ニュースレターより | 2022年2月14日
昨年の秋、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」などで有名なアメリカの俳優ジョニー・デップが自ら企画し主演をした映画「MINAMATA」が日本で上映されました。
この映画は、水俣病患者の写真集を撮影したアメリカの写真家ユージン・スミスの伝記映画ですが、それを見た当事務所の赤沢秀行行政書士がいたく感動し、たまたま私が水俣病の弁護団で活動していることから、是非、事務所ニュースで水俣病の特集をしたいと言ってくれ、この企画となりました。
それでは、私が知っている水俣病のことについてお話しします。
水俣病とは、熊本県水俣市にあるチッソ株式会社の工場(写真①)が排出した廃液に含まれるメチル水銀によって汚染された魚介類を摂取することで起こる健康障害のことをいいます。
水俣病の原因であるメチル水銀は、体内に摂取されると主に脳細胞に作用し、様々な障害を与えます。
発生当初は、手足が曲がったりけいれんを起こしたり錯乱状態となり発病から数週間で亡くなってしまう重症の患者も多数いました。皆さんも、テレビなどで、体を小刻みにふるわせる女性の患者の映像を見られたことがあると思います。
しかし、今現在、水俣病で苦しんでいる患者の多くは、慢性型の水俣病で、一見、普通の人と変わりませんが、以下のような様々な症状や日常生活の不便を抱えています。
・手足の先がしびれる。怪我をしても痛くない。やけどをしても熱くない。
・手の感覚がなく物を落としてしまう。字を書けない。
・手がふるえて、ボタンをかけられない。
・まわりが見えにくくなり、ふすまや壁にぶつかる。
・つまずきやすい。ふらつく。
・手や足がつる。
昭和25年ころから、水俣湾沿岸地域で魚が大量に浮上したり、猫が狂い死にするなどの現象が見られるようになりました。
当初、原因は分からず、奇病や伝染病として地元では怖れられていました。
昭和31年5月1日、チッソ水俣工場付属病院の院長が、原因不明の中枢神経疾患が発生したことを水俣保健所に届け出ました。この日が、水俣病の公式確認の日にあたります。
当時、水俣病の原因となるメチル水銀は、チッソ水俣工場で化学製品の原料(アセトアルデヒド)を製造する工程で生成され、それが工場廃水に含まれた状態で不知火海に排出されていました。不知火海に流されたメチル水銀は、食物連鎖を通じて魚介類の体内で蓄積されていき、その汚染された魚介類を地域住民がたくさん食べたことによって、水俣病という深刻な公害病が広がることとなりました。
メチル水銀による汚染は、老若男女を問わず地域住民のすべてに及び、さらには、まだ生まれていない胎児にまで被害を及ぼしました。
水俣病が公式確認された後も、チッソは、メチル水銀を含んだ工場排水を流し続け、多数の水俣病患者が発生し続けることとなりました。
このような中で、一部の患者と親族が水俣病患者家庭互助会を結成して補償を求めましたが、結局、昭和34年の年末、死者でも30万円程度の見舞金契約の締結を強いられました。
その後、チッソは、昭和43年5月にアセトアルデヒドの製造をやめ、その4ヶ月後の昭和43年9月に、国は、ようやく水俣病がチッソ水俣工場の廃液を原因とする公害であったことを認めました。
その後も互助会とチッソとの間で交渉が続きましたが、当時の厚生省が設置した第三者機関は、患者側に対し、同機関が出した結論に一切の異議を述べないという白紙委任状の提出を求めました。
このような手法に応じることができないとして、裁判所での解決を求めて昭和44年6月に提起されたのが、水俣病第一次訴訟です。
昭和48年3月の熊本地裁判決では、チッソの責任を明確に認め、1600~1800万円の賠償を命じました。
第一次訴訟の判決を受けて、チッソと患者団体との間で、補償協定が締結されました。補償内容は、一時金1600~1800万円、その他に医療費、年金、葬祭料等の支給が定められました。そして、この補償協定は、その後に認定される被害者にも適用されることが約束されました。
そこで、多くの患者が、補償を受けるために熊本県や鹿児島県に公害病の認定を申請する事態となりました。
しかし、認定申請が急増したため、国は、昭和52年に、水俣病と判断する条件を厳しくし、それまでは1つでも症状があれば水俣病と認めたのを、複数の症状がないと認めないようになりました。
そこで、被害者らは、国の姿勢を変えるため、昭和55年に、チッソだけでなく、国や熊本県も被告にして第三次訴訟を起こしました。この第三次訴訟は、熊本のほか、大阪、京都、東京など全国各地で起こされ、各地裁で勝訴判決が言い渡されました。
そのような状況の中、ようやく国も重い腰を上げ、平成7年に、合計1万人を超える被害者に国、熊本県やチッソが補償することを条件に水俣病問題を解決する「95年政治解決」がはかられました。
しかし、唯一、政治解決を拒み、大阪で裁判を続けた水俣病関西訴訟の原告は、平成16年に最高裁で勝訴判決を勝ち取りました。その判決では、国の水俣病の認定基準が事実上否定されました。
そこで、被害者は、国の認定基準が緩和されることを期待して県に公害病の認定を申請しましたが、認定基準は依然として厳しいままでした。
そこで、被害者が、裁判所に最後の望みを託して、平成17年に起こしたのがノーモア・ミナマタ訴訟です。この訴訟は、熊本のほか、大阪、東京、新潟でも起こされ、私が弁護団の一員として加わったのが大阪の訴訟でした。私と水俣病との関わりはここから始まりました。
このノーモア・ミナマタ訴訟は、平成23年に勝利和解により解決するとともに、国に水俣病被害者を救済するための特別措置法を制定させるという大きな成果を勝ち取りました。
しかし、特別措置法には居住地(写真②)や年代の制限があったために救済されなかったり、そもそもそのような制度があることを知らず申請できなかった多くの被害者がまだ存在します。そのような取り残された被害者を救済するために現在も続いているのがノーモア・ミナマタ2次訴訟です。
大阪では平成26年から始まったこの訴訟(写真③)は、今、大詰めの原告本人尋問が行われており、今年中には結審を迎える見通しです。
以上、水俣病の歴史は、大変複雑で、一つ新しい救済制度が出来ても、その不備のために救済されずに取り残される被害者が生じるという“イタチごっこ”を繰り返してきたことがお分かりいただけたと思います。
水俣病が公式確認されてから既に65年以上が経つというのに、まだ被害者が救済を求めて裁判を続けているというのは大変悲しいことです。何とか水俣病を解決するために皆さんの声を政府に届ける手段として、弁護団では、現在、ネット署名に取り組んでいます。案内のチラシを同封しますので、よろしければ、ご協力ください。
(ニュースレター2022年新年号より)
案内チラシはこちら