弁碁士の呟き

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私と囲碁(45) 重慶での中日韓律師囲碁大会(上)

| 2015年11月24日

 平成16年(2004)4月18日、前日風邪気味で回ったゴルフが無理だったのか、咳、痰に加え39度近い高熱を発し、病院で受診したところ肺炎で、4月20日から5月7日まで入院治療を受けた。退院後は入院中の体力の衰えの回復のため、早朝のウォーキングに努めてきたが、容易には元に復することがなかった。

  こんな最中、7月中頃、法曹囲碁連盟の山田洋史事務局長から、四川省重慶で10月に開催される第6回中国律師(弁護士)囲碁大会に日本・韓国の弁護士を招待したいとの中華全国律師協会から日弁連への参加要請があったとの連絡と大阪・名古屋からも参加願いたいとの呼びかけを受けた。又とない好機でありなんとか参加したい、8年前呉清源先生に同行した「三峡下り」の際訪れた重慶への再訪である。しかしまだ体調に自信がなく、多くの方に迷惑を掛けることは避けねばならない。迷った挙句、一旦は辞退することに決めたのだが、たまたま締め切り前の8月24日に顧問先の黄檗山緑樹院の住職と事務所の弁護士との会食の際、この話をしたところ、「秋には体調は回復するだろうし、この好機を逃すべきでない、奥さんに同行してもらえば」との村瀬和尚や河村利行弁護士の強い勧めに逡巡していた気分が吹っ切れ、参加を決意した。

new_中国弁護士囲碁大会 055 こうした経緯を経て、秋10月9日、体調もほぼ回復し、日弁連訪中団の一員に加わり、空路重慶に向かった。団の構成は、東京弁護士会から河嶋昭5段、日野原昌6段、山田洋史5段、谷直哲7段、名古屋から大山薫7段、大阪から鬼追明夫5段(団長)と私7段の7名で、団体戦に大山、谷と私、個人戦に4名が参加することとなった。

 大会の会場は重慶市郊外の海琴酒店(ホテル)で、緑豊かな湖畔の観光地である。8年前には工場集積地帯である重慶市は大気汚染で青空もどんよりと霞んでいたが、その後北京、上海、天津と並ぶ直轄都市となり規制や老朽設備の改善が進んだためか、当時と較べかなり好転したとの印象を受けた。

new_中国弁護士囲碁大会 093 大会には、中国から22省及び直轄市の律師協会から選抜された30団体と個人戦参加者を含め120名、日本7名、韓国3名の合計130名、それに全国と各地方の律師協会役員50余名が参集した。対局は3日間に各人互先の9局、持ち時間は一人90分で時間切れ負け、昼夕の休憩をはさんで朝から夜まで1日3局打つ。そして4日目午前中には最終の10局目を打ち終了となる。コミは中国ルールによる7目半。

 10月10日の大会初日には、全国律師協会副会長や大会実行委員長に続き、中国囲碁協会主席の陳祖徳9段の挨拶があり、スイス方式での対局が始まった。高齢層主体の日本勢に比して、中国選手は青年層が大半で中年層はいるが高齢層はあまり見かけない。韓国の3名は高中青とバランスがいい。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(44) 三木正さんとの20年(下)

| 2015年10月25日

 三木さんとの対局は、平成7 (1995) 年9月に始まり、毎月1局、私の事務所で、午後6時頃から食事休憩をはさみ9時頃までというのが通例で、これが平成25(2013)年12月までたゆみなく続いた。この間、三木さんの骨折事故や奥様のご不幸、私の胃がん手術などでのブランクもあったが、ほぼ毎月月末の定例対局の楽しみが私の仕事の励みともなっていた。ところが、平成26年に入って程なく、三木さんの自宅庭での転倒による腰骨骨折という不慮の事故のため、永らく続いたこの対局も継続できなくなり、その後はお見舞い旁々の訪問の際やたまたまの事務所への来所の機会での数局の対局が数えられるのみとなったのが残念である。これまでの対局数は174局。

