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私と囲碁(62)高津高6囲碁会から高津囲碁会へ

| 2024年4月5日

 やがて高6囲碁会は第34回例会の平成17年(2005)10月から会場を堂島の中央電気俱楽部に移し、以後現在までに97回の例会を重ねている。

 例会第4回から世話役を務めて頂いた岩崎佳枝さんには、毎回の例会の通知や第1回から第73回までの対戦記録表の自筆での作成など大変な労をお掛けした。その岩崎さんも平成27年(2015)9月に79歳で急逝され、会員一同無念の思いをした。

 第74回例会から世話役を引き継がれたのが丸尾誠一さん。同氏はそれまでも会場予約や会計のお世話を願っていたが、対局表作成や結果の記録に加え昇段査定の基準作りなど会運営の全般を引き受けて頂いた。その丸尾さんも令和2年(2020)1月の91回例会のあと3月に84歳の生涯を閉じられた。同君の多大な献身を偲ぶ会を同年10月に行なった。

 第93回からは、中央電気俱楽部の会員である元関西電力副社長の前田肇さんと元会社経営者の向山裕三郎さんに私を加え3名が共同世話人となり現在に至っている。

 高津高校6期で始めた会だったが、平成19年(2007)7月の41回例会から8期の折田瑛子さん(初段)、沖本健二4段や56回(平成23年)から9期の元大阪市教育長森田雅美6段に加え、比叡山律院の千日行達成の叡南俊昭阿闍梨さん(7段)と秘書役西村陽行さん(6段)が常連として参加され、賑わいを増した。こうした経緯で会の名称も「高津囲碁会」と称することとなった。

高津囲碁会の対局風景

 しかし、コロナ禍のパンデミック(世界的流行)のため、この会も令和3年(2021)から2年間は年1回ようやく開催することができただけだった。そしてこの間、好敵手岩本義史7段、鼻歌まじりの早打ち松本克明初段、矢倉義弘5段、中川博初段らが亡くなり、また体調不良の休会者が続出するなどで、最大28名の会員が今や12名程度にまでに減少したのは残念だが、これも世の習いでありこれからも囲碁愛好の同僚とともに引き続き例会を楽しみたいと願っている。

 なお、これまでの私の成績は、160勝41敗で勝率7割9分6厘、なんとか8段格の面目を保つことができたようだ。故岩本7段も7割台の勝率を残しているのはさすがである。 (2023.10.31)

赤沢敬之

私と囲碁(61)高津高6囲碁会

| 2024年3月29日

石井邦生九段(手前右)の指導碁

大阪府立高津高等学校を卒業したのが昭和29年(1954)3月、今から69年も前のことである。僅か3年の青春のひとときを共有しただけの学友たちが今なお集まり年4回の囲碁会を楽しんでいる。

発足の経緯については、平成16年(2004)6月発行の卒業50年記念誌「坊ちゃん嬢ちゃんの半世紀」の記事を紹介するのが適切だろう。

 まず、発会のきっかけを作った村上周郎君の「高6囲碁会の流れ」と題する記事である。

「平成9年(1997)の早春の夕べに同窓会の世話役岩崎佳枝さんに偶々出会い、近く箕面で予定されている同窓会の話となり、同窓会を継続する手立てとしてゴルフ・囲碁の集まりがいいのではとの話となった。早速赤沢さんや丸尾誠一・谷口弘一・藤田貞吉さんの賛同を得て箕面での2次会に碁盤の設営をしてもらい同好者大いに楽しんだあと、定期的な囲碁会を発足することとなった。」(以上要約)

 こうして平成9年(1997)7月に始まった会の様子は、私の「高6囲碁会の愉しみ」と題する以下の記事をご覧いただきたい。

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  「碁仇は憎さも憎し懐かしし」という江戸時代からの川柳はまさに言いえて妙である。「憎さも憎し」相手でも会えば無性に「なつかしく」、互いにたのしく冗談を飛ばしながら盤を囲んで1局の勝負に熱中する。高6囲碁会でも、いつもこうした光景が随所に展開され、世話役の岩崎佳枝さんは男達の他愛もない「生態」を眺めては楽しんでいるふしがある。

 この会も3か月毎に淀屋橋駅傍らの「一ツ橋クラブ」に集まり平成16年(2004)1月には23回目を数えるまでになった。当初参加者は7,8名だったのが、現在では20名を超す数となった。

