弁碁士の呟き

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私と囲碁(38) 呉清源師との出会いと三峡下り(下)

| 2015年5月17日

  上海滞在の4日間のうち3日目には、蘇州観光があり、寒山寺や虎丘斜塔、拙政園などの歴史的にも有名な観光地を訪問。この日は呉先生、和子夫人や秘書役の牛力力さん(中国棋士)も参加され、終日楽しい日を過ごす。そして4月26日午後、航空機にて重慶に向かう。重慶で1泊し、いよいよ今回のツァーの本命「長江三峡下り」である。

 重慶では、朝から市内観光。長江大橋、人民大礼堂などを廻ったあと、夜「三国東呉号」に乗船。翌朝、船中2泊のクルーズに出発。長江北岸にある鬼城(鬼の町)豊都、三国志に名高い白帝城や張飛廟などの見学を経て、瞿塘峡、巫峡、西陵峡の三峡を下る。狭い川幅を囲む両岸の断崖絶壁が急流の中に朝靄に浮かび上がる雄大な光景には息を呑む思いがした。同行者一同、甲板の船室や室外に出て、岸壁の垂直に切り立った岩肌に取り付く「蜀の桟道」など古代の面影を偲ぶ。西陵峡下流の宜昌付近では既に1993年からダム工事が着工され、流域の市街地の整理も進んでいたが、ダムと水力発電所の完成の日(注:2009年)には名勝旧跡などどうなるのか、思いはさまざまに巡る。

new_IMG_0002 さて、ゆったりとした船中の2日間、碁キチ揃いの参加者は甲板船室に碁盤を並べ対局を始める。互いに初の手合わせだったが、「手談」を通じ一気に親近感を増すのはいつものとおりである。呉先生と牛力力さんが傍らで対局を見守る。私は2日間で5局対局したが、そのうち2局は、文壇本因坊の直木賞作家江崎誠致さんとの手合いであった。第1局は私の黒番で、当時愛用していた3連星から大模様の碁だった。呉先生が「宇宙流ですね」と声をかけられたことを今も覚えている。しかし結果は細かいヨセ合いの末、1目半負けとなった。翌日午後の2局目は、白番中押し勝ちに終わった。

new_IMG_0001 長江の流れを眺めながらの「長考」はなんとも贅沢なもので、この世の幸せを一身に背負った気にさせられる。そして対局中、江崎先生の口から思わず漏れる「朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る 両岸の猿声啼いて尽きざるに 軽舟已に過ぐ万重の山 」との李白の七言絶句の朗唱が唐時代の古を偲ばせる気分に浸らせてくれたものであった。対局のあとには、家から持参した「呉清源全集」第11巻の見開きに呉先生のサインを戴くことができ、今も時々開いてこの至福の時を思い出している。

 「三峡下り」は宜昌で終わり、武漢を経て上海に戻り、空路帰国したのは5月1日であった。この旅の途中、呉先生ご夫妻と夕食会、観光地巡りなどでご一緒し、その円熟したお人柄に妻ともども尊敬の念を深めたが、とりわけ妻は和子夫人のやさしい挙措の中で先生に「パパ」と呼びかける言葉に親しみを感じた様子で、以来私に対しても「パパ」と呼ぶようになっている。ともあれ、この旅行は生涯忘れがたいものであった。終わりに、今は亡き呉先生ご夫妻のご冥福を改めてお祈り申し上げたい。(続)

*写真上の手前右が呉師、左が江崎先生、向かい左が牛力力さん。写真下の向かい側は呉師と和子夫人

 

赤沢敬之

私と囲碁(37) 呉清源師との出会いと三峡下り(上)

| 2015年4月29日

new_new_IMG_0008 昨年11月30日に100歳の天寿を全うされた「昭和の棋聖」呉清源師にお目にかかる機会は思いがけないことから始まった。昭和63年(1988)の正月から並べ始めた先生の「全集」の棋譜並べが最後の11巻目の半ばに差し掛かった平成8年(1996)2月中頃、同全集の刊行委員会から、4月に上海で行われる「第3回応氏杯世界選手権戦観戦ツァー」の案内が送られてきた。呉先生が同大会の実行委員長を務められるこの機会に、大会観戦に引き続き長江上流の「三峡下り」を行うとの贅沢な企画である。案内の対象は「全集」の購読者であった。正に絶好のチャンス、早速これに応募することとした。昭和16年(1941)から19年(1944)の戦時中に暮らし、その後昭和40年(1965)に再訪して以来23年ぶりの訪中であり、舞台は最高である。そして結婚以来共に遠路の旅をしてこなかった妻への慰労を兼ねての旅行であった。

