇の偉業。 1961年に坂田栄男九段に城を明け渡したが、その後も各種棋戦で活躍し「不死鳥」と呼ばれた。 1964年に高川秀格名誉本因坊を名乗り、1986年71歳で死去。昭和を代表する名棋士の一人である。
囲碁あれこれ | 2019年2月13日
私の囲碁歴は1958年大学4年の頃に遡る。ざっと60年である。多忙な弁護士の仕事や弁護士会の活動の合間によく飽きもせず続けてきたものと我ながら感心せざるを得ない。現在日本棋院の免状6段であるが、歳を重ねるごとに囲碁の尽きせぬ魅力に取りつかれ、棋力向上への果てしない欲求とともに、できるだけ多くの人にこの魅力を伝えたいと願っている。4年前の事務所のホームページ開設の機会に「弁碁士」と称し、「私と囲碁」のコラムを掲載することとした。現在50話で中断しているが、近く再開の予定である。
さて、ここで紹介したいのは、故中山典之日本棋院6段の「囲碁いろは歌」の一首である。
「いろは歌」は、すべての仮名文字を一度ずつ使って作る歌で、古来空海作と伝えられ日本人なら誰でも幼少時から口ずさむ歌だが、同氏は1994年発行の「囲碁いろは歌」で囲碁にまつわる「いろは歌」をなんと84首も作り、囲碁の文化的魅力を存分に披歴している。まさに棋士であり文士の面目躍如である。私がこの中でお気に入りは「神造歌」と題する次の一首である。
「神造りぬる囲碁楽し 世に夢を得て幸多き 争う人も懸念せず 烏鷺笑む山は平和なれ」
今、我が国の囲碁人口は、かつての1000万人台から激減し、近時の調査では250万人とも報ぜられている。「琴棋書画は君子のたしなみ」と称されてきた囲碁は、論理的思考力や大局観の訓練に役立つだけでなく、忍耐力、持続力を養い、また人との交わりにも大きな役割を果たすものである。世界への普及度は、中国、韓国を筆頭に70か国で4000万人に達する現在、江戸時代の日本において伝統的な文化資産として練り上げた囲碁の盟主の地位を復活させたいものと素人ながら願うこの頃である。
(ニュースレター創刊号より)
追記。改めてインターネットで見ると、中山6段、84首どころか生涯で千首以上のいろは歌を作られたそうだ。なんともはやである。
私と囲碁 | 2019年2月6日
私の故郷は、徳島県鳴門市の田舎町である。昭和11年から16年10月まで居住し、その後父が自動車修理工場を経営していた上海に渡り、国民学校3年の2学期まで上海の共同租界で暮らした。当時日本国内では、太平洋戦争での戦局を国民に偽り、国家総動員体制で鬼畜米英に対する戦意を鼓舞していたようだが、外地では日本はもう負けるとの情報が伝えられたため、父を残して軍用貨物船で7日をかけて命からがら門司港に帰国した。
帰国後、故郷の鳴門市で国民学校3年から敗戦後の新制中学1年まで暮らした。居住地は淡路島に面する海岸に近く、昭和19年12月の南海大地震の津波騒動などがあったが、戦中戦後の大変動期をここで経験した。
今回、長男秀行の提案で、10月7、8日の連休に、私が戦争末期から敗戦後の少年時代に暮らした鳴門を訪問し、昔の住まいの付近や岡崎海岸を散策する旅の企画をした。
岡崎海岸から大鳴門橋を望む
孫たちは残し、7日に、妻と子ども4人が神戸から高速バス明石大橋を渡り、淡路島を縦断して、鳴門大橋から土佐泊りの鳴門ルネッサンスホテルに着いたあと、昔私を導いてくれた3年先輩の内田英明さんのお宅を訪問した。その後、母校林崎小学校までの通学路を経て岡崎の旧家や家の前の西宮神社に参詣し、海水浴を楽しんだ岡崎海岸に出て夫婦岩や淡路島を遠望した。夕刻ホテルに帰り、夜の阿波踊りショーを楽しみ、翌8日には大塚国際美術館を見学する慌ただしい旅程で神戸まで帰って来た次第であった。
この旅の眼目は、子どもたちに父の幼少時のルーツを教えることであったが、同時に内田先輩に50年ぶりに会い久闊を叙し、私の小学6年から中学1年当時の思い出話を子どもたちに聞かせることだった。
内田さんは、私の旧宅の近くに住む3年先輩で当時鳴門高校1年の故佐藤喜久男さん(元小学校長)の同級生で秀才の誉れの高かった方だったが、なにかの縁で高校生のグループに中学生ただ一人入れてもらったのがきっかけで多くの教えを受けたものだった。確か、当時岡崎で英語を教えていた倫敦帰りの的場先生の塾に入れてもらい、タイプライターを初めて見て驚いたことが記憶に残っている。
同氏は、その後東大に進学し、卒業後は故郷の大塚製薬株式会社に69年間勤務し、現在は「大動脈解離」の後遺症など多くの病気を抱えながら、クラシック音楽、歴史書やチェス(3段)の研鑽を続ける前向きの生活を送っている。若い時には、囲碁5段、将棋4段の免状を得られたが、今は「初段程度の実力」とのことである。