 第1局の開始当時、三木さんは75歳で私が59歳。同氏の強さは「爛柯」の仲間などからも聞いており、7段格の大先輩なので、私の定先の手合いと思っていたのだが、とりあえず互先で打とうということになり、私の黒番で打ったところ、たまたま私が幸いしたことから、以後互先の対局となった。しかし、それからがいけない。三木さんが本気を出され、その後2年間ほどは10局に1度ほどしか勝たせてもらえない。強力な攻めと終盤での強引ともいうべき取りかけにいつも屈服させられる展開となる。ようやく10年ほど経ち100局を数える頃になった平成17(2005)年頃にやっと累計の勝率が2割程度に上昇。そしてその後9年間の70数局の勝率はようやく4割を越えたが、累計では3割程度となっている。これらの対局の棋譜は、前半の9年ほどは対局中に三木さんが碁罫紙に記録されたが、後半に入りしばらくは私がパソコンに入力していた。

new_2006_0727_202443AA 対局の日、三木さんはまず関西棋院に顔を出し、知り合いの棋士に私との打ち碁の講評を願い、夕刻私の事務所に来られるのが常であった。そのうち10年程前の何時の頃であったか、高津高校時代の友人向山裕三郎さん(元会社社長、当時初段前)が毎回観戦に来て、棋譜採り役を受け持つようになった。さらに2年後、三木さんから聞かれたのか石井新蔵9段が関西棋院の帰りに事務所に寄られるようになり、対局途中に向山さんからパソコン入力を引き継がれることになった。そして終局後の講評。なんとも有難い指導である。おかげで向山さんも棋力とみに上昇し今は3段格。それに加え、囲碁の面白みや奥深さを実感したと述懐されている。

 対局途中の夕食休憩で、取り寄せの「うな重」に舌鼓を打ちながら、石井先生のプロ碁界の話題や三木さんの昔話に耳を傾ける楽しいひとときもあった。事務所の浦島三郎弁護士(初段格)や高津囲碁会の世話役故岩崎佳枝さん、同会常連の故藤田貞吉君(3段格)もたまに顔を出し歓談に加わっていた。

 三木さんは、理非曲直をわきまえ古武士の面影を宿す剛直の人である。90年を超える波乱の人生経験に教えられることが多かった。棋風も同様に剛直な力戦派でありながら、筋や形を重んじる手厚さは、百戦錬磨の棋歴と「月刊碁学」の編集者としての永年の蓄積なのであろう。これまでのお付き合いに感謝するとともに、今なお衰えぬ棋力にこれからも触れる機会を作りたいと願っている。(続)

 

赤沢敬之

私と囲碁(43) 三木正さんとの20年(上)

| 2015年10月14日

 三木正さん、関西碁界では知る人ぞ知る囲碁ジャーナリストの長老である。氏は、関西棋院の機関誌「囲碁新潮」を発行していた囲碁新潮社が倒産したあと、故宮本直毅9段から同社のアマ初中級者向けの「月刊碁学」の継続を引き受けられ、昭和50年代から約10数年間、発行者兼編集長兼ライターとして囲碁普及のため 悪戦苦闘を続けられた。この雑誌は、上級者・高段者にとっても有益で、懇切丁寧な解説は他に類を見ないものであった。私も時折特集号を求め勉強してきた。同氏は現在95歳のご高齢で西宮の自宅で自適されている。
 三木さんは、広島文理大学国語国文科を卒業され、元々は国文学者を目指していたが、戦時中のこととて やむなく昭和18年に江田島の海軍兵学校文学科教官(海軍中尉)に就任し、敗戦のあと神島化学工業の総 務部長・常務取締役を歴任されるという数奇な前半生を送られた。そして、昭和51年以降は、上述の囲碁専業の後半生に移られる。

 同氏の囲碁歴も数奇かつ多彩である。敗戦直前の昭和20年8月4日に瀬越憲作師に出会われたのが、第3期本因坊戦挑戦手合第2局の第1日目、所は広島県五日市の対局場。原爆投下の2日前であった。瀬越先生から橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫8段を紹介される。これが縁で、戦後は橋本囲碁道場で修行され、メキメキ腕を上げられたようであり、後年は宇太郎先生の後援会「雨洗会」のボランティア世話役を務められた。また、戦後まもなく昭和21年10月、会社からの出張の機会に瀬越先生の紹介状を持参して、当時岡山県玉島に住ま われていた第1期本因坊関山利一師の指導を受けることとなり、以後24年まで11局の4子局の棋譜を宝物として残されている。当時は初段だったとか。

 三木さんとの交遊が始まったのは、平成7年(1995)9月頃だった。「月刊碁学」の熱心な愛読者で全巻所持者の西垣昭利弁護士(6段格)が裁判官に任官することとなったのがきっかけだった。当時西垣さんは「雨洗会」の会員で、世話役の三木さんに事務的な便宜を提供していたが、事務所を離れるに当たり、三木さんに私をよき対局相手として紹介してくれたのである。以後20年にわたる三木さんとの対局の模様は次回に記すこととして、ここでは三木さんが「月刊碁学」の1984年から1988年の段級位認定テストに修正を加え、新たに書き直してミルトス図書から発刊した「次の一手」(2011.5)「続次の一手」(2012.11)を推奨しておきたい。