 やがて平成8年(1996)4月22日、成田空港に集合したメンバーは8名、直木賞作家の江崎誠致さん、呉先生の長男信樹氏のほか各地からの参加者6名で、中に私と同じ吹田市からの乙葉寛さんもおられた。同日午後、上海空港に到着し宿泊ホテルの「花園飯店」に向かう。ここで既に現地に到着していた参加者一同と顔合わせをしたあと、ホテルの一室で呉清源先生ご夫妻にご挨拶する機会に恵まれ、しばしの歓談の時を過ごした。このとき先生が「碁は調和です」と話された言葉が強く印象に残っている。

 その夕刻、世界大会開催会場「錦江飯店」での前夜祭パーティで対戦組み合わせの抽選が行われ、翌日から5日間の対戦が始まる。当時大竹英雄、武宮正樹、依田紀基9段などの日本勢、聶衛平、馬暁春、常昊9段らの中国勢に対し、曺薫玄、劉昌赫9段などの韓国勢が勢いを増しており、まさに三国志の時代であった。熱戦の模様は、対局場のすぐ脇に設置されたテレビモニターで全局観戦できたので、主に日本選手の対局を見たが、長時間釘付けになることもできず、会場の雰囲気を垣間見る程度に終わり、勝負の結果など確認できなかった。なお、昼の休憩時にホテルの側で大竹さん、武宮さんに出会い挨拶を交わした際、武宮さんが私の妻に「碁はやらないの?面白いよ」とにこやかに声を掛けられたことが印象的で、妻は今もその言葉を記憶し、テレビに同9段が映ると必ずその口調を真似ている。

 上海での4日間のうち自由時間があり、妻を連れて戦時中私が通った国民学校や共同租界の旧居住地を尋ねたが、都市開発の進展で昭和40年の訪中当時とは相当の様変わりをしており、遂に旧居には辿り着くことができなかったのは残念であった。(続)
*写真は上海のホテルでの面談風景

赤沢敬之

私と囲碁(36) 週刊ポスト「囲碁天狗サロン」での対局(下)

| 2015年4月17日

 対局が中盤に入り、白の厚みが地模様になりかけた。置石のハンディが徐々に消え去ろうとしている。こうなってはいけない。やさしい手つきで厳しい手を打つ滝口さんの追い込みに、再三の反撃のチャンスを逸し、ついに白に最後の大場に廻られてしまい、5目の負けとなってしまった。川熊さんの観戦記で紹介された滝口さんの指摘によれば、黒は3回のチャンスがあったとのこと。最近並べなおしてみると、確かにそのとおりである。なぜあのとき必要以上に守りの姿勢に終始してしまったのか、やはり「プロの指導碁を何十局も経験して慣れている人でも雑誌に載る一戦となると格別に緊張するようだ」との観戦子の批評が当たらずとも遠からずだったのだろうか。いい勉強をさせてもらったものだ。

 なお、これnew_囲碁天狗サロン02には後日談がある。昭和36年(1961)の弁護士登録後、検事に任官した同期の逢坂貞夫君の任地には仕事で出かけた際に表敬訪問をして、時間や都合が許すときは一局手合わせすることもあった。岡山、大津、山口に続き、平成5年(1993)当時、同君は熊本地検の検事正を勤めていた。その年の8月末、山口在住の依頼者の相談を兼ねて、山口から熊本に足を伸ばすこととなった。逢坂君には前年発行された「週刊ポスト」の1992年4月1日号と8日号を送り、「残念だったが、いつもの君らしくない遠慮振りだったな」との慰めの言葉をもらっていたが、来訪の件を伝えると、「地検の囲碁クラブの事務官たちに『ポスト』を見せたところ、みんながコピーして研究している。君が来るのを手ぐすね引いて待っているぞ」とのことで、嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な思いをさせられたのであった。