しかしこの間、年来の好敵手強豪山口清己6段、「品格ある打ち手」杉森清和初段の急逝は残念なことであった。最近は、石井邦生9段という願ってもないトッププロに時々お出で願い、3面打ちの指導を受けるので、会員の棋力向上は目覚ましい。平成15年(2003)1月の例会では、9名が指導を受け、ことごとく敗戦のなか、藤田貞吉3段が5子局で1目勝ちという大金星を挙げたが、局後の第一声は「誕生日プレゼントありがとう」という嬉しい話であった。

 藤田君と谷口弘一3段とは、以前から組んずほぐれつの大乱戦を演ずる「力戦派」、藤田君の天敵丸尾誠一3段や山中幹夫5段、前田肇4段、溝端康夫3段、玉田友英初段は「本格派」。岩本義史6段は私の好敵手で研究熱心な粘り強い「理論派」。村上周郎2段、中川博初段、多屋貞夫初段らは「早打ち」の「愉楽派」か。村上君を「目の敵」とする向山裕三郎2段は、布石感覚に見るべきところのある「感覚派」であり、大崎重弘、青木敏之、山岡紀彦、西原弘各初段、大神薫4級らは「発展途上派」である。また、近年碁を始めた八木幸子さんが、「楽しく打てること」を目標として熱心に参加されているのも嬉しいことである。そして、かく言う私7段は、「仕事より碁に深入り」してしまった「耽溺派」とでもいうべきか。・・・ 

 なにせわれわれは「本因坊9連覇」の故高川秀格名誉本因坊を大先輩に仰ぐ身であり、これからも益々の盛会が期待されるところである。 (2023.10.13)

赤沢敬之

私と囲碁(60)懐かしい囲碁会「碁久楽会」

| 2023年10月27日

 平成3年(1991)頃だったろうか「爛柯囲碁倶楽部」のどなたかに誘われ、西宮市苦楽園の植村兵衛氏の邸宅で毎月1回開催される「碁久楽会」に参加するようになった。

 同会は、会社経営者の植村5段と同じ苦楽園に住む「ライフ財団」代表の清水三夫6段とが設立した会で、当時の大阪府知事中川和雄3段(後の関西棋院理事長)、元大阪市長大島靖6段、北村春江芦屋市長初段、元ロイヤルホテル社長小松健男6段(前同)、大阪大学名誉教授和田博5段(前同)、大手前病院院長垂井誠一郎5段、成人病センター院長正岡徹7段(前同)、大阪音大教授仙石浩之6段、金両社長藤井信壽8段ら関西在住の各界の錚々たるメンバー70名ほどが勢揃いし、婦人会員も7名在籍していた。指導棋士も橋本昌二・石井邦生・本田邦久・清成哲也・今村俊也各9段、山田規三生7段、水戸由香里2段の豪華陣である。

 私は7段と登録され、毎月1度土曜日に遠路西宮まで出かけるのが楽しみであった。熱心に通っていたためなのか、平成7年には5人の世話人の一人となっていた。当時の対局記録が整理されていないため不明だが、平成4年(1992)1月11日に藤井信壽8段に先で敗れ、清水三夫6段に向先で勝ち、同9年(1997)9月に中川和雄氏に向こう5子で勝ったとのメモが偶々手帳に記されていたのが懐かしい。石井邦生9段始め多くの指導棋士の指導も受け、棋力増進の源となった。      

 対局場はその後清水さんの邸宅に移ったが、平成11年(1999)7月の胃がん手術の後、山道の歩行が困難になったため、同13年(2001)に同会を退会せざるを得なくなったのは残念であった。

赤沢敬之

私と囲碁(59)医師・弁護士対抗碁会

| 2023年10月13日

第1回医師・弁護士対抗碁会

 平成25年(2013)6月、井山六冠祝賀会で医師会囲碁会の重鎮(後に関西棋院理事長)で元大阪成人病センター院長の正岡徹先生にお会いした際、弁護士会との対抗戦はどうかとの話となり、その後協議の結果、日曜日か祝日で各チーム10人位、棋力は制限せず置き碁も可という内容で開催が決まった。

第3回大会の様子

 第1回は、同年9月8日に西天満の「サロンド碁」で行われ、医師(野本・羽田回・吉本祥生・蘆澤徹生・正岡哲・正岡徹・新宮雅各6段、垂井誠一郎・藤田典彦・坂本有甫・三谷昭雄各4段、河敬生3段)、弁護士(赤沢敬之・田中清和・赤澤博之・竹内隆夫・原田次郎各6段、和泉征尚・榊原正峰・小野健二各5段、小林保夫・山本忠雄・藤井伸介各4段)の陣容で熱戦が繰り広げられ、弁護士チームが18勝15敗で初戦を制した。私は幸い医師会の強豪に3連勝することができた。