さて、内田さんのお宅を訪れたのが午後 時頃、奥様とともに玄関先まで出迎えを受け、開口一番「首を長くして待っていました」との挨拶に一同感激。応接間での対話は70年も前の昔話に及び、昭和26年同氏の大学入学後の帰省の際、大阪の拙宅に寄られ、当時高校1年だった私に囲碁のルールの指導をしたことにも触れられた。この時頂戴した瀬越憲作9段の「囲碁読本」が私の囲碁入門の原点であった。しかし、私がその後囲碁の実践に取り組むようになったのは昭和33年秋、大学4年の司法試験合格後で、この間は好敵手のいた将棋に情熱を燃やしていたのだった。司法修習生の時期から今日まで60年にわたり囲碁に熱中し、その尽きせぬ魅力に今なお飽きもせず取りつかれている現在、「あの時から始めていたなら今頃は」との感懐を催させられた今回の内田さんとの再会であった。
尽きせぬ話が始まって間がないうちに予定の時間が越え、次の旅程の私の旧宅跡に向かうため、名残り惜しくも次回の再会を期してお別れしたのだった。
(ニュースレター新年号より)
囲碁雑録 | 2017年8月4日
囲碁の魅力に取りつかれてからもう30有余年を数えるが、自分の打碁の棋譜をとるようになったのは、確か三段の免状を頂いた昭和40年頃であった。
その後27年をかけて、今では手元に200枚を超える貴重な対局の軌跡が残されている。
その大半はプロ棋士との指導碁(五子から二子)だが、碁敵との対戦譜やアマ棋戦での惜敗譜も含まれている。
これらの棋譜は、折角の勉強の成果を無駄にせぬよう、手順を忘れないうちに手直しの批評とともに書き留めておいたものである。
さて、これらの棋譜の中に私にとって特別の感慨を呼び起こす一枚がある。
といってもその棋譜は、20年程前の引越しのどさくさに紛れたまま自宅の書棚のどこかに隠れているはずで、未だ発見できないでいるものだ。
昭和40年9月に私は、法律家の友好使節団の一員として中国各地を訪問したことがあるが、その棋譜は、かつて私が太平洋戦争中の昭和16年から19年までの間、国民学校一年から三年までの少年時代を過ごした上海での対局譜である。
ある日自由時間がとれることになり、案内の中国青年に「親善対局の機会があればなあ」と話したのがきっかけで、彼はしばしどこかに連絡をとっていたが、やがて「明朝九時にホテルで」との返事。
翌朝、私たちの宿舎である黄浦江に面した『和平飯店』の部屋に現れたのは、板盤と碁石を提げた3人連れの15、6歳の丸刈り頭の少年たちであった。
挨拶の中で私は「弱い三段」と告げ、その中の利発そうな礼儀正しい一人の少年と対局することとなった。
通訳を介して聞くと、彼はその年の上海市の高校チャンピオンとのこと、「これは相手が悪い」と思ったがあとには引けない。
一応握って私に白が当たり、対局開始。
傍らのもう一人の少年が棋譜をとってくれる。
わが同僚数人の応援の中、戦況は激しいねじり合いとなりやがて勝敗を決するコウ争い。
結果は「言わぬが花」の黒の勝ちに終わったが、なんともすがすがしい思いの2時間であった。
やがて時間が来て、局後の歓談を打ち切り「日中友好」の握手を交わしたあと、別れ際にその日の対戦譜を贈呈された。これが例の”幻の棋譜”なのである。
なぜ私がこの棋譜にこだわるかというと、それが単に記念の棋譜であるというだけでなく、もしかするとその少年が、後年中国碁界を代表する「専業棋士」として名を馳せることになる棋士の一人ではなかったかという思いを捨て切れないからである。
丁度その時期、中国は「文化大革命」の前夜で、翌年秋から10年にわたり、囲碁は「反革命の文化」として禁圧の歴史を辿ったことから見て、あるいはまた彼も碁の道を断念させられる運命を余儀なくされたのかもしれないのだが。
あの棋譜には、両対局者の名前が記されていた。
もし、これが見つかればその謎は一気に解ける。
また、中国棋士の名簿を調べれば、おそらく事実は判明するだろう。
しかし私にとって、”幻の棋譜”はそのままわが家の片隅にソッと埋もれさせておく方が、過ぎし日のロマンを追い続けるよすがとしてなんとなく落ち着きがよいと思われるのである。
※「囲碁関西 平成5年3月号」に寄稿
囲碁雑録 | 2017年7月21日
「恩返し」
この碁は、最初白がリードしたが、その後黒、白と形勢が移り、第二譜白42のところで正森さんが一歩ひかえておけば、白が優勢を保ち、私が勝つチャンスは容易につかめなかったようである。
幸いにして、白が第三譜で黒を強引に取りかけにきたことが打ち過ぎだったおかげで、難局を拾わせて頂くことができたのであった。
これでわが兄弟子への宿年の「ご恩返し」ができたことでもあり(「恩返しなど無用」との声も聞こえてくるが)、これからもさらに腕を磨き、もう少しはマシな棋譜が公開できるよう一段の精進を重ねたいと思うのである。
妄言多謝。
(終)
【筆者コメント】