 同書は、「級位者のために」と銘打っているが、とてもそのような代物ではなく、高段者にも有益な問題集である。坂井秀至8段が精密に監修されており、私も販売協力員として碁友に合計180冊ほどを普及し、日頃の三木さんの「碁恩」にささやかながら報いることができた。  しかし、この本の圧巻はなんといっても問題の合間に新たに書き下ろされた珠玉のコラムである。「原爆対局12」「関山本因坊24」「橋本本因坊48」は、上述した三木さんの華麗な碁歴と瀬越先生ら錚々たる師匠たちとの人間味溢れる触れ合いを生き生きと描かれており、これだけでも一読の価値がある。なお多くの人に推奨したいと願うものである。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(42) わが師匠たち – 10人のプロ棋士

| 2015年9月24日

98516 作家吉川英治の座右の銘に「我以外皆我師」という言葉がある。また、藤沢秀行師も「3歳の童子たりとも導師である」と述べている。いずれも人生における謙虚な「学びの精神」こそ成長と向上の要諦であることを示す言葉である。囲碁の道も例外ではなく、我が師は私以外のすべての人と言っても良いのだが、それではあまりに無限定なので、ここでは、私がこれまでに受けた指導碁の対局数を基準として10名のプロ棋士を私の師匠として紹介したい。
 
 私の書斎には400局を越える指導碁の棋譜が眠っている。若いころには対局直後や帰宅後に自分で赤青鉛筆で記述したものだが、最近はデジカメやスマホに頼らなければ再現は難しい。このうち300局程度はパソコンのデーターファイルに入力しているので、いつでも見ることができる。昭和41年(1965)から約50年間の集積の賜物であり、我ながら何時の間にこんなに溜まったのかと驚いている。その1枚1枚に疑問手や失着に対する師匠たちの指摘やたまの好手への評価が記載され、なによりの勉強のよすがとなるものである。また、あの時代にはどの程度の棋力だったかを知ることができる貴重な私の宝物である。なお、全局通じての勝率はほぼ2割程度であった。

 さて、最大の局数はやはり昭和40年代から50年代に師事した橋本誼9段で、5子から2子局での100局を越える。次いで50年代から平成年間まで「爛柯」の研修会で3子・2子局で指導を受けた石井新蔵9段の棋譜が約50局、そして本田邦久9段と石井邦生9段の約40局が続く。20局を越えるのは、円田秀樹9段、白石裕9段、吉田美香8段、10局以上には坂口隆三9段、長崎裕二5段、古家正大4段が連なる。以上合わせて約350局となる。この10名が私の「師匠」として特別に感謝の念を捧げる方たちである。これらの方たちは、いずれも私が参加してきた友人知人の定例碁会での師範であり、今後折に触れてそれぞれのエピソードなどを紹介したい。

 不肖の弟子にとって、この豪華な師匠たちの指導に十分に応える上達ができなかったことにただ忸怩たる思いであるが、少なくとも囲碁の深奥な尽きせぬ魅力を存分に味わうことにより人生を豊かなものと実感することができたことに満足している。(続)

*上掲の棋譜は、爛柯研修会での石井新蔵先生との指導碁(1998年5月16日、白:石井9
 段、3子:赤沢、243手まで黒1目勝ち)(続)

赤沢敬之

私と囲碁(41) わが師匠たち – 石井邦生9段(下)

| 2015年9月3日

19991011c  石井邦生先生とのこれまでの長いお付き合いの中で、今も印象深く記憶に残るのは、平成9年(1997)から11年までの3年間に行われた4回の囲碁合宿であった。その頃よく通っていた「爛柯」囲碁倶楽部の好敵手であった山下明夫さん(6段・会社役員)から、石井先生、平野正明6段、長崎裕二5段のプロ棋士3名と山下さん、林威三雄先生(6段・元幸節記念病院院長)、私のアマ3名での「特訓合宿」の呼びかけがあった。1泊2日の日程で、アマ陣は3人のプロの先生に入れ替わり立ち替わり指導を受けるというなんとも贅沢な企画である。否応もなく喜んで参加させてもらうことにした。