 やがて8月末、熊本を訪れ、初日は阿蘇山麓の雄大な山並みに囲まれたゴルフ場でプレーを始めたところ、折り悪しく豪雨と雷に襲われ、午前でプレーは断念。急遽会場を変えて、事務官たちを交え碁盤を囲むことと相成った。このとき何局の手合わせをしたのか記憶にはないが、生憎く当日、例の棋譜を熱心に研究していたという方が不在で、翌日宿で打つこととなった。そして翌日、その事務官の方と対戦。向う二子だったと思うが、熱心な「研究」に圧倒され、僅差で負けてしまった。思わぬ副産物が今なおなつかしく思い起こされるのである。(続)
*写真は「週刊ポスト」1992年4月8日号

 

赤沢敬之

私と囲碁(35) 週刊ポスト「囲碁天狗サロン」での対局(上)

| 2015年4月5日

new_囲碁天狗サロン01 平成2年(1990)から同4年(1992)にかけて、私は日弁連司法問題対策委員長や司法シンポジウム運営委員長の仕事で多忙を極め、大阪・東京の往来が重なり、囲碁に集中する時間が制約されていた。「爛柯」の月例会での対局や新幹線車中での囲碁雑誌の閲読がせいぜいであった。4月には司法シンポの準備のためドイツの民事裁判の実情調査団の団長として現地訪問の予定が組まれていた。

 このような時期に思わぬ話が舞い込んできた。当時囲碁ファンに好評を博していた「週刊ポスト」の「囲碁天狗サロン」への出場の話である。各界の腕自慢が小川誠子6段や小林千寿6段らの女流棋士に置碁の挑戦をする企画で、江崎誠致さんや白川正芳さんらの作家や確か東京の弁護士も登場していたように思う。どういう成り行きで私が出ることになったのか記憶にないが、あるいは「爛柯」のどなたかの推薦だったのかも知れない。自信はないものの折角のよい機会に「好機逸すべからず」の思いで、応じさせていただくこととなった。

 平成4年(1992)3月11日午後、会場の「爛柯」に赴き、観戦記者の川熊博行氏から私の囲碁歴などの取材を受けたあと、和室に移り、関西棋院のマドンナ滝口磯子6段との3子局が始まった。滝口さんとは初対面であったが、お父上の芦田礼三先生(医師)とは「爛柯」の例会で何回かお手合わせの機会があり、偶然にもその3日前に対局したばかりであった。

 さて、対局は、白1の小目に黒2の一間高ガカリ、白3ケイマ受け、黒4・6のツケヒキから始まった。次は白コスミの守りなら普通の定石だが、予期に反し白7ハサミの変化球が投じられたことから、私の目論見が外され少々戸惑ってしまった。以後辛うじて置石のリードを保って中盤に至ったが、右辺の折衝で仕損じがあり、白の中央が大きな地模様になり少々慌ててしまった。(続)*写真は「週刊ポスト」1992年4月1日号

赤沢敬之

私と囲碁(34) 秀行塾開講記念「プロアマオープン早碁トーナメント」(下)

| 2015年3月29日

new_天満倶楽部_02 さて対局は、オール互先で持ち時間は1手30秒の時間切れ負け、というアマにとってはトンでもなく厳しいルールであった。もちろんそんな対局を経験したこともない私にとっては、せめて100手までツブされずに打てれば上々と覚悟していた。

 やがて抽選の結果、対戦相手が決まったが、なんとそれが早見え早打ちの天才少年15歳の結城聡4段であった。しかも悪いことに私の白番である。

 エライことになったと思ったが、とにもかくにも慎重にと心構え対局を開始した。しかし、最初からの秒読みが打つ手を急がせ考える暇もない。しかも相手は直ちに応手を返す。

 なんとか序盤を大怪我もなく乗り切ったものの、50手から80手位の中盤戦の大石の攻防戦になると、局面の不利に加え、秒読みに追われる焦りが嵩じ、やがて100手に達する頃には、玉砕への道をまっしぐらに歩むこととなったのも当然の結果であり、むしろ清々しい気分でさえあったことを思い出す。
 