5年ぶりの第4回大会

 第2回は、翌年5月に両軍ほぼ同じメンバーで戦われ、今度は9勝21敗の大差で見事リベンジされた。私も1勝を挙げるのがやっとであった。そして翌平成27年(2017)2月の第3回戦では、竹内6段と山本忠雄4段の3勝もあって21勝9敗の大勝であった。私は2勝1敗。第4回は5年の時を置いて、令和4年(2022)コロナ禍の中、東大阪市長田に移転した「サロンド碁」で行われ、9名ずつの対戦で、10勝14敗の接戦で敗北。私も1勝のみ。これで双方2対2のいい勝負となる。弁護士チームで気を吐いたのは最年少の岡本岳さんの3勝だった。

正岡徹先生(第5回大会)

 そして第5回。本年(2023)9月10日に大阪梅田第3ビルの「爛柯囲碁俱楽部」で8名ずつの対局となる。双方とも10年前の当初のメンバーから多少の変動はあったが、ほぼ顔なじみである。試合は1回戦3-4、2回戦5-3、3回戦5-4の接戦で13勝11敗の僅差で弁護士チームが辛勝。そして私は初めての3敗を喫した。左眼黄斑変性症のうえ右眼も視力低下で終盤でのヨミの失着が重なったとは言え、言い訳にはならない。捲土重来を期するのみである。それにしても3回戦で対局した正岡徹先生の頑張りはすごい。

赤沢敬之

私と囲碁(58)法曹囲碁大会

| 2023年10月6日

対戦中の筆者(2004.11.23)

 法曹囲碁大会は、毎年11月23日に全国の法曹(裁判官、公証人、検察官、弁護士)が市ヶ谷の日本棋院に集まり、団体戦・個人戦を戦うで盛大な大会である。第1回は昭和55年に東京を中心に開催され、偶々日弁連理事を務め東京行の多かった私が個人戦に参加したのだが、その後第3回大会に大阪からA級団体戦に今は亡き正森誠二5段・井土福男5段・鬼追昭夫4段が参加したのを皮切りに、第6回以降ABCリーグの各5名の団体戦と個人戦に大挙20名を超える選手が上京し、烏鷺を戦わせた。

青葉かおり5段と

 対局の合間には審判長の春山勇9段(退役)、青葉かおり5段、下坂美織2段や上野愛咲美4段の指導碁も受けられ、表彰式の後の懇親会で杯を傾けながら各地方や各職種の選手と歓談し親睦を深める良い機会であった。

優勝カップの授与

 大阪弁護士会チームは、Aリーグで平成7年(1995)の第16回と平成15・16年(2003-4)に優勝したが、そのメンバーは私、畑良武、竹内隆夫、原田次郎、岡本岳さんらであった。またBリーグでは、昭和59年(1984)の第5回以降平成21年(2010)の31回までに7回の優勝を重ねている。そのメンバーは井土福男、辺見陽一、三瀬顕、鬼追昭夫、福村武雄、小林保夫、豊川正明、金子光一さんらであり、今や故人となられた方々が多い。

浜口さん、岡本さんと

 この大会では、平成12年(2000)に日中韓弁護士大会にご一緒した谷直哲、山田博史、河島昭さんら(東弁)や名古屋の大山薫さん、東京弁護士会のエース故浜口臣邦さんなどと久闊を叙する対局や歓談がなによりも楽しみであった。そして、日本棋院での懇親会の後、私と岡本岳さんはさらに場所を移しての東弁チームの懇親会に参加し、新幹線での帰阪までの短時間、春山9段や青葉5段とも歓談できたのも幸いであった。

 大会は令和元年(2019)の第40回大会のあと同2年(2020)からの3年間、コロナ禍が世界を席巻したため休会となり寂しい限りであったが、ようやくこの11月に第41回大会が再開されるようで、久々の上京が楽しみである。

赤沢敬之

私と囲碁(57)アマ東西対抗戦

| 2023年9月29日

 第1回アマ東西対抗戦は、昭和52年(1977)11月に名古屋市の日本棋院中部会館で開催された。愛知県を境に東西に分かれ(愛知は西軍)、共に50人程度が互先で2回戦を戦う。この棋戦は、毎年1回行なわれ平成12年(2000)まで24回を重ねている。
 出場者は菊池康郎、村上文祥、原田実、中園清三氏などアマ名人・本因坊を筆頭にアマ界を代表する各県の強豪であり、代表幹事は東軍菊池康郎氏、西軍は松尾鐘一氏であった。