 最初の合宿は山代温泉であった。平成9年9月14日午後、現地の旅館に着いてしばし休息の後、3面の碁盤が並べられ早速プロアマの指導碁が始まる。特訓と称するためすべて2子の手合いである。石井先生は長年院生師範を続けられ、多くの若手棋士を育成されてきた豊富な経験と実績の持ち主、平野先生も朝日カルチャーセンターの講師を勤められた方、長崎先生も「爛柯」囲碁倶楽部で多くのアマの指導の実績があり、いずれも願ってもない指導陣である。2子では到底碁にもならないとは自覚しつつもなんとか一矢をとの意気込みで臨んだが、やはり8局のうちようやく平野先生との4局目にお情けの1勝をいただいただけであった。この合宿では2日間殆ど観光らしきものをした記憶がない。

 続く2度目の合宿は、やはり同じメンバでの翌10年3月6,7日の南紀白浜。ここでも全6局のうち長崎先生からの1勝のみ。そして同年9月の函館での3回目は、長崎先生に代わって陳嘉鋭9段の登場。世界アマ選手権優勝のあと関西棋院5段となり名人戦リーグにも名を連ねた強豪だが、人なつっこい性格ですぐ親しくなった。この合宿では5局すべて敗北だったが、陳さんとの2局目が3目、平野さんとの対局が2目の惜敗であった。この合宿で想い出深いのは、函館の街並みの散策と世界3大夜景と言われる函館山山頂から遠く津軽海峡や下北半島を眼下に一望する宝石のきらめきのようなパノラマ風景に息をのむ感動を受けたことであった。ただ当時デジカメなどなかったため、碁打ち仲間との貴重な記念写真が残されていないのが残念である。

 4度目は翌平成11年10月10,11日の仙台松島の合宿。この年、私は6月に胃がん発見、7月12日に胃の3分の2の切除手術を受け月末に退院し、しばらくの間リハビリに専念していたが、まだ体調が戻らぬ9月初旬に山下さんからのお誘い。フラフラして皆さんに迷惑を掛けては困るし、と言って碁は打ちたいし、迷った末、幸い林威三雄先生という名医も同行されるし、思い切ってリハビリの一環として参加しようと決断したのだった。お蔭で松島の旅で食事や歩行などに困ることもなく石井、平野、陳先生に5局の指導を受けることができた。結果は言わずもがなの全敗だったが、体調回復のいい妙薬となったと「碁の効用」に感謝したものであった。なお、同行のアマお二人の指導対局の成り行きなどは、自分の碁で精一杯で観戦のゆとりもなく、一切記憶の外にあるが、熱心に教えを受けていたことは間違いがない。

 4回の合宿のあと数年の内に、この特訓合宿のプロモーターであった山下社長が病気のため亡くなられるという残念なこととなり、教えられることの多かった合宿シリーズも幕を閉じることとなった。シリーズを通じ、石井先生のやさしく厳しい指導が、まだ打ち盛りの頃であった私に改めて碁の魅力や奥深さを教えていただいたことに感謝している。なお、このシリーズの第2回合宿以後の棋譜は、途中までのものも多いが今なお保存しており、暇を見て並べたいと思っている。

*上掲の棋譜は、第4回松島合宿での石井先生との指導碁(平成11年10月11日、白:石井9
 段、2子:赤沢、171手まで白中押勝ち)(続)

赤沢敬之

私と囲碁(40) わが師匠たち – 石井邦生9段 (上)

| 2015年8月2日

 半世紀を超える囲碁遍歴の中で、私は多くのプロ棋士から教えを受けてきた。最初の師匠は橋本誼9段で、まだ3段程度の昭和41年から約10年の間に「新鋭法曹囲碁同好会」で5子から3子局の指導を受け、私の碁の基礎体力の形成に大きな手助けをして頂き、日本棋院5段の免状をいただくことができた。そして、第2の師匠は石井邦生9段である。先生からは、指導碁だけでなく、私の囲碁ライフのさまざまな分野でご指導・ご協力をお願いしてきた。先生の推薦により6段の免状をいただいてから既に29年が経過している。

 石井先生とのお付き合いは、高校の同窓である南諭さんの縁で、池田市医師会の囲碁仲間の碁会に顔を出した昭和50年頃にお会いしたのが始まりであった。その後「爛柯」などで時折指導碁をお願いすることがあったが、先生の追突事故被害の件で相談を受けてから、先生の温厚且つ清廉なお人柄に魅せられ、今日まで交流を深めてきた。井山四冠の名伯楽としての指導力はつとに名高いが、日本棋院関西総本部の長老として、ご自身も今尚現役で間もなく超一流の1千勝棋士の列に加わろうとされている。