 この対局のあと、トーナメント戦がどのように展開されたのか、優勝者は誰だったのか今は全く記憶の底から消え去っている。ただ当日の棋譜は、帰宅後思い出して確か87手まで記録したのだが、一昨年の事務所の移転に紛れ見当たらなくなっている。その代わりに移転の整理の際、「天満倶楽部」の同年5月の会報を発見し、この記事の参考とすることができたのは幸いであった。また、この会報の出場選手名簿に、私は「6段大阪弁護士会チャンンピオン」と紹介されていたことを知った。

 なお、NHK杯囲碁トーナメントで6年間に5回優勝の「早碁の神様」結城9段との再会は、その後22年を経た平成23年のことであった。(続)

赤沢敬之

私と囲碁(33) 秀行塾開講記念「プロアマオープン早碁トーナメント」(上)

| 2015年3月19日

new_天満倶楽部_01 1987(昭和62)年春のことだった。たしか弁護士会の役員からだったかと思うが、藤沢秀行名誉棋聖がアマチュア向けに門戸を開き「秀行塾」と銘打って囲碁指導を始めるに当たり、大阪で開講記念のイベントとして「プロアマオープン早碁トーナメント」を開催するので、私に出場して欲しいとの話があった。

  青天の霹靂のようなものだったが、恐らく主催者からの推薦依頼によるものだったのであろう。丁度この前年度の大阪弁護士会第9回囲碁大会で私が2回目の優勝をしたところだったので白羽の矢が立ったものと思われる。

  また、その前年の満50歳の誕生日に石井邦生先生の推薦で日本棋院から6段の免状を頂いたばかりだったので、貴重な経験になると思い、おこがましくもこの話に乗ることとしたのであった。資料はもらっていなかったので、果たしてどのような顔ぶれが集まるのか見当もつかず、成り行きまかせの無謀なチャレンジだった。

 同年5月10日(日)午後、森野節男9段主宰の「天満倶楽部」に赴き、内容記載の会報をもらったところ、双方8名づつでプロ側は14歳から20歳までの若手棋士、アマ側は田口哲朗元アマ本因坊はじめ各界の強手揃いであった。

  会場設営の碁盤並べなどは若手棋士が担当していたが、中に甲斐甲斐しく立ち働いていた美少女の姿が印象的であった。この乙女がその後女流本因坊4連覇を果たし、今私が逢坂貞夫元大阪高検検事長主宰の「行友会」で時々教えを請う吉田美香8段の16歳初段の頃の姿であった。(続)

 

赤沢敬之

私と囲碁(32) 棋譜並べ⑥ー本因坊秀策全集

| 2015年3月8日

new_20150213_175117 さて、私の「全集並べ」もようやく「本因坊秀策全集」に辿り着くこととなった。平成9年12月頃、たまたま元関西大学囲碁部に所属していたという私の依頼者から平成7年発行の「完本 本因坊秀策全集5巻」を頂いたので、翌10年12月から事務所に置いて折りを見て並べることにした。忙しい仕事の合間なので毎日1局とは無理で、ボチボチ碁盤に並べるうちに、アッという間に15年の月日が経ってしまい、ようやく平成25年3月に437局が完了した。この棋譜は碁盤に並べたあとその都度パソコンに入力していたので、今も必要に応じ再現して見ることができるのは便利である。

 それまでにも秀策の碁は、井上幻庵因碩との「耳赤の一局」など有名棋譜は解説書で接してはいたが、全局を並べてみて、元禄の道策と並び称されている幕末の棋聖秀策の碁風の特徴がなんとなく理解できたような気がする。絢爛華麗な道策とは対照的に、秀策の碁は堅実にして明快、平明さの中に強さが隠されている。現代においても参考になると評されているが、確かにアマチュアの勉強にはもってこいの棋譜揃いである。お城碁19連勝無敗の実績を残しながら同門のコレラ患者の看病の中で自らも罹患し34歳の若さで亡くなった惜しまれる人格の人であった。

 「全集」並べはこれをもって終わり、以後は専ら新聞や囲碁雑誌の最新棋譜に移ることとなるのだが、棋譜の数たるやあまりにも多く、とても追いきれるものでないので、棋聖戦、名人戦、本因坊戦とNHK杯に絞って並べることにしているが、新聞切抜きが増える一方である。(続)

赤沢敬之

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