 対抗戦の記録は、毎年松尾氏を中心とする東西アマ囲碁交流事務局の編纂で「アマの碁(東西対抗戦激闘譜〇〇〇局)」と題し、藤沢秀行、坂田栄男、小林光一、趙治勲氏らプロトップ棋士の監修のもと自主出版を第10号(昭和61年・第10回大会)まで発刊している。
 私も第1号から最終号まで購入し、時々アマ強豪の棋譜を並べていたのだが、たまたま昭和の終りころから囲碁倶楽部「爛柯」で松尾氏に教えを受ける機会が何回かあり、同氏の推薦で第17回大会(1993年)から第24回(2000年)まで8回参加させてもらった。

 まさか自分がこんな棋戦に参加することなど思いもよらず、当然のことながらラインアップは50名のうち40番程度であったが、幸い13勝3敗の成績で恥をかかずに済んでホッとしたことを思い出す。
 なお、この棋戦には東西ともに弁護士の強手も参加しており、私と同時期に参加した同僚竹内隆夫君も10勝6敗の好成績を残している。

 対戦相手で記憶に残っているのは、平成12年(2000)、この棋戦最後の対局となった女流の笹子理紗さん。菊池康郎さんの緑星学園で修行中の当時はまだ14歳の中学生だったが、なんとか白番7目半を残すことができた。
 同氏はその後早稲田大在学中に全日本女子学生本因坊戦で4位となり、その後囲碁インストラクターとして多くのアマチュアを指導されたが、この記事の執筆のため偶々ネット情報を調べたところ、昨年8月に36歳で早逝されたとの記事を見つけた。あまりにも早いお別れでありご冥福を祈るのみである。

 なお、この大会の参加者には後にプロ入りした青木伸一、秋山次郎、三村智保、坂井秀至、森田道博、高梨聖健氏らの名が残されている。

赤沢敬之

私と囲碁(56)各種アマ囲碁大会への参加

| 2023年9月22日

 長らくの間投稿を怠っていましたが、これから少しずつ続編を書いて行こうと思います。
 前回までは、私の碁歴のうち主として鮮烈な記憶に残る対局や先人の教えとプロ棋士からの指導の有難さについての記事が中心でしたが、今回からは私が常時囲碁の醍醐味を味わってきたアマチュアの大会や多くの囲碁会について紹介することにします。

 思い起こすと、橋本誼9段の指導の下、新鋭法曹囲碁同好会で5段の免状を頂いた昭和43年(1968)頃から、毎年各種アマ囲碁大会の大阪府予選に参加することが習わしとなった。
 朝日新聞社主催のアマ10傑戦、毎日新聞社主催のアマ本因坊戦、世界アマ選手権予選などである。

 対局の記録が残っていないが、当初は当然のことながら殆どが1回戦ボーイであった。そうするうちに昭和61年(1986)に日本棋院アマ6段を授与された50歳頃からようやく時々は2、3回戦に進めるようになったが、対局相手の棋力も強さを増すため強固な岩盤に跳ね返されるのが常であった。

 一度だけこの壁を越えたのが平成9年(1997)の175人参加のアマ十傑戦府大会でのベスト16進出だった。あわよくば5回戦も突破し十傑入りをと狙ったがそうは問屋が卸さなかった。3年ほど前にこの大会の新聞記事の切り抜きを偶然に机の引き出しの底から発見して驚いたのは、「最年少の小2生、初戦敗退」とのタイトルの主があの井山裕太少年であったことだった。(その顛末についてはこちらの記事を参照)

 対戦相手で印象に残るのは、平成11年(1999) 5月のアマ世界戦大阪府予選で2年前の全国学生囲碁十傑戦で優勝した立命館大学の古家正大さん(現日本棋院5段)との対局である。私の白番で中盤まで互角の戦いであったが、終盤に白が見込んでいた下辺の白地がすっかり荒らされ無念の投了。当夜帰宅後採った棋譜が残っている。

 なお、アマ大会には、その当時から各種同好会で多忙となり参加していない。そして古家氏とはその後10年を経て、年4回の関西東大会で指導を受けることとなったのは、正しく碁縁の不思議さと言うべきか。同会もコロナ禍により今なお休会中であるが。

赤沢敬之

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