 先生には、時折の2子局の指導碁でやんわりと私の打ち過ぎを矯正していただくほか、私が「会長(世話役)」を勤める大阪弁護士囲碁同好会や高津囲碁会の例会での年1回の指導碁、そして棋譜の講評と関西での名人戦・本因坊戦挑戦手合いの観戦の際のプロ棋士の検討室の見学など多くの無理をお願いしている。

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 なによりも有難いのは、打ち碁の講評である。何時の頃からか私は大阪弁護士会囲碁大会決勝戦の「観戦記者」になってしまい、弁護士会の「会報」に掲載するのが常となった。執筆にあたり、先生に棋譜をお送りすると、碁罫紙に変化図を7,8枚は作成し、懇切丁寧な解説や批評・感想を書き添えて返送して下さるのである。私はこれを引用し、対局風景の描写や個人的な感想を書き加えれば「観戦記」はたちどころに完成する仕掛けである。なるほどこれぞ井山四冠を鍛えた打ち碁講評の極意であったかと妙に納得し、勝手に井山さんの「兄弟子」を任じている次第である。元最高裁判事の河合紳一さんとの1局4年掛かりの郵便碁の講評も何局もお願いし、「棋力増進につながる」と喜んでもらっている。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(39) 19年ぶりの再会ー牛力力さん(中国棋士)

| 2015年7月21日

new_20150708_130317 7月初め、自宅に、ある女性からの思いがけない電話があった。妻から受話器を受け取ると「ニュー・リーリーです」との懐かしい声。年賀状のやりとりは欠かさなかったが、19年前の1996年(平成8年)4月、呉清源師との「三峡下り」で同行したとき以来の会話である。「今度7月6日から9日まで大阪に参ります。娘の栄子(日本棋院初段)の大阪での初対局の付き添いです」。先日このコラムの(38)で、あの日の懐かしい思い出を書いたばかりのこの時に、なんというグッドタイミングか。早速、来阪後の対局の合間の7月8日に栄子さんと共に私の事務所にお越しいただき、昼食と喫茶店であれ以来の積もる話に時を忘れたのであった。

 牛力力さんは、1961年ハルピン市で出生、若い頃から中国棋院で研鑽、師匠は聶衛平9段で馬暁春、苪廼偉9段らとは同門の5段で、1989年に来日。爾来長年にわたり呉清源先生の秘書役として、囲碁雑誌や新聞の解説記事を先生に取材執筆し、更には先生の囲碁観を集大成した「21世紀の碁」全10巻や「思い出の18局 今ならこう打つ」の編集執筆という大作をものされている。もちろん19年前にはそのような履歴やその後の囲碁界に対する多大な貢献は知る由もなく、旅行の当時は、明朗闊達で知性豊かな美女との印象をもった程度であった。その後月刊「囲碁」の呉先生の解説記事は毎月欠かさず勉強させてもらっていたのだが。

 new_20150714_130400事務所で顔合わせしたとき、互いに「あの頃とお変わりありませんね」との第一声。私は今や老骨に鞭打つ身だが、彼女は昔と変わらぬ姿に母親らしい落ち着きを加え、この間の成長を示していた。高校1年の栄子さんは前日の初対局に無事勝ち、事務所までの中之島界隈の散策を楽しんだ様子であった。力力さんは、手土産に呉先生の「百寿記念」のお祝いの会に向けて揮毫され今や絶筆となった貴重な「河山一局之棋」と題する扇子を持参され有難く拝受した。

 話題はやはり呉清源先生のことが中心だったが、特に印象深かったのは、波瀾に富んだ棋士人生を送られた先生が、生涯を閉じられる寸前まで囲碁の道を探求され、最期まで頭脳の衰えを見せられなかったこと、そして70歳の頃からご自分の寿命を100歳と想定され、それ以上は生きている意味はないとよく話されていたとの話であった。そして、百寿のお祝いの際にも同様のことを述べられたが、その言葉のとおりその後間もなく昨年11月30日に天寿を全うされたということであった。長年にわたり先生の身近で取材執筆を勤められたリーリーさんならではの話であった。話は尽きなかったが、帰りがけに私の妻と電話で改めて久闊を叙したあと、ほのぼのとした気分で御堂筋の梅田新道付近でまたの再会を期してお別れした。(続)

赤沢敬